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第3話:逆風下の拡大戦略、同志を得る

「また来たぞ、安売りの若造が」

「あいつのせいで、昨日は客が半分も来なかった」

「そのうちギルドが黙っちゃいないさ」


イサオ(中内㓛)が市場に姿を現すと、他の商人たちの冷ややかな視線と、小声の悪口が飛び交った。だが、その陰口とは対照的に、イサオの塩を求める客の列は日に日に長くなっていた。


「イサオさんの塩は、本当に良いよ。うちは料理屋だから、塩の質が命なんだ」

「子どもが熱を出して薬を買わなきゃならなくて…安い塩のおかげで助かったよ」

「どうやってこんな良い塩をこの値段で売れるんだ?不思議でならないよ」


マルクトブルクの市場で、イサオの小さな露店は評判になっていた。「安くて質が良い」「量り売りで誤魔化しがない」「返品にも応じる」――その噂は庶民の間に広がり、彼の店には連日、列ができるようになっていた。


イサオは丁寧に塩を計量し、同じ袋、同じ量、同じ価格で販売し続けた。顧客の中には、貴族の料理人や、評判の良い宿の主人など、品質にうるさい層も増えてきていた。イサオは彼らとの会話も大切にした。どんな用途で使うのか、どんな味を求めているのか、そんな情報は次の商品開発や仕入れの参考になる。


(顧客の声こそが、商売の原点だ)


ダイエー時代も、㓛は常に現場に立ち、客の反応を直接見ることを重視していた。それは異世界でも変わらない。


しかし、この成功は同時に、既存の商人たちからの反感を強めるには十分な時間だった。最初に現れたのは、些細な嫌がらせだった。


朝、市場に着くと、露店の前にゴミが散らばっていることがある。時には腐った野菜や魚の内臓まで捨てられていた。イサオは黙って掃除する。次第に、常連客が手伝ってくれるようになった。


「こんなことして、あいつらは恥ずかしくないのかね」年配の女性客が憤慨しながら、埃払いを手伝う。


「ありがとう」イサオは笑顔で言った。「しかし、彼らを責めることはできない。自分の生活が脅かされていると感じているのだろう」


その言葉に、女性は意外そうな顔をした。「あなた、優しいのね。私なら怒り狂うわ」


イサオは肩をすくめる。「怒っても解決しない。大切なのは、お客様に良い商品を届けること。それだけだ」


そんな日常的な嫌がらせ以上に、露店の前にわざと柄の悪い男たちが立ちふさがったり、客に対して「あの店の塩は呪われている」などという根も葉もない噂を流されたりすることもあった。イサオはそれを冷静に受け流した。ダイエー創業期にも、旧来の小売店からの風当たりは強かった。これくらいは想定内だ。


(どんな商売でも、既得権益を脅かせば必ず反発がある。だが、お客様の支持があれば、結局は勝つことができる)


その考えに、かつての後悔が一瞬よぎった。ダイエーが巨大化し、逆に顧客から遠ざかっていったあの時代…。しかし、今は新たな挑戦の時だ。過去の教訓を活かし、同じ過ちを繰り返さないよう、顧客との距離を常に意識していた。


しかし、敵の動きは徐々に本格化していく。塩の販売から二週間が経った頃、岩塩の仕入れ先である山間の採掘場からの供給が、突然滞り始めたのだ。約束の日に荷が届かない。使いの者が戻ってこない。


「おかしいな…」イサオは帳簿を広げ、在庫状況を確認する。頭の中で計算が走る。「あと3日分の在庫しかない。このままでは品切れになってしまう」


品切れは顧客の信頼を失う最大の要因だ。イサオは決断した。翌朝、日が昇るか昇らないかの時間に、わずかな手元の塩を市場に並べ、常連客に謝罪と共に販売する。そして、数日かけて自ら採掘場へ足を運ぶことにした。


---


険しい山道を登り、汗と埃にまみれながら、イサオはようやく採掘場へとたどり着いた。だが、そこで見た光景は一変していた。かつての活気はなく、作業員たちは暗い表情で、おずおずとイサオを見る。元締めの男は、明らかに苦々しい顔をしていた。


