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あなたの孤独をほどくまで  作者: らぴな
第1章 忘却の森

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第11話 たとえ、その牙が貫いても

「グオオオッ!」


 地を這うような、人ならざる咆哮が、工房を震わせた。

 理性を失った巨大な黒狼——カインは、目の前に立つ脅威に向け、その赤い瞳をギラつかせた。


「な……なんだ、これは……!?」


「呪いが、暴走したのか……!?」


 侵入者の男たちが、目の前の圧倒的な存在を前に、恐怖に後ずさる。

 杖を持った男が、震える声を張り上げて叫ぶ。


「怯むな!ついに魔獣に成り果てたか!元より殺すべき反逆者、遠慮はいらん、殺せ!」


 騎士の一人が、男の言葉に背中を押され、震える剣を黒狼に突き立てる。

 だが、その刃は、黒狼の黒い毛皮に触れる直前、体から放たれるおぞましい熱気によって、まるで飴細工のように溶かされ、弾かれた。


「グルアアアッ!」


 黒狼は、その巨大な前足の一薙ぎで、騎士を鎧ごと工房の外壁まで殴り飛ばした。


「ひいっ……!」


「ば、化け物だ!」


 黒狼は、マリアを守るためではない。


 ただ、目の前の敵を狩るため、本能のままにじりじりと距離を詰める。

 その圧倒的な質量と、赤い瞳から放たれる純粋な殺気に、男たちはじりじりと扉の外——赤い月光が降り注ぐ、雪の上へと押しやられていった。


 工房の外で、一方的な蹂躙が始まった。


 マリアは、工房の入口、瓦礫の陰から、その光景を呆然と見つめていた。


氷槍アイスランス!」


 杖の男が放つ氷の槍が、黒狼の背中に突き刺さる。

 だが、黒狼は意に介する様子もなく、その氷を体毛ごと熱気で蒸発させながら、男に襲いかかる。


「ぐ、あああっ!」


 騎士の剣が脇腹を浅く斬り裂いても、黒狼――カインは痛みすら感じていないかのように、その騎士の腕に噛みついた。


(カインさん……違う……。あれは、カインさんじゃない……)


 マリアの目には、理性を失い、ただ目の前の敵を破壊する魔獣の姿だけが映っていた。


 やがて、数の不利を悟った杖の男が、片腕を失いかけた騎士を引きずりながら、叫んだ。


「だめだ!撤退だ!森へ逃げろ!」


「こ、こんな魔獣、聞いていないぞ!」


 男たちは、武器も盾も放り出し、我先にと森の暗闇へと逃げていく。

 工房の前には、静寂が戻った。


 静まり返った工房の前。

 赤い月光だけが、雪の上に点々と散る血と、その中心に立つ巨大な黒狼を、不吉に照らし出していた。


「……グルルルル……」


 黒狼は、荒い息を繰り返していた。


 敵は、いなくなった。

 だが、その赤い瞳から、混沌の光は消えない。

 本能が、まだ次の獲物を求めている。


 ゆっくりと、黒い巨体が、マリアの方へ振り返った。


「……あ……」


 マリアは息を呑んだ。


 その赤い瞳には、もう、マリアを守るべき対象と見る光はなかった。

 ただ、そこに動くものがいる。

 

 その、飢えた魔獣の瞳だった。


「カイン、さん……?」


 マリアが、か細い声で呼びかける。


「グルルル……」


 返ってきたのは、獲物を見つけた魔獣の、低い唸り声。

 カインが、マリアに向かって、一歩、また一歩と、雪を踏みしめながら近づいてくる。


 マリアは、恐怖で後ずさった。

 背中が、工房の冷たい壁にぶつかる。もう、逃げ場はない。


 黒狼が、マリアの目の前に立ち、その巨大な口を開けた。

 並び立つ鋭い牙。そこから滴る唾液。


 ――圧倒的な死の匂い。


(あ、……)


