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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

潮鳴りの柿の木

作者: 霜月ルイ
掲載日:2025/10/31

潮の音が、毎日少しずつ近づいてきている気がした。

 川の流れが重く、空気が鉄の味をしている。

 母さんはその川辺で、今日もおにぎりを握っていた。

 「これで冬を越せるね」

 その笑い声は、やけに遠く聞こえた。


 そのとき、木の枝の上から、声が降ってきた。

 「よう、カニ。いいもん持ってんな」

 見ると、猿がいた。

 柿の種を手にして、いやらしい笑みを浮かべていた。


 「取りかえっこしようぜ。俺の柿の種と、お前のそのおにぎり」

 母さんは少し考えてから言った。

 「その種は食べられないでしょう?」

 「育てりゃ実がなるさ。待てねぇのか?」

 母さんは首を傾げて笑った。

 「……いいわ。あなたがそう言うなら」


 そして交換した。

 おにぎりは猿の口に、種は母さんの手の中に。


 その夜、母さんは僕を抱きながら言った。

 「待つってことは、信じるってことなんだよ」

 僕は小さなハサミを動かして、母さんの甲羅を撫でた。

 それが最後のやりとりになるとは知らずに。



 春が来た。

 母さんは、種を埋めた場所を毎日見に行った。

 芽が出たとき、まるで子どもがもうひとり増えたように喜んでいた。

 夏、花が咲いた。

 秋には、小さな実が揺れた。

 母さんは嬉しそうに言った。

 「きっと甘くなるわね。冬まで待てば」


 そこへ、猿が来た。

 木の根元を見上げて、にやりと笑った。

 「よぉ、カニ。ずいぶん育てたじゃねえか。俺の種だぞ?」

 母さんはやんわり首を振った。

 「いいえ。もうこれは私の木です」

 「俺の種からできた実だ。俺のもんだろ」

 「あなたは食べてしまったでしょう?」

 猿は笑わなかった。目だけが光っていた。


 「登れねぇんだろ? 俺が取ってやるよ」


 母さんは嬉しそうに頷いた。

 僕は、嫌な予感がしていた。

 でも言えなかった。


 猿が木に登る。

 熟れた実を手に取り、ひとつ口に入れる。

 甘い汁がしたたる。

 その顔は、少しだけ恍惚としていた。


 「おいしい?」と母さんが聞いた。

 猿は頷いて、笑った。

 その笑いのまま、青い実をいくつか握りしめ——投げた。


 母さんの甲羅に当たった。

 乾いた音がした。

 母さんが一歩よろめき、川に手をつく。


 「おい、やめて!」僕が叫んだ。


 猿は次の実を投げた。

 笑っていた。

 その笑いがだんだん崩れていって、最後はただの動物の顔になっていた。


 母さんはそのまま倒れた。

 水面に映る空が、やけに青かった。

 猿は何も言わず、熟れた実をひとつ持って去っていった。



 母さんを埋めた夜、潮の音が止まなかった。

 川の底が鳴っていた。

 僕はハサミで砂を掘りながら、何度もつぶやいた。

 「なんで……なんで……」

 答えはなかった。

 でも、どこかで何かが囁いた気がした。


 > 「あの子を殺して。そしたら、潮は止まる」


 声の正体はわからなかった。

 でも、その言葉だけが妙に優しかった。



 その後のことは、霧の中の出来事のようだった。

 臼が、栗が、蜂が、牛の糞が、僕の前に現れた。

 みんな母さんに恩があると言った。

 「やるなら手伝うよ」と、笑っていた。

 その笑顔がどこか壊れて見えた。


 僕はうなずいた。

 殺すしかないと思っていた。



 夜。潮が満ちる。

 猿の家は柿の木の下にあった。

 木の実は熟れすぎて、腐ったように甘い匂いを放っている。

 蜂が窓辺に潜み、栗が火鉢で温まり、臼が天井にのぼる。

 牛の糞は戸口で笑っていた。


 猿が帰ってくる。

 その顔には疲れも後悔もなかった。

 火鉢の前に座る。


 栗が弾けた。

 蜂が目を刺す。

 猿が悲鳴を上げて転ぶ。

 牛の糞が足をすくませ、臼が落ちる。


 音がした。

 重い音だった。


 僕はその前に立っていた。

 猿が潰れた身体を動かして、僕を見上げた。

 口の端が切れて血が垂れていた。


 「……お前、母親に似てるな」


 その声が、妙に穏やかだった。

 僕は何も言わず、ハサミを振り下ろした。


 赤い汁が跳ねた。

 それが柿の香りと混ざって、吐き気がした。


 「殺した……これで、止まるよね……?」


 潮の音は止まらなかった。



 夜明け。

 海は赤かった。

 臼も蜂も栗も糞も、みんな消えていた。

 ただ、腐った匂いだけが残っていた。


 猿の死体のそばに、小さな壺が転がっていた。

 中には、まだ乾かぬ柿の種が入っていた。

 指で拾い上げると、白い芽がのぞいていた。


 母さんが育てたあの木と、同じ芽だった。

 その瞬間、胃の底が冷たくなった。


 ——母さんが拾った種。

 ——猿が渡した種。

 ——母さんが殺された木。


 全部、同じものだった。


 潮が鳴っていた。

 まるで、誰かが笑っているみたいだった。


 「なあ、母さん。

  僕たち、どっちが猿だったんだろう」


 誰も答えなかった。

 僕は種を口に入れた。

 渋かった。

 でも、それが妙に懐かしくて、

 気づいたら笑っていた。


 夜が来て、潮が再び鳴り始めた。

 木の根元で芽がひとつ、音もなく伸びた。


 翌朝、そこには小さな柿の木が立っていた。

 赤い実が、血のように光っていた。

 誰も近づかなかった。

 潮鳴りだけが、静かにその木を見つめていた。


(終)



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