第2話:価格破壊の狼煙、塩の市場に立つ
異世界での目覚めから数日。イサオ(中内㓛)は、決して無為に過ごしていたわけではなかった。宿の雑用や日雇いの荷運びなど、若く健康な肉体を活かして日銭を稼ぎながら、徹底的にこの街――マルクトブルクの市場調査を進めていたのだ。
朝は市場の荷物運びを手伝い、夕方は宿で給仕役。その間に様々な商人や客との会話を交わし、価格や取引の仕組み、人々の生活実態を探っていく。㓛が培った「市場を知るためには、泥臭く現場に飛び込め」という精神そのままの調査だった。
「やはり、この世界の流通は前近代的すぎる」
宿の一室。イサオは床に広げた羊皮紙に、調査結果を走り書きしていた。生産者から消費者の手に渡るまでに、あまりにも多くの無駄と搾取が存在する。特に、生活必需品である『塩』の価格は異常だった。内陸に位置するこの街では、塩は遠方の岩塩鉱床か、あるいは海沿いの街から運ばれてくる。その輸送コストと、何重にも介在する卸売商人のマージンが価格を吊り上げ、庶民の食卓を圧迫していた。
(食料品。特に必需品は「回転率」が命だ。それを理解していない商人ばかりだな…)
羊皮紙には、塩の流通経路が図解されていた。岩塩鉱山→鉱山元締め→地方運搬人→地域商人→都市卸商→小売商→消費者。それぞれの段階で利益が上乗せされ、最終的に消費者の手に渡る頃には、元の価値の3倍以上になっている計算だ。
(狙うは、塩だ)
生活必需品であり、誰もが必要とする。価格が下がれば、その恩恵は広範囲に及ぶ。「お客様のため」という理念を体現するには、うってつけの商品だ。そして、塩は保存もきくため、現時点での彼の少ない資本でも取り扱い可能な商材でもあった。
イサオは羊皮紙を畳み、粗末な木箱に仕舞う。箱の中には、これまで稼いだ銅貨と銀貨が少しばかり入っていた。決して多くはないが、一歩を踏み出すには十分だろう。
「仕入れのルートを確保し、直接取引。そして量り売りによる適正価格の明示。これが第一段階だ」
かつてのダイエー創業時、㓛が最初に実践した「中間マージンのカット」と「明朗会計」の原点そのものだ。戦後の混乱期、「買った値段の一割増し」という革命的な価格設定で市場に風穴を開けた時の興奮が、記憶の底からよみがえってくる。
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翌日から、イサオは稼いだわずかな資金を元手に、さらに情報を集め始めた。酒場で気前よく酒を奢り、運搬人たちから話を聞き出す。街の片隅で、行商人に様々な場所の相場を尋ねる。噂では、街の商人ギルドが塩の流通を牛耳っているが、ギルドに属さない小規模な運び屋や、街から数日かかる山間部で細々と岩塩を採掘している者たちも存在するらしい。
「よし、まずは生産者を直接叩く」
ダイエーの原点も、メーカーとの直接取引による中間マージンの排除だった。原理は同じだ。イサオは、なけなしの金で最低限の旅支度を整える。丈夫な革靴、簡素だが動きやすい服、水袋に干し肉と硬パン、そして単純な天秤と測りのための分銅を購入した。
「おい、若いの。そんな装備で山道に行くつもりか?」宿の主人が眉をひそめた。「ゴブリンの群れにでも出くわしたら、ひとたまりもないぞ」
イサオは一瞬たじろいだ。そうだ、ここは異世界。魔物の存在も忘れるわけにはいかない。「なにか、護身用に良いものはないだろうか」
主人は渋々と古い短剣を貸してくれた。「これで精一杯だ。使い方も知らんだろうが、せめて相手を威嚇するには使えるかもしれん」
最寄りの岩塩鉱床への道筋を行商人から聞き出し、イサオは旅立った。幸い、この世界の『街道』は、ゴブリンや野獣が出ることもあるが、比較的整備されている方だった。これも、『イサオ』の記憶と、道中で出会った行商人から聞き出した情報だ。