「すまねぇ、坊主…いや、イサオさん。あんたとの取引は、もう…」


元締めの男が、歯切れ悪く告げる。詳しく聞けば、商人ギルドの手の者が現れ、「よそ者と取引するなら、今後一切、ギルドはあんたたちの塩を買わない。街への道も安全ではなくなるだろう」と脅しをかけていったという。


「奴らには武装した護衛が何人もいた」作業員の一人が、恐怖の色を隠せずに言った。「俺たちには抵抗なんてできない…」


「前金まで返すよ…」元締めが懐から銀貨を取り出そうとした。


(やはり来たか。サプライチェーンへの攻撃、古典的だが効果的な手だ)


イサオは内心で舌打ちしたが、顔には出さない。冷静に状況を分析する。ギルドは、自分には直接手を出せないと判断し、最も脆弱なサプライチェーンを攻撃してきたのだ。ここで引き下がっては、元の木阿弥だ。


彼は元締めに向き直り、力強く言った。


「脅しに屈するのか? 一度味を占めた連中は、これからもあんたたちを買い叩き続けるだけだぞ」


「そんなのわかっちゃいるが…」元締めは目を伏せた。「家族もいるし、この山で細々とやってくしかないんだ」


「俺と組めば、不安定だがしがらみからは解放される」イサオは一歩前に出る。「それに、ただ買っているだけではない。俺はあんたたちの『未来』にも投資するつもりだ」


「未来だと…?」元締めが顔を上げた。


「ああ。例えば、もっと効率的に岩塩を掘る方法、安全に運ぶ方法を一緒に考える」イサオは、自分の考えを熱く語り始めた。「器具の改良、洞窟内の安全対策、作業の効率化…それらはすべて、あんたたちの労働環境を改善し、生産性を高めることになる」


イサオは懐から、自らが設計した簡素な採掘器具の図面を取り出した。現代日本の技術ではないが、この世界の技術水準で十分実現可能な改良案だ。


「さらに、安定供給の契約を結び、代金の一部を前払いすることも検討しよう。あんたたちは安定した収入を得られる。俺は安定した仕入れルートを確保できる。互いにとって利益のある関係だ」


作業員たちの間から、ざわめきが広がった。元締めも、明らかに心を動かされている様子だった。


「ギルドが…また来たら?」彼はまだ躊躇っていた。


「次は、俺も対策を考える。護衛を雇う資金も出す。それに…」イサオは意味深に微笑んだ。「ギルドが買わないなら、他の道を探せばいい。俺の店が軌道に乗れば、あんたたちの塩はすべて買い取れるようになる」


この発言は大胆すぎるかもしれないが、中内㓛は「約束したことは必ず実行する」という信念の持ち主だった。異世界に転生したイサオもまた、同じ覚悟を持っている。


作業員たちの中から、一人の若い男が進み出た。逞しい体つきで、鋭い目を持つ青年だ。前回の取引の際も、イサオの提案に興味を示していた男だった。


「親方、俺はこの人の話に乗ってみたい。ギルドの言いなりはもうウンザリだ!」


彼の名はカエル。採掘場で最も若く、力強い男だ。その勇気ある一歩が、他の作業員たちの背中を押したようだった。


「そうだ、親方!いつまでギルドに頭を下げる必要がある?」

「この人の言う通り、俺たちだって、もっとマシな暮らしがしたい」


カエルの言葉に、他の者たちもざわめき、やがて元締めも覚悟を決めたように頷いた。


「…わかった、イサオさん。あんたを信じよう。ただし、しくじったら承知しねぇぞ」


「当然だ」イサオは元締めと固く握手を交わした。


こうして、イサオはサプライチェーンの危機を脱しただけでなく、カエルという信頼できる協力者を現地に得ることができた。カエルはイサオから簡単な品質管理と量の計測方法を学び、採掘現場での責任者として動くことになった。


「イサオさん、俺、この仕事に誇りを持ちたいんです」カエルは力強く言った。「ただ言われるままに掘るんじゃなく、自分の作った塩が誰かの役に立つって、はっきりわかる仕事がしたい」


その言葉に、イサオは深く共感した。どんな仕事も、社会的意義を感じられれば、誇りとやりがいに変わる。それこそが、ダイエーで㓛が従業員に伝えようとしていたことだった。


