第10話 脅威と赤月
三日後の夜。
工房は、砦と化していた。
二人は昼間のうちに、工房のすべての窓をありったけの木材で打ち付けた。
わずかな隙間さえも古い布地を詰め込んで、不吉な月光が差し込まないよう、できる限りの備えを整えていた。
外は、雪こそ止んでいたが、森の木々が地鳴りのようにざわめくほど、風が強まってきている。
清冽な白い満月が中天にかかる。
その光が、塞いだ窓の隙間から、かろうじて糸のように漏れ入っていた。
工房の中は、息を詰めるような緊張に満ちている。
パチ、パチ、と暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく響いた。
カインは、人間の姿で、工房の奥——窓から最も遠く、月光が届かない書庫に近い壁際に、背を預けて立っていた。
月が赤くないうちは、呪いの疼きもない。
彼は完全に聖銀騎士団長カインとしての理性を保っていた。
だが、その表情は硬い。
腕を組み、これから訪れるかもしれない赤月という未知の脅威に対し、静かに警戒を続けているかのようだった。
マリアも、祖母の手袋をはめた手を胸の前で固く握りしめている。
彼女は、木材で塞いだ窓からわずかに漏れる白い光を見つめ、不安げに呟いた。
「……本当に、大丈夫でしょうか。このまま、朝まで……」
「ああ」
カインは、マリアを不安にさせまいと、努めて冷静な声で応えた。
「マルダス殿が遺したあのメモと、例の黒い本の記述を信じよう。あのメモは、今日この日に赤き月が到来することを正確に予見していた。そして黒い本は、この現象の脅威と、俺の呪印との関係を記していた」
カインは、閉ざされた窓を見据え、自身に言い聞かせるように強く言った。
「ならば、その本に記されていた対処法――光を遮断せよという教えも、真実のはずだ。……この壁が、我々を守ってくれる」
カインは、マリアの不安を拭うように、言葉を続けた。
「書物にあった記述は、あくまで赤い光を浴びれば理性を失う、というものだった。つまり、たとえ外で月が赤く染まったとしても、こうして屋内に立てこもり、光さえ浴びなければ、俺の呪いが暴走することはない」
「……はい」
マリアはカインの言葉にこくりと頷いた。
「そうだ。だから、朝まで、何があってもこの壁の内側から出なければ……」
カインが、そこまで言いかけた、その刹那だった。
ドカァァァン!!
工房の外壁——扉の方向で、凄まじい衝撃音と共に揺れた。
それは雷鳴とは明らかに異質の、何かが分厚い壁の外で炸裂したような、乾いた爆発音だった。
打ち付けた窓の木材が、衝撃でミシリと音を立てる。
工房全体が地響きのように揺れ、尋常ではない力が外から壁を叩いていることを示していた。
「きゃあっ!!な、なに……!?」
マリアが、短い悲鳴を上げてその場にすくみ上がる。
「まさか……!?」
カインの顔色が変貌する。
彼は、腕組みを解くと同時に床を蹴り、マリアの前に立ちはだかるように移動した。
そのまま、工房の壁に立てかけてあった護身用の剣を掴み、鞘を抜くと、工房の唯一の入口である扉に向けて構えた。
「カインさん……!?」
「マリア殿、俺の後ろへ! 離れるな!」
カインの切迫した声に、マリアは混乱するばかりだ。
何が起きているのか、誰が攻撃しているのか、全く理解が追いつかない。
カインが言い終わるか、終わらないか。
工房を揺らした予兆の次——本命が、来た。
ドガァァァン!!
今度は、工房の分厚い樫の扉そのものが、凄まじい衝撃で、蝶番ごと吹き飛んだ。
爆風と、凍てつく吹雪、そして——
扉があった場所から、闇に慣れた目に突き刺さるような、強烈な満月の光が差し込んだ。
その光は、まだ白かった。
だが、光と共に、複数の人影が工房内へ足を踏み入れた。
濡れた雪を踏む、重い軍靴の音。
「——いたぞ!」
「聖銀騎士団長、カイン!発見!」
「……っ!」
カインが、ギリ、と奥歯を噛み締める。
マリアは、カインの背中の後ろで、侵入者たちを呆然と見つめた。
(だれ……!?)