 頭が真っ白になった。

 思考よりも先に、生存本能が警鐘を鳴らす。けれど、足がすくんで動かない。


「ガアアッ!!」


 黒狼が跳躍した。

 マリアの小さな体が、なす術もなく雪の上に押し倒される。


 重い。熱い。怖い。


「……っ!」


 次の瞬間、鋭い痛みがマリアの左肩を貫いた。


「あ……ぐぅ……!」


 噛みつかれた。肉が裂け、骨が軋む音。

 熱い牙が、マリアの体に深々と突き刺さる。


 激痛で意識が飛びそうになる。


 目の前にあるのは、自分を食らおうとする、禍々しい黒い毛並み。

 圧倒的な死の匂いと、破壊の衝動。


(違う……これは、カインさんじゃない……)


 けれど、マリアは薄れゆく意識の中で、直感した。

 この暴れ狂う獣の殻の奥底に――あの不器用で、私を守ろうとしてくれた優しい人が、閉じ込められている。

 この黒い嵐の中で、彼自身もまた、助けを求めている気がした。


(助けなきゃ……。この獣から、あの人を……取り戻さなきゃ……)


 マリアは、激痛に震える素手を、必死に持ち上げた。


 逃れようとするのではない。

 自分に噛み付いている、その巨大な頭を、抱きしめるために。


(おねがい……。元に……戻っ、て……)


 マリアの腕が、黒狼の首に回される。

 彼女は、牙を突き立てられたまま、祈るようにその頬を、黒い毛並みに押し付けた。


「……カイン、さん……」


 マリアの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは、月の光を弾いてきらりと光り、黒狼の鼻先に、ぽつりと落ちた。


 ——ピタリ。


 黒狼の動きが、止まった。


 暴れ狂っていた魔力の奔流が、涙が落ちた一点から、急速に静まっていく。

 マリアの力と、彼女の想いが、カインの呪いの核に届いたのか、あるいは。


「カイン、さん……もど、ってき、て……」


 マリアは、血の混じった息で、優しく語りかけた。


「おねがい……」


 その必死な願いが届いたとでもいうのか。


 涙が触れた地点から、サラサラと、黒狼の剛毛が砂のように崩れ、抜け落ちていく。

 禍々しい黒色が消え、巨大な体躯が縮んでいく。


 数秒後。


 マリアにのしかかっていた重量感が、人のそれへと変わった。


「……ぁ……」


 マリアの肩に、顔を埋めるようにしていた人物が、恐る恐る顔を上げた。


 灰色の髪。黄金の瞳。

 人間の姿に戻った、カインだった。


 だが、その表情は、安堵とは程遠かった。

 彼は、自分の口元が赤く濡れていることに気づき、次いで、目の下に横たわるマリアの姿を見た。


 彼女の肩口は無残に食い破られ、そこからドクドクと鮮血が溢れ出している。

 そして、自分の手が、口が、その血で汚れている。


「…………」


 カインの顔から、一気に血の気が引いた。


 呆然と、マリアを見つめる。

 その表情は、信じられないものを見た絶望と、「やってしまった」という取り返しのつかない後悔で、悲痛に歪んでいた。


 マリアは、そんなカインを見て、薄く微笑んだ。

 痛みで霞む視界の中で、愛しい人の顔を焼き付けるように。


「カインさん……」


 震える手が、カインの蒼白な頬に触れる。


「……おかえ、り……な、さ……」


 その言葉を最後に、マリアの手がパタリと雪の上に落ちた。

 瞳が閉じられ、意識が闇へと落ちていく。


「……マリア……?」


 カインの声が震えた。 返事はない。

 ただ、彼女の肩から溢れる血だけが、止まることなく流れ続けている。


「マリア……!!!」


 カインの絶叫が、夜の森に響き渡った。


 ふと見上げれば、空の月は、いつの間にか不吉な赤色を失い、元の清冽な白い満月に戻っていた。

 だが、その美しい月光に照らされた雪原は、マリアから流れ出た血によって、先ほどの赤き月の光と同じように、鮮烈な赤色で染まっていた。

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