第12話 夜明け
戦いは終わった。
だが、工房には重苦しい沈黙と、鉄錆の匂いだけが残されていた。
「……くっ、血が止まらん……!」
崩壊した工房の中、カインはベッドに横たえたマリアのそばで、必死に手を動かしていた。
マリアの左肩は、獣の牙によって無残に食い破られている。
カインは騎士として応急処置の心得はあったが、これほどの深手、しかも魔獣による裂傷を癒やす専門的な治癒魔法は使えない。
「薬草……止血薬はどこだ……!」
カインは、血に濡れた手で、床に散らばった薬草の瓶を漁った。
割れていない瓶を見つけ、中身の軟膏を震える指ですくい取る。
マリアの傷口に塗り込み、清潔な布で強く圧迫する。
「う……っ」
無意識の痛みに、マリアの顔が苦痛に歪む。
その顔色は、雪のように蒼白で、唇からは血の気が失せている。
呼吸は浅く、今にも途切れそうだ。
「すまない……すまない、マリア……!」
カインは、自分を呪った。
守るつもりだった。彼女だけは、何があっても守り抜くと決めていたのに。
あろうことか、自分の牙で、彼女を貫いた。
彼女が身を挺して自分を止めなければ、自分は彼女を食い殺していたかもしれない。
「死なないでくれ……頼む……」
一通りの処置を終えても、マリアの意識は戻らない。
出血はなんとか抑え込んだが、失った血の量が多すぎる。
そして何より、彼女はあの巨大な呪いを鎮めるために、自身の魔力のほとんどを使い果たしてしまっているようだった。
「……」
工房に、重苦しい沈黙が落ちる。
カインは、マリアの蒼白な顔を見つめ続けた。
まぶたは固く閉じられ、胸の上下は恐ろしいほどに浅い。
* * *
長い、長い時間が過ぎていった。
壊れた壁の隙間から差し込んでいた青白い月光が薄れ、やがて東の空が白み始める。
朝の光が、工房の惨状と、動かない少女を無慈悲に照らし出す。
それでも、彼女は目覚めない。
太陽が高く昇り、また西へと傾いていく。
風が吹き込み、雪が舞い込む寒さの中でも、カインは彫像のように動かなかった。
喉が渇き、腹が減り、疲労で意識が朦朧とする。
だが、カインはその場を離れようとはしなかった。
もし、自分が目を離した一瞬の隙に、彼女の息が止まってしまったら。
その恐怖が、彼を椅子に縛り付けていた。
* * *
再び、夜が来た。
カインは、ベッドの脇の椅子に座り、マリアの冷え切った手を、自身の両手で包み込むように握りしめていた。
一睡もせず、食事も摂らず。
ただひたすらに、自分の体温を彼女に移そうとするかのように
彼女の手から、命の温もりが消えてしまわないことを、祈るように確かめ続けていた。
「……戻ってきてくれ」
乾いた唇から、言葉がこぼれ落ちる。
それは、詫びの言葉ですらなかった。
もっと根源的な、魂の叫び。
「……まだ、伝えていないんだ」
彼女の淹れたお茶が、どれほど心を落ち着かせてくれたか。
彼女の笑顔が、どれほど自分を人間らしくさせてくれたか。
――この短い日々が、自分にとってどれほど幸福だったか。
「……何も、伝えていないのに……」
こんな形で、自分の手で奪って終わるなんて、あんまりだ。
そんなことは、許されない。
「頼む……マリア……」
その祈りは、愛しい人の喪失に怯える一人の男の慟哭として、凍てついた工房に響いていた。
* * *
(……ここは、どこ?)
マリアが目を開けると、そこは真っ暗な闇の中だった。
上も下もない。何もかもが曖昧な、黒い空間。
(カインさん……?)
遠くに、誰かが立っているのが見えた。
銀灰色の髪。広い背中。
――カインだ。
彼は、マリアに背を向けて立ち尽くしている。
(カインさん!)
マリアは走った。
よかった、無事だったんだ。
早く、彼の顔が見たい。抱きしめたい。
マリアはカインの背中に追いつくと、意を決して、その背中に素手で触れた。
「カインさん、私……」
――しかし。
マリアの手が触れた瞬間、カインの輪郭が、ドロリと溶け出した。
「え……?」
ヒトの形が崩れていく。
泥のように崩れ落ちた銀灰色の髪の下から、現れたのは——。
「グルルル……」
漆黒の毛並み。燃え盛るような赤い瞳。
あの、理性を失った巨大な黒狼だった。
(ひっ……!)