三日目の昼過ぎ、険しい山道を経て、イサオは目的の小規模な岩塩採掘場にたどり着いた。険しい崖に穿たれた洞窟の入り口。そこでは、数人の痩せた男たちが、原始的な道具で岩塩を掘り出していた。彼らの顔は疲労と粉塵で灰色に染まり、手には割れ目や傷が無数に走っている。苛酷な労働の痕跡だった。
イサオは接近すると、彼らの元締めらしき男に声をかけた。五十代と思しき、風雨に鍛えられた顔立ちの男だ。
「あんたが責任者か?少し話がある」
元締めは警戒の色を浮かべた。「何の用だ?ギルドの新しい使いか?」
「違う。独立した商人だ」イサオは単刀直入に切り出した。「あんたたちが掘った塩を、俺に売ってくれ。ギルドの買い付けより、1割高く買おう」
元締めは訝しげな顔でイサオを見た。年の頃はまだ若造、見慣れない顔だ。
「…坊主、気は確かか? ギルドに逆らう気か。それに、そんな金、持ってるのか?」
「金ならここにある」イサオは稼いだ銅貨と銀貨の入った袋を見せる。少ないが確かに実在する。「全量とは言わん。まずは、この金で買えるだけ買いたい。ただし、条件がある」
「条件?」元締めの目が細まる。
「品質だ。不純物の少ない、良質な塩を選んでほしい」イサオは、意図的にゆっくりと、しかし力強く語る。「今後、継続して取引するつもりがある。安定して良質な塩を供給してくれるなら、買い取り価格をさらに上乗せすることも考えよう」
作業していた男たちが、興味を示し始め、作業の手を止めてこちらを見ている。
「それだけじゃない」イサオは続ける。「取引が軌道に乗れば、前払いも検討できる。あんたたちは安定した収入を得られる。良い道具の購入や、生活の改善にも繋がるだろう」
『継続取引』『品質重視』『価格上乗せの可能性』『前払い制度』。単なる買い叩きではない、未来への投資を示唆するイサオの言葉に、元締めの目の色が変わった。ギルドは常に足元を見て買い叩くだけで、品質など二の次だったからだ。
若い採掘者の一人が前に出てきた。「親方、話に乗りましょうよ。ギルドのやつらの言いなりになるよりマシじゃないですか」
元締め男は深く考え込んだ後、ゆっくりと顎をしゃくった。
「…いいだろう。話に乗った。ただし、俺たちの取り分が減るようなら、次は無いぞ」
「もちろんだ」イサオは笑みを浮かべながら、「互いに利益のある関係こそが、長続きする商売の基本だ」
厳しい交渉の末、イサオは質の良い岩塩を、街の相場から考えれば破格の安さで仕入れることに成功した。30キロほどの岩塩を、背負い袋に詰め込む。重いが、若い肉体なら何とか運べるだろう。
元締めと握手を交わし、イサオは帰路についた。「一ヶ月後、また来る。品質の良いものを確保しておいてくれ」
「ああ、期待しているぞ、若造」
帰り道は、用心しながらも足取りは軽かった。途中で一度だけ、遠くにゴブリンの小集団を見かけたが、幸いにも気づかれずに済んだ。
(ふっ、流通革命の第一歩だ。まさか異世界でも同じことをすることになるとはな)
マルクトブルクに戻ったイサオは、早速行動に移った。市場の隅に小さなスペースを借り(これも交渉術の見せ所だった)、仕入れた岩塩を並べる。だが、ただ並べるのではない。
まず、持参した簡単な天秤(これも道中の村で購入したものだ)で、塩を正確に一定量ずつ小分けにし、小さな布袋に入れた。次に、袋の口を丁寧に縛り、販売単位を統一する。そして、木片に墨で値段を書き、はっきりと掲示したのだ。
『良質岩塩 小袋1つ 銅貨5枚』
値付けは緻密な計算に基づいていた。仕入れ価格に加え、往復の旅費、自分の労働対価、将来の仕入れ資金として必要な利益。そして将来の競争や嫌がらせを見越した危険手当も盛り込んでいる。それでも、市場の他の塩売りは、量も曖昧なまま、一掴みで銅貨7~8枚、時には10枚で売っている。品質も保証されていない。
