表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第1章 忘却の森

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/49

第12話 夜明け

 戦いは終わった。

 だが、工房には重苦しい沈黙と、鉄錆の匂いだけが残されていた。


「……くっ、血が止まらん……!」


 崩壊した工房の中、カインはベッドに横たえたマリアのそばで、必死に手を動かしていた。


 マリアの左肩は、獣の牙によって無残に食い破られている。

 カインは騎士として応急処置の心得はあったが、これほどの深手、しかも魔獣による裂傷を癒やす専門的な治癒魔法は使えない。


「薬草……止血薬はどこだ……!」


 カインは、血に濡れた手で、床に散らばった薬草の瓶を漁った。

 割れていない瓶を見つけ、中身の軟膏を震える指ですくい取る。

 マリアの傷口に塗り込み、清潔な布で強く圧迫する。


「う……っ」


 無意識の痛みに、マリアの顔が苦痛に歪む。

 その顔色は、雪のように蒼白で、唇からは血の気が失せている。

 呼吸は浅く、今にも途切れそうだ。


「すまない……すまない、マリア……!」


 カインは、自分を呪った。

 守るつもりだった。彼女だけは、何があっても守り抜くと決めていたのに。


 あろうことか、自分の牙で、彼女を貫いた。

 彼女が身を挺して自分を止めなければ、自分は彼女を食い殺していたかもしれない。


「死なないでくれ……頼む……」


 一通りの処置を終えても、マリアの意識は戻らない。


 出血はなんとか抑え込んだが、失った血の量が多すぎる。

 そして何より、彼女はあの巨大な呪いを鎮めるために、自身の魔力のほとんどを使い果たしてしまっているようだった。


「……」


 工房に、重苦しい沈黙が落ちる。


 カインは、マリアの蒼白な顔を見つめ続けた。


 まぶたは固く閉じられ、胸の上下は恐ろしいほどに浅い。



* * *



 長い、長い時間が過ぎていった。


 壊れた壁の隙間から差し込んでいた青白い月光が薄れ、やがて東の空が白み始める。

 朝の光が、工房の惨状と、動かない少女を無慈悲に照らし出す。


 それでも、彼女は目覚めない。


 太陽が高く昇り、また西へと傾いていく。

 風が吹き込み、雪が舞い込む寒さの中でも、カインは彫像のように動かなかった。


 喉が渇き、腹が減り、疲労で意識が朦朧とする。


 だが、カインはその場を離れようとはしなかった。

 もし、自分が目を離した一瞬の隙に、彼女の息が止まってしまったら。

 その恐怖が、彼を椅子に縛り付けていた。



* * *



 再び、夜が来た。


 カインは、ベッドの脇の椅子に座り、マリアの冷え切った手を、自身の両手で包み込むように握りしめていた。


 一睡もせず、食事も摂らず。

 ただひたすらに、自分の体温を彼女に移そうとするかのように

 彼女の手から、命の温もりが消えてしまわないことを、祈るように確かめ続けていた。


「……戻ってきてくれ」


 乾いた唇から、言葉がこぼれ落ちる。

 それは、詫びの言葉ですらなかった。


 もっと根源的な、魂の叫び。


「……まだ、伝えていないんだ」


 彼女の淹れたお茶が、どれほど心を落ち着かせてくれたか。

 彼女の笑顔が、どれほど自分を人間らしくさせてくれたか。


 ――この短い日々が、自分にとってどれほど幸福だったか。


「……何も、伝えていないのに……」


 こんな形で、自分の手で奪って終わるなんて、あんまりだ。

 そんなことは、許されない。


「頼む……マリア……」


 その祈りは、愛しい人の喪失に怯える一人の男の慟哭として、凍てついた工房に響いていた。



* * *



(……ここは、どこ?)


 マリアが目を開けると、そこは真っ暗な闇の中だった。


 上も下もない。何もかもが曖昧な、黒い空間。


(カインさん……?)


 遠くに、誰かが立っているのが見えた。


 銀灰色の髪。広い背中。

 ――カインだ。


 彼は、マリアに背を向けて立ち尽くしている。


(カインさん!)


 マリアは走った。


 よかった、無事だったんだ。

 早く、彼の顔が見たい。抱きしめたい。


 マリアはカインの背中に追いつくと、意を決して、その背中に素手で触れた。


「カインさん、私……」


 ――しかし。

 マリアの手が触れた瞬間、カインの輪郭が、ドロリと溶け出した。


「え……?」


 ヒトの形が崩れていく。

 泥のように崩れ落ちた銀灰色の髪の下から、現れたのは——。


「グルルル……」


 漆黒の毛並み。燃え盛るような赤い瞳。

 あの、理性を失った巨大な黒狼だった。


(ひっ……!)