マリアが悲鳴を上げる間もなく、黒狼は巨大な顎を開き、マリアに襲いかかった。
「っ……!!!!」
肩を食い破られる激痛。肉が裂ける音。熱い血が噴き出す感覚。
痛い。熱い。怖い。
「やめて……カインさん、やめて……!」
マリアは必死に訴えるが、黒狼は止まらない。
その赤い瞳には、マリアへの慈しみなど欠片もない。
ただ、目の前の肉を喰らう獣の本能だけがある。
(私が……失敗したから?止められなかったから?嫌だ、やめて……!)
視界が赤く染まっていく。
意識が、痛みと恐怖の沼に沈んでいく。
もう、助からない。このまま、この暗闇の中で、彼に殺されるんだ。
——その時だった。
『……てくれ』
どこか遠くから、声が聞こえた。獣の唸り声ではない。
掠れた、悲痛な、人間の声。
『……まだ、……ていな……んだ……』
(……え?)
闇の向こうから、一筋の熱が届く。
右手に、誰かがしがみついているような、必死な温もり。
『頼む……マリア……っ!』
泣いている。
あの強い騎士様が、子供のように震えて、名前を呼んでいる。
(カイン、さん……?)
マリアに噛みつく黒狼の像が、揺らぎ始める。
これは、偽物だ。本物の彼は、私を傷つけたりしない。
今も、私を呼んでくれている。
『戻ってきてくれ……』
その声が、闇を切り裂く命綱となって、マリアの元へ垂らされた。
(……戻らなきゃ)
マリアは、痛む体を引きずり、その声のする方へ手を伸ばした。
喰らわれる恐怖よりも、彼を一人残していくことのほうが、怖かったから。
あんなに悲しい声で、彼を泣かせたくないから。
(待ってて……カインさん)
マリアは、その見えない手を、ギュッと握り返した。
黒い闇に、ヒビが入る。
ガラスが割れるような音と共に、白い光が溢れ出し——。
* * *
「……っ、ぅ……」
乾いた唇から、小さな呻き声が漏れた。
「マリア!?」
椅子を蹴倒すような音と共に、誰かが覆いかぶさってくる気配。
マリアは、重いまぶたを、ゆっくりと持ち上げた。
ぼやけた視界の先に、ボロボロの天井が見える。
そして、視界いっぱいに、やつれ果てたカインの顔があった。
目の下には濃い隈があり、その金色の瞳は真っ赤に充血している。
「……カイン、さ……」
「ああ、ああ……!気がついたか……!」
カインは、マリアの手を両手で包み込み、その場に崩れ落ちるように額を押し付けた。
彼の手から、肩から、全身から、安堵の震えが伝わってくる。
「よかった……本当によかった……!」
充血した瞳を潤ませ、けれど涙をこらえるように顔を歪める彼の姿。
マリアは、肩の激痛も忘れて、愛おしさが込み上げてくるのを感じた。
彼は、ずっとそばにいてくれたのだ。
私が悪夢の中にいる間、ずっと、この手で私を繋ぎ止めてくれていたのだ。
「すまない……!本当に、すまなかった……!!俺は……!!」
カインは、マリアの意識が戻った安堵と、それ以上の罪悪感に押し潰されそうになりながら、掠れた声で謝罪を繰り返した。
自分の牙が彼女を貫いた感触。その鮮血の赤。
謝っても謝りきれない。一生かけても償いきれない過ち。
けれど、マリアはそんな彼の言葉を、遮るように動いた。
彼女は、感覚のない左手を——獣に噛み砕かれたはずの腕を、懸命に持ち上げた。
激痛が走る。けれど、構わなかった。
そっと、カインの頭に触れる。銀灰色の髪の感触。
温かい。生きている。獣の毛皮じゃない。
マリアは、にこりと、弱々しく微笑んだ。
あの時——意識を失う直前に言った言葉を、今度はしっかりと、彼に届けるために。
「……おかえりなさい、カインさん」
その言葉を聞いた瞬間、カインの瞳から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。
張り詰めていた糸が切れ、騎士としての鎧が砕け散ったのだ。
彼は、マリアの掌に自分の頬を押し付け、震える声で、その赦しに応えた。
「……ああ。……ただいま、マリア」
窓の外では、いつの間にか嵐が過ぎ去り、朝の光が雪原を照らしていた。
二人の長い夜が、ようやく明けたのだった。