そこには、マリアが見たこともないような、物々しい装備を身につけた集団が立っていた。
全身を隙間なく覆う、冷たく光る鉄の鎧。
手には大きな盾と、人を殺めるための鋭利な剣。
そして、彼らの中心に立つ、ローブを纏った男。
彼が構える杖の先からは、先ほどの爆撃の余韻だろうか、ゆらりと陽炎のような熱気が立ち上っている。
侵入者たちは、工房の奥、錆付いた剣を抜き、マリアを背後にかばって戦闘態勢に入っているカインの姿を捉えた。
杖を持った男は、カインのその絶望的な抵抗と、彼が守ろうとしているか弱い少女の姿を見て、嘲笑うかのように杖の先を向けた。
「ようやく見つけた、反逆者め。こんな森の奥で、女なぞにかくまわれていたとはな!騎士団長も落ちぶれたものだ!」
「……反逆者……?」
マリアの頭が真っ白になる。
男が、冷酷な声で言い放つ。
「その女ごと、始末しろ!」
「させるか……!」
カインは、既に構えていた剣を握りしめ、言葉と同時に床を蹴った。
真っ先に襲い来る騎士の一人へと、その鈍らで真正面から斬りかかる。
「おらあっ!」
騎士の一人が、大剣を振りかぶって突進する。
ガギィン!!
激しい金属音が響き、火花が散る。
カインの持つ剣は古く、錆びている。まともに打ち合えば折れるのは明白だ。
だが、カインは剣と剣が接触した瞬間、手首を返して衝撃を受け流し、がら空きになった相手の脇腹へ、剣の柄を叩き込んだ。
「ぐ……!」
大剣の男が苦悶の声を上げ、膝をつく。
腐っても聖銀騎士団長。武器の性能差を、圧倒的な技量で埋めてみせた。
「な……!? こいつ——」
「怯むな!囲め!」
だが、敵は精鋭だった。
一人目が倒れると同時に、二人目、三人目が連携してカインに襲いかかる。
キィン! キィン! と、工房の中で激しい剣戟の音が響き渡る。
マリアは、目の前で繰り広げられる死闘に、ただ震えることしかできなかった。
カインは強かった。
しかし、彼は背後のマリアを守るため、一歩もその場から動くことができない。
そして何より——。
「氷槍!」
後方で杖を構えていた男が、詠唱を完了させた。
工房内の水分が瞬時に凍り付き、鋭い氷の槍となってカインの死角を襲う。
「——っ!」
カインは、前の敵を剣で弾きながら、体をひねってそれを回避しようとする。
だが、完全に避ければ、その軌道上にいるマリアに当たる。
彼はあえて回避行動を止め、肩でその氷槍を受けた。
ザシュッ!
「ぐ……!」
「カインさん!」
カインの肩が裂け、鮮血が舞う。
血が、彼の服を赤く染めた。
そして、その傷口に、吹き飛んだ扉から差し込む光——今や、その大半が不吉な赤に染まった月光が、降り注いだ。
「あ」
マリアが見上げた窓の外。
先ほどまで白かった満月が、まるで血を吸ったかのように、どす黒い赤色へと変貌していた。
赤き月が、完全に姿を現したのだ。
「ぐ……っ、ぁ……!」
赤い光を浴びたカインの動きが、目に見えて鈍る。
傷の痛みではない。
体の内側から、熱い鉛を流し込まれたような、強烈な獣の衝動が全身を駆け巡る。
理性の糸が、呪いの熱でジリジリと焼かれていく。
彼は、錆びついた剣を床に突き立て、辛うじて片膝をついた。
その表情は、ただの苦痛ではなく、内側から獣に食い破られるような、凄絶な苦悶に満ち溢れている。
「カインさん!」
マリアはたまらず、カインのそばに駆け寄った。
「しっかりして! 私の力で……!」
彼女は、カインの暴走を鎮めようと、祖母の形見である手袋を、ためらいなく脱ぎ捨てる。
「だ、ダメだ……!」
カインは、赤い月の光に理性を焼かれながらも、最後の自制心を振り絞って叫んだ。
「触るな……! あぶ、な、い……!」
彼は、床に突き立てた剣に全体重をかけ、何とか立ち上がろうともがくが、膝は震え、力が入らない。
それでも、カインは残った片手で、近づこうとするマリアを背後にかばうように、必死に押しとどめようとした。
「終わりだ。女もろとも、死ね!」
杖を持った男が、その隙を見逃さなかった。
彼が杖を振り上げ、最大級の攻撃魔法の詠唱を完了させる。
「炎球!」
「しまっ——!」
カインが叫ぶ。
ゴウ、という音と共に、杖の先から放たれた灼熱の球体が、回避の術を持たない二人を、真正面から捉えた。
カインは、膝をついたまま、とっさにマリアを抱きしめ、その体を庇う。
ドォォォン!!