 マリアが悲鳴を上げる間もなく、黒狼は巨大な顎を開き、マリアに襲いかかった。


「っ……!!!!」


 肩を食い破られる激痛。肉が裂ける音。熱い血が噴き出す感覚。


 痛い。熱い。怖い。


「やめて……カインさん、やめて……!」


 マリアは必死に訴えるが、黒狼は止まらない。


 その赤い瞳には、マリアへの慈しみなど欠片もない。

 ただ、目の前の肉を喰らう獣の本能だけがある。


(私が……失敗したから?止められなかったから?嫌だ、やめて……!)


 視界が赤く染まっていく。

 意識が、痛みと恐怖の沼に沈んでいく。


 もう、助からない。このまま、この暗闇の中で、彼に殺されるんだ。


 ——その時だった。


『……てくれ』


 どこか遠くから、声が聞こえた。獣の唸り声ではない。

 掠れた、悲痛な、人間の声。


『……まだ、……ていな……んだ……』


(……え?)


 闇の向こうから、一筋の熱が届く。

 右手に、誰かがしがみついているような、必死な温もり。


『頼む……マリア……っ!』


 泣いている。

 あの強い騎士様が、子供のように震えて、名前を呼んでいる。


(カイン、さん……?)


 マリアに噛みつく黒狼の像が、揺らぎ始める。

 これは、偽物だ。本物の彼は、私を傷つけたりしない。


 今も、私を呼んでくれている。


『戻ってきてくれ……』


 その声が、闇を切り裂く命綱となって、マリアの元へ垂らされた。


(……戻らなきゃ)


 マリアは、痛む体を引きずり、その声のする方へ手を伸ばした。


 喰らわれる恐怖よりも、彼を一人残していくことのほうが、怖かったから。

 あんなに悲しい声で、彼を泣かせたくないから。


(待ってて……カインさん)


 マリアは、その見えない手を、ギュッと握り返した。


 黒い闇に、ヒビが入る。

 ガラスが割れるような音と共に、白い光が溢れ出し——。



* * *



「……っ、ぅ……」


 乾いた唇から、小さな呻き声が漏れた。


「マリア!?」


 椅子を蹴倒すような音と共に、誰かが覆いかぶさってくる気配。

 マリアは、重いまぶたを、ゆっくりと持ち上げた。


 ぼやけた視界の先に、ボロボロの天井が見える。


 そして、視界いっぱいに、やつれ果てたカインの顔があった。

 目の下には濃い隈があり、その金色の瞳は真っ赤に充血している。


「……カイン、さ……」


「ああ、ああ……!気がついたか……!」


 カインは、マリアの手を両手で包み込み、その場に崩れ落ちるように額を押し付けた。

 彼の手から、肩から、全身から、安堵の震えが伝わってくる。


「よかった……本当によかった……!」


 充血した瞳を潤ませ、けれど涙をこらえるように顔を歪める彼の姿。

 マリアは、肩の激痛も忘れて、愛おしさが込み上げてくるのを感じた。


 彼は、ずっとそばにいてくれたのだ。

 私が悪夢の中にいる間、ずっと、この手で私を繋ぎ止めてくれていたのだ。


「すまない……!本当に、すまなかった……!!俺は……!!」


 カインは、マリアの意識が戻った安堵と、それ以上の罪悪感に押し潰されそうになりながら、掠れた声で謝罪を繰り返した。


 自分の牙が彼女を貫いた感触。その鮮血の赤。

 謝っても謝りきれない。一生かけても償いきれない過ち。


 けれど、マリアはそんな彼の言葉を、遮るように動いた。


 彼女は、感覚のない左手を——獣に噛み砕かれたはずの腕を、懸命に持ち上げた。

 激痛が走る。けれど、構わなかった。


 そっと、カインの頭に触れる。銀灰色の髪の感触。

 温かい。生きている。獣の毛皮じゃない。


 マリアは、にこりと、弱々しく微笑んだ。

 あの時——意識を失う直前に言った言葉を、今度はしっかりと、彼に届けるために。


「……おかえりなさい、カインさん」


 その言葉を聞いた瞬間、カインの瞳から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。

 張り詰めていた糸が切れ、騎士としての鎧が砕け散ったのだ。


 彼は、マリアの掌に自分の頬を押し付け、震える声で、その赦しに応えた。


「……ああ。……ただいま、マリア」


 窓の外では、いつの間にか嵐が過ぎ去り、朝の光が雪原を照らしていた。

 二人の長い夜が、ようやく明けたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