第9話 黒い本と、血塗られた月
工房の奥にある書庫は、静寂と、埃っぽい紙の匂いに包まれていた。
窓の外は既に夜の帳が下りているが、カインとマリアはランプの明かりを頼りに、山と積まれた書物と格闘していた。
「……これでもない、か」
カインが、分厚い天文学の専門書を閉じ、小さく溜息をつく。
テーブルの上には、既に読み終えた本が塔のように積み上げられている。
二人は、カインの呪いの周期と、あの日マリアがカインのうなじに見た、不吉な幾何学模様の手がかりを探していた。
「マリア殿。そちらはどうだ?」
「……まだ、見つかりません」
マリアは、棚の奥の方を中心に探していた。
彼女の狙いは明確だった。
幼い頃、祖母に隠れてこっそり見た覚えのある、あの黒い背表紙の本だ。
子供心に、見てはいけないものだと感じてすぐに閉じた、あの本の中に、カインのうなじにあった模様と似た挿絵があった気がするのだ。
(どこ……? 次は、えっと……)
マリアは踏み台に登り、棚の最上段、埃を被った一角に手を伸ばした。
指先が、冷たく、ざらりとした革の感触に触れる。
マリアは、その本を慎重に抜き出した。
他の書物とは異彩を放つ、漆黒の装丁。
タイトルは擦り切れて読めないが、そこから漂う禍々しい気配は、記憶の中のそれと同じだった。
「もしかしてこれ……カインさん、これを見てください」
マリアがテーブルにその本を広げると、カインも身を乗り出した。
「……随分と古いな。それに、タイトルも記さない、この独特な黒革の装丁……」
カインは眉をひそめた。
ただ古いだけではない。
何か、触れる者を拒絶するかのような、重く、澱んだ空気を纏っている。
「……不気味だが、だからこそ、今の俺たちに必要な『何か』が書かれている予感がする」
カインは意を決し、その重い表紙をめくった。
ページを開くと、そこには通常の魔術書にはない、不気味な挿絵や記述が並んでいた。
疫病、禁忌の儀式、そして——。
「あ!」
マリアが、あるページで声を上げた。
「これ……! この模様です!」
彼女が指差したのは、ページの端に描かれた、複雑な幾何学模様だった。
円と線が奇妙に絡み合い、見る者に不安を抱かせるその形。
間違いなく、あの日、書庫で転倒した際にカインのうなじに浮かび上がっていた印とそっくりだった。
「……確かに。俺には見えなかったが、君が言っていた特徴と一致する」
カインが険しい表情で頷く。
だが、驚くべきは、その模様そのものではなかった。
その模様は、ある巨大な円に重なるように描かれていたのだ。
挿絵の中で、その円は、禍々しい赤色のインクで塗られていた。
「……赤い、月?」
マリアが呟く。
そのページの見出しには、古めかしい文字でこう記されていた。
『血塗られた満月——赤き月の凶兆について』
「赤き月……?」
カインが、掠れた文字を目で追っていく。
「……『数年に一度、星辰の巡りにより、清冽なる白き月が、徐々に血のような赤へと染まる怪現象』……」
そこには、こう続けられていた。
その夜、大気中の魔力は異常なほどに活性化し、光の届く場所にいる魔物たちは凶暴化し、見境なく暴れまわる、と。
「……ただの天体現象ではないようだな」
カインが読み進める指が、ある一行で止まった。
そこには、先ほどの幾何学模様の印の挿絵の横に、恐ろしい警告が記されていた。
『——この赤き光は、魔物を狂わせるのみならず、呪われし者の血をも滾らせる』
『呪印を持つ者は、決してその光を浴びてはならない』
『理性の箍が外れ、呪いの力が暴走し、魂ごと獣へと堕ちるであろう』
「……!」
マリアは息を呑んだ。
「暴走……」
「……なるほど。赤い月光は、呪いの力を強制的に活性化させる作用があるということか」
カインの声が硬くなる。
今はマリアの力で呪いを抑え込められる状況だが、それはあくまで通常の状態での話だ。
もし、呪いの力を強制的に増幅させ、暴走させる赤い月の光を浴びてしまったら?
マリアの力をもってしても、抑えきれないかもしれない。
「でも……!」
マリアは、希望を探すようにページを食い入るように見た。
「ここに、書いてあります。避けられる方法が!」
『唯一の逃げ道は、光を遮断すること。厚き壁の内に隠れ、朝が来るまで、決してその不吉な光を目にしてはならない』
「……光に当たらなければ、いい……?」
「どうやら、そうらしい。この工房の壁と扉を閉ざし、光を完全に遮断すれば、やり過ごせるかもしれない」
カインの言葉に、マリアは少しだけ安堵した。
対策があるなら、準備ができる。
「問題は……」
カインが顔を上げる。
「その赤き月が、いつ来るかだ。数年に一度の現象となると、予測は……」
その時、本の間から、一枚の紙片がハラリと落ちた。
それは、栞のように挟まれていた、祖母マルダスの手書きのメモだった。
古い羊皮紙に、天体の運行図と、日付らしき数字が走り書きされている。
マリアは、震える手でそれを拾い上げ、工房の壁にかけられた暦と見比べた。
「……カイン、さん」
マリアの声が震えていることに気づき、カインが彼女の肩に手を置いた。
「どうした? いつになりそうだ」
マリアは、蒼白な顔で、暦のある一点を指差した。
「……三日後、です」
祖母のメモが示す、星辰が重なり、月が赤く染まる夜。
それは、あまりにも唐突で、残酷なほど目前に迫っていた。
「三日後……!?」
カインが絶句する。
猶予はない。
あと三日で、この森に、カインの理性を奪い去る最悪の夜が訪れる。
二人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。
窓の外では、まだ白い月が静かに輝いている。
その美しい光が、まもなく絶望の色に染まりゆく運命にあることを、二人は今、知ってしまった。