凄まじい衝撃。
二人の体はひとまとまりになって吹き飛ばされ、工房の壁に叩きつけられる。
——その瞬間、カインは空中で必死に体をひねり、マリアを内側に庇いこみ、すべての衝撃を自らの背中で受け止めた。
「——が……っ!!」
ゴシャア!という鈍い音。
カインの背中が壁に激突し、古い壁板が砕け、薬草の瓶が棚から雪崩のように落ちて割れる。
カインは、マリアを抱きしめたまま、その場に崩れ落ち、ゴフ、と赤黒い血を吐いた。
「……あ……カイン、さん……?」
マリアは、カインの腕の中で、衝撃と恐怖で息もできなかった。
マリアを庇ったカインの腕は、力なくぐったりと動かなくなる。
赤い月光が、崩れた壁の穴から、血を流すカインと、彼に守られたマリアを、無慈悲に照らし出していた。
「フン。女を庇って致命傷とは、騎士の鑑だな」
杖を持った男が、ゆっくりと二人に近づいてくる。
その足取りは、獲物を追い詰めた狩人のように冷酷だった。
「だが、そこまでだ。反逆者カイン」
男が、とどめを刺すため、その杖の先をカインに向けた。
冷たい魔力が集まっていくのが、マリアにも分かった。
(いや……)
強烈な匂いが、彼女の鼻腔を突き刺す。
割れた薬草の瓶から漏れ出す嗅ぎなれた薬草の青臭さ。
それよりも強く、マリアを抱きしめるカインの腕から漂う、生々しい血の匂い。
鉄錆の、死の匂い。
(カインさんが、血を……いやだ、また、冷たくなる……カインさんが、いなくなる……)
思考が恐怖で染まる。
だが、その恐怖が彼女を突き動かした。
「——やめてっ!!」
マリアは、恐怖も、絶望も、すべてを振り払うように、カインの腕の中から這い出した。
そして、倒れたカインの前に、まるで小さな雛が親鳥を守るかのように、両手を広げて立ちはだかった。
「どけ、女!」
「いやっ! カインさんに、触らないで!」
「愚かな。ならば、お前から消えろ!」
男が、無慈悲に詠唱を完了させる。
「氷槍!」
凍てつく魔力が、マリアに向かって真っ直ぐに放たれる。
「——っ!!」
マリアは、迫り来る死を前に、恐怖で目を閉じた。
——だが。
衝撃は、いつまで経っても来なかった。
代わりに、マリアの頭上から、巨大な影が落ちた。
そして、マリアの背後から、凍てつく氷槍を受け止める、おぞましいほどの熱気が放たれた。
「……え?」
マリアが恐る恐る目を開けると、自分に向かってきたはずの氷槍は、マリアの数寸手前で、その熱気によって蒸発し、霧散していた。
マリアが、震えながら、ゆっくりと背後、カインがいた場所を振り返る。
そこには、もう、銀灰色の髪の青年はいなかった。
同じ毛色の狼でもなかった。
赤い月光を浴び、理性を失い、その毛皮を禍々しい黒に染め上げ、通常の狼の何倍はあろうかという巨体へと変貌した『何か』が、立っていた。
黄金だった瞳は、もはや理性の光を失い、燃え盛る混沌のような、不気味な赤い光を宿していた。
「グオオオッ!」
地を這うような、人ならざる咆哮が、工房に響き渡った。
「な……なんだ、それは……!?」
追手の男たちは、先ほど見ていたものとはまったく異なる、その圧倒的な存在を前に、恐怖に顔を引きつらせた。
(……カイン、さん……?)
マリアは、自分を庇うように立つ、その巨大な黒い背中を見上げていた。
さっきまで感じていた熱気は、もはや命の温もりではない。
地獄の業火のような魔力の奔流。
もう、あの穏やかな騎士の面影はどこにもない。
そこにいるのは、ただ、赤い月光に理性を焼かれた、見知らぬ魔獣だった。