「カエル、あんたは良い商人になれる素質がある」イサオは真剣に告げた。「商売は単なる金儲けじゃない。社会全体を豊かにする営みなんだ」


---


マルクトブルクに戻ったイサオは、次なる手を打つ。塩だけに頼っていては、供給が不安定になった時に経営が傾く。リスク分散が必要だ。彼は市場を再度調査し、塩と同様に庶民が必要としていながら、価格や品質が安定しない商品に目をつけた。それは『薪』と『干し豆』だった。


薪は冬場の暖房や料理に欠かせない。しかし、その販売は季節的な変動が大きく、価格も安定しない。特に冬場は値段が高騰し、貧しい家庭を苦しめていた。干し豆も同様だ。保存がきくため、端境期の重要なタンパク源となるが、商人たちは意図的に品薄状態を作り出し、価格を釣り上げていた。


(塩、薪、干し豆…これらは『買わざるを得ない』必需品だ。だからこそ、適正価格で提供する意義がある)


イサオの帳簿には、季節ごとの価格変動や、世帯あたりの平均消費量までが記録されていた。次の一手を打つには、こうした情報が命だ。


街の近くで働く木こりたちや、豆を栽培する小規模農家を探し出し、塩の時と同じように直接交渉を行った。適正な価格での継続的な買い取り、品質への要求、そして前払い金の提示。最初は訝しんでいた彼らも、イサオの真摯な態度と具体的な提案に心を動かされ、契約を結ぶ。


「うちの豆を定期的に買ってくれるなんて…」年老いた農婦は信じられないという顔だった。「いつも収穫時期には値段が暴落して、泣く泣く安く売るしかなかったのに」


「それが問題なんです」イサオは静かに言った。「あなたのような生産者が適正な対価を得られないと、結局は良い品物が作れなくなる。それでは消費者も困る。生産者と消費者、両方が満足できる仕組みを作りたいんです」


「神様みたいな商人だね」農婦は目を細めた。「でも、人の良さにつけ込まれないよう、気をつけなさいよ」


イサオは苦笑いした。「ご心配なく。これは慈善事業ではなく、ちゃんとした商売です」


実際、イサオの計算は緻密だった。季節を通じて品質の良い商品を安定供給できれば、季節変動による価格差益も得られる。保存がきく商材を扱うメリットを最大限に活かす戦略だ。


イサオの露店は、以前より少しだけ広げられ、「良質岩塩」の隣に「乾燥豆(大袋・小袋)」「よく乾いた薪(一束)」という札が加わった。もちろん、全て明朗会計の定価表示だ。一袋、一束ごとに均一な量と質を保証する。


「塩だけじゃなく、豆や薪まで安いぞ!」

「ここのは質もいいし、何より正直だ」


品揃えが増えたことで、客足はさらに伸びた。度々訪れる嫌がらせも、イサオを支持する常連客たちが「まっとうな商売の邪魔をするな!」と追い払う場面も見られるようになった。「お客様のため」の商いが、顧客自身の支持ロイヤリティを生み始めていたのだ。


(支持してくれる顧客こそが、最大の財産だ)


かつて、㓛は主婦たちの声に耳を傾け、彼女たちの味方となることで、流通革命を成し遂げた。それは異世界でも変わらぬ真理だった。


---


だが、イサオの快進撃を、商人ギルドが黙って見過ごすはずはなかった。


ある日の夕方、店じまいをしようとするイサオの前に、数人の身なりの良い男たちが現れた。厳めしい貴族風の衣装に身を包み、腰には装飾された短剣を下げている。中心にいるのは、ギルドの幹部らしき、冷たい目をした中年男だ。細面の顔に整えられた髭を蓄え、指には大ぶりの宝石入りの指輪が光っている。


「貴様が、イサオとかいう新参者か」


男は侮蔑するようにイサオを見下ろす。周辺の客や商人たちは、空気を察したように遠巻きに見守っている。


「ヴァレリウス殿でいらっしゃいますか」イサオは平静を装いながら答えた。事前の情報収集で、ギルド幹部の名を知っていたのだ。「何のご用件でしょう?」


ヴァレリウスは一瞬驚いたが、すぐに冷笑を浮かべた。「ほう、私の名を知っているとは。それなら、自分がどれほど無謀なことをしているか、わかっているはずだな」


「無謀とは?」


「市場の秩序を乱す行為、目に余るぞ。ギルドへの加盟もせず、勝手な値付けで商売をするなど言語道断」ヴァレリウスの声はしだいに大きくなった。「これは正式な警告だ。即刻そのふざけた商売をやめるか、あるいは我々の『ルール』に従うか、選ばせてやろう」