「塩売りの若造、何をやっている?」近くの露店の老人が不思議そうに見つめてきた。
「正直な商売だよ」イサオは微笑む。「お客様に、良い品を、適正な価格で」
「ふん、長くは続かんな。あんたの客は、俺の客。値下げなどすれば、皆の商売の邪魔になる」老人の声には警告が込められていた。
イサオの店の前で、人々が足を止めた。
「おい、あの店、やけに安くないか?」
「袋に入ってて、値段も書いてあるぞ。本当か?」
「怪しいんじゃないか? 安い塩は苦いって言うし…」
最初は遠巻きに見ていた人々だったが、茶色の粗末なワンピースを着た若い母親が、おそるおそる近づいてきた。痩せた幼子を連れている。
「本当に…五枚なの?」彼女の声は疑いと希望が入り混じっていた。
「ああ、その通りだ」イサオは明るく答える。「質も保証する。もし不満があったら、返品にも応じよう」
彼女は恐る恐る銅貨を差し出し、小袋を受け取ると、その場で少し開いて中の塩を確かめた。イサオは自信があった。見た目にも白く、不純物が少ない良質な岩塩だ。
「これ、すごくきれい…」女性の目が輝いた。「いつもの半分の値段なのに、こんなに良い塩…」
その言葉は周囲の人々の耳に届き、次々と客が訪れる。イサオは一人一人に同じように対応した。天秤で正確に量り、同じ価格で売るイサオのやり方は、値切り交渉が当たり前の市場では異質だったが、その「明朗会計」ぶりが逆に信頼を生んだ。
「この塩、白くて綺麗だ! 味もいい!」
「本当に銅貨5枚だったぞ!」
口コミは瞬く間に広がった。商人階級だけでなく、貧しい労働者や下級ギルド員の妻たちが主な顧客となった。彼らにとって、少しでも安い生活必需品は、家計を助ける貴重な存在だったのだ。
あっという間に、仕入れた塩は残りわずかとなった。暑さで額に汗を浮かべながらも、イサオの顔には満足感が浮かんでいた。
(これが「お客様のため」の商いだ。商品を手に取る瞬間の笑顔。これこそが商人の存在意義だ)
対照的に、他の塩商人たちは、苦虫を噛み潰したような顔でイサオの店を睨んでいる。すでに集まって小声で何か相談している者もいた。
「若造め…このままでは済まんぞ…」
「ギルドに報告すべきだ…」
彼らの目には、単なる価格競争ではなく、既存の秩序への挑戦と映っていたのだろう。
(ふっ、第一段階は成功だな)
イサオは、客足の絶えない様子に満足しながらも、気を引き締める。かつてのダイエー創業期と同様、既得権益を持つ者たちからの反発は想定内だ。
(問題は、これからだ。このやり方を続ければ、必ずやギルドが黙ってはいないだろう。安定供給のルート確保、さらなる商品の拡充…やるべきことは山積みだ)
翌日の営業に備え、イサオは仕入れた原価と販売額、来客数などを小さな帳簿につけていた。データに基づく経営こそが、未来を見据えた商売の基本だと信じていたからだ。数字を見つめながら、イサオはさらなる戦略を練る。
帰り際、先ほどの母親が再び現れた。「ありがとう」彼女は小さく言った。「あなたのお陰で、子どもに暖かいスープを作ってあげられる」
その言葉は、イサオの胸に深く刻み込まれた。これこそ、流通革命の真の意義だ。単なる商売の成功ではなく、人々の生活をより良くすること。「お客様のため」という理念の本質がここにある。
汗を拭うイサオの背中を、市場の雑踏の向こうから、数人の鋭い目が監視していることには、まだ気づいていなかった。価格破壊の狼煙は、確かに上がったのだ。そして、その狼煙が意味するものは、この街の商業秩序の根本的な変革への挑戦だった。
この物語は、実在の経営者・中内㓛氏に着想を得て創作したフィクションです。
登場する人物、団体、地名、出来事、および作中での経営判断やその結果などは、全て架空のものであり、特定の個人や団体、史実等とは一切関係ありません。
その旨をご理解の上、一つの物語としてお楽しみいただけますと幸いです。