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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

潮鳴りの柿の木(サルカニ合戦リメイク)

作者: 霜月ルイ

潮の音が、毎日少しずつ近づいてきている気がした。

 川の流れが重く、空気が鉄の味をしている。

 母さんはその川辺で、今日もおにぎりを握っていた。

 「これで冬を越せるね」

 その笑い声は、やけに遠く聞こえた。


 そのとき、木の枝の上から、声が降ってきた。

 「よう、カニ。いいもん持ってんな」

 見ると、猿がいた。

 柿の種を手にして、いやらしい笑みを浮かべていた。


 「取りかえっこしようぜ。俺の柿の種と、お前のそのおにぎり」

 母さんは少し考えてから言った。

 「その種は食べられないでしょう?」

 「育てりゃ実がなるさ。待てねぇのか?」

 母さんは首を傾げて笑った。

 「……いいわ。あなたがそう言うなら」


 そして交換した。

 おにぎりは猿の口に、種は母さんの手の中に。


 その夜、母さんは僕を抱きながら言った。

 「待つってことは、信じるってことなんだよ」

 僕は小さなハサミを動かして、母さんの甲羅を撫でた。

 それが最後のやりとりになるとは知らずに。



 春が来た。

 母さんは、種を埋めた場所を毎日見に行った。

 芽が出たとき、まるで子どもがもうひとり増えたように喜んでいた。

 夏、花が咲いた。

 秋には、小さな実が揺れた。

 母さんは嬉しそうに言った。

 「きっと甘くなるわね。冬まで待てば」


 そこへ、猿が来た。

 木の根元を見上げて、にやりと笑った。

 「よぉ、カニ。ずいぶん育てたじゃねえか。俺の種だぞ?」

 母さんはやんわり首を振った。

 「いいえ。もうこれは私の木です」

 「俺の種からできた実だ。俺のもんだろ」

 「あなたは食べてしまったでしょう?」

 猿は笑わなかった。目だけが光っていた。


 「登れねぇんだろ? 俺が取ってやるよ」


 母さんは嬉しそうに頷いた。

 僕は、嫌な予感がしていた。

 でも言えなかった。


 猿が木に登る。

 熟れた実を手に取り、ひとつ口に入れる。

 甘い汁がしたたる。

 その顔は、少しだけ恍惚としていた。


 「おいしい?」と母さんが聞いた。

 猿は頷いて、笑った。

 その笑いのまま、青い実をいくつか握りしめ——投げた。


 母さんの甲羅に当たった。

 乾いた音がした。

 母さんが一歩よろめき、川に手をつく。


 「おい、やめて!」僕が叫んだ。


 猿は次の実を投げた。

 笑っていた。

 その笑いがだんだん崩れていって、最後はただの動物の顔になっていた。


 母さんはそのまま倒れた。

 水面に映る空が、やけに青かった。

 猿は何も言わず、熟れた実をひとつ持って去っていった。



 母さんを埋めた夜、潮の音が止まなかった。

 川の底が鳴っていた。

 僕はハサミで砂を掘りながら、何度もつぶやいた。

 「なんで……なんで……」

 答えはなかった。

 でも、どこかで何かが囁いた気がした。


 > 「あの子を殺して。そしたら、潮は止まる」


 声の正体はわからなかった。

 でも、その言葉だけが妙に優しかった。



 その後のことは、霧の中の出来事のようだった。

 臼が、栗が、蜂が、牛の糞が、僕の前に現れた。

 みんな母さんに恩があると言った。

 「やるなら手伝うよ」と、笑っていた。

 その笑顔がどこか壊れて見えた。


 僕はうなずいた。

 殺すしかないと思っていた。



 夜。潮が満ちる。

 猿の家は柿の木の下にあった。

 木の実は熟れすぎて、腐ったように甘い匂いを放っている。

 蜂が窓辺に潜み、栗が火鉢で温まり、臼が天井にのぼる。

 牛の糞は戸口で笑っていた。


 猿が帰ってくる。

 その顔には疲れも後悔もなかった。

 火鉢の前に座る。


 栗が弾けた。

 蜂が目を刺す。

 猿が悲鳴を上げて転ぶ。

 牛の糞が足をすくませ、臼が落ちる。


 音がした。

 重い音だった。


 僕はその前に立っていた。

 猿が潰れた身体を動かして、僕を見上げた。

 口の端が切れて血が垂れていた。


 「……お前、母親に似てるな」


 その声が、妙に穏やかだった。

 僕は何も言わず、ハサミを振り下ろした。


 赤い汁が跳ねた。

 それが柿の香りと混ざって、吐き気がした。


 「殺した……これで、止まるよね……?」


 潮の音は止まらなかった。



 夜明け。

 海は赤かった。

 臼も蜂も栗も糞も、みんな消えていた。

 ただ、腐った匂いだけが残っていた。


 猿の死体のそばに、小さな壺が転がっていた。

 中には、まだ乾かぬ柿の種が入っていた。

 指で拾い上げると、白い芽がのぞいていた。


 母さんが育てたあの木と、同じ芽だった。

 その瞬間、胃の底が冷たくなった。


 ——母さんが拾った種。

 ——猿が渡した種。

 ——母さんが殺された木。


 全部、同じものだった。


 潮が鳴っていた。

 まるで、誰かが笑っているみたいだった。


 「なあ、母さん。

  僕たち、どっちが猿だったんだろう」


 誰も答えなかった。

 僕は種を口に入れた。

 渋かった。

 でも、それが妙に懐かしくて、

 気づいたら笑っていた。


 夜が来て、潮が再び鳴り始めた。

 木の根元で芽がひとつ、音もなく伸びた。


 翌朝、そこには小さな柿の木が立っていた。

 赤い実が、血のように光っていた。

 誰も近づかなかった。

 潮鳴りだけが、静かにその木を見つめていた。


(終)



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