男の後ろには、屈強な護衛と思しき者たちが控え、無言の圧力をかけてくる。いよいよ、組織的な圧力が牙を剥いたのだ。


(いきなり幹部が出てくるとは…思ったより早かったな)


イサオは内心で考えを巡らせながら、表情を変えずにヴァレリウスを見つめた。周囲には野次馬が集まり始めていた。この対峙の行方が、街の噂となるだろう。


「ヴァレリウス殿」イサオの声は静かながらも、力強く響いた。「私は市場の秩序を乱すつもりはありません。ただ、『お客様のため』に良い品を適正価格で売っているだけです」


「適正価格だと?」ヴァレリウスの目が険しさを増す。「価格はギルドが決めるものだ。勝手に下げれば、多くの商人の生活が脅かされる。それがわからんのか」


「では、お聞きします」イサオは一歩前に出た。「この街の多くの人々、特に貧しい層の生活を圧迫する高価格こそ、本当の問題ではないでしょうか?」


ヴァレリウスは一瞬言葉に詰まり、すぐに険しい表情を取り戻した。「貧乏人の面倒など、慈善院が見ればいい。商売は利益を追求するもの。感傷に流されるな」


「私の考えは違います」イサオは毅然と言い放った。「生産者も消費者も、そして商人も、互いに利益を分かち合う関係こそが、真の商売のあり方です」


ヴァレリウスは嘲笑した。「聞け、若造。お前のような小娘が、長年かけて築いてきたこの街の商業秩序を変えられると思うなよ。三日で選べ。ギルドに加盟し我々のルールに従うか、さもなくば…」


言葉の続きは語られなかったが、その意味するところは明白だった。イサオを支持する客の中からは、不満の声が上がり始めていた。


「イサオさんの商売に何の問題がある!」

「私たちは助かっているんだ!」


ヴァレリウスは周囲の声に一瞬たじろぎ、すぐに威厳を取り戻した。「黙れ、愚民ども。このような無謀な商いを支持すれば、いずれ市場全体が混乱し、皆の首を絞めることになるぞ」


客たちは護衛たちの威圧的な態度に押され、声を潜めるが、その表情には反感が浮かんでいた。


イサオは、彼らを真っ直ぐ見据え、静かに、しかし強い意志を込めて言い放った。


「俺のルールはただ一つ。『お客様のため』、それだけだ」


一触即発の空気が、市場の片隅に漂っていた。支持する客たちの視線、敵対するギルドの威圧、そして道を選ばねばならないイサオ。この対決が、マルクトブルクの商業の未来を左右することになるだろう。


(この男はただの守旧派ではない…何か企んでいる)


イサオはヴァレリウスの目に浮かぶ計算高さを見逃さなかった。単なるギルドの秩序維持ではなく、個人的な野心や算段が透けて見える。この対立の背景には、もっと複雑な事情がありそうだった。


イサオは内心、次の一手を練り始めていた。サプライチェーンの強化、顧客基盤の拡大、そして…より大きな力を味方につける必要性。市場の片隅の露店では、もはや限界がある。


ヴァレリウスが背を向け、去ろうとした時、「三日だ。それまでに答えを聞かせてもらおう」と捨て台詞を放った。


その背中を見送りながら、イサオは固く握りしめた拳の中の計算用羊皮紙を感じていた。そこには、次なる戦略のための数字が書き記されていた。


逆風は、さらに強まるだろう。だが風は、翼があれば追い風にもなる。イサオの脳裏には、固定店舗、組織化、情報収集網の構築…様々な構想が浮かんでいた。

この物語は、実在の経営者・中内㓛氏に着想を得て創作したフィクションです。

登場する人物、団体、地名、出来事、および作中での経営判断やその結果などは、全て架空のものであり、特定の個人や団体、史実等とは一切関係ありません。

その旨をご理解の上、一つの物語としてお楽しみいただけますと幸いです。

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