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痛みと悩みを溶かして

 

  大きめの声がひびく。水面がゆらりと揺らいだ。


「アズト様、私は自分ではいれますよ!?」


 つべこべと文句を言うんじゃない。その意図を込めて風呂椅子から慌てて立ち上がる前に、脇腹を人差し指で少し突っついた。


「っっ!!!」


 先日、拾ってきた狐のくぐもった唸り声が屋敷に存在する野天風呂に響いた。


 この狐を見つけた当時、意識などは全くなく血みどろの大出血。周囲に大きな血溜まりを広げて倒れていた。その上、身体には厄介な毒と呪いを埋め込まれていた。


 こちら側の事情もあって狐を屋敷に持ち帰り、消えそうな蝋燭の灯火にも似たその命を繋いだ。

 今は意識を取り戻し、死の淵からは遠ざかって動けるまでには回復している。


 動ける。といっても、意識を取り戻しからまだ日が浅い。その身体には毒と呪いが色濃く残っている。毒が体力の回復、そして呪いが妖力の循環を酷く阻害している。


 この世界の妖にとって妖力は生命の源にも等しいものである。それを乱されるというのは命の根源を蝕ばまれるのと同義。

 妖は人間よりも丈夫で生命力が高いから毒の効き目が人間よりも薄い。

 それ故に毒よりも妖力の循環を邪魔する呪いの方が厄介だった。


 狐はアズトと三重の前では何ともありませんといった表情を顔に貼り付けて過ごしているが、人間の病状に例えるなら慢性的な貧血で目眩や頭痛、重い倦怠感が身体に付き纏い、体を動かす度に刺すような痛みが走っている筈だ。


 簡潔に纏めると、とんでもない痩せ我慢をしてるのだ。この狐は。


 衰弱しきっているのを少しでも隠そうとしての振る舞いだろうか。


「……」


 ふと目が合って、苦笑いっぽい笑顔を返された。笑って誤魔化しても駄目なものは駄目だ。

 屋敷に運び込まれて、狐は今日までろくに動けずに布団の上にずっといた。その間、傷に障るからと軽く水で体を拭くぐらいしかしていない。


 傷が塞がって歩けるまでになったのだ。ずっと離れの部屋に閉じこもって過ごすのも飽きただろう。

 せっかくなので気分転換と歩行訓練も兼ねて今夜から浴場の暖かい湯を使って体を清めてくるといい。屋敷の主である三重はそう言った。

 勿論、大怪我を負っているので湯に浸かることは出来ない。体を拭くだけだ。

 狐は三重の提案をこれ幸いにと喜んで受け容れた。アズトも衛生面を保つ意味でも反対する理由は特にない。


 しかし、病み上がりでボロボロの狐の体では日常生活における細々とした所作は難易度が高い。上手く体を動かせない者が独りで身を清めるのは、下手をすれば浴場で滑って転んで余計な傷をいたずらに増やす結果になりかねない。


 狐の自分だけでなんとかするという言い分は受け入れるのが厳しいどころか、当然ながらの却下である。

 後は介助がいる。三重にやらせる気はないのでアズトが請け負う。


 準備が整ったので狐の着ている白い浴衣を上半身だけ剥いだ。


 狐は諦めたのか抵抗はしなかった。ただ俯いている。大人しい内にとっとと終わらせてしまおう。


 いきなり温度が高い湯を体に当てるのは体に負担がかかるかもしれないと三重が言っていた。

 今回は、少しだけ冷ましておいた浴場の湯が入った桶に手拭いを突っ込んで絞る。


 目の前にある体は、妖狐の姿から人間の姿に変化しているからふさふさの毛が生えていない。

 代わりに腰に届くほどの長さをした灰金色の髪がある。薄い灰銀に明るくて透明な月の光を混ぜたような色をしている。

 湯を染み込ませた手拭いで長い髪の根元から、できるだけそっと軽く揉んで、最後に三重が自作したつげ櫛を使って髪を梳く。


 なんとかやり終わったので、長い髪を背後から手を伸ばして肩にそっとかけた。


 白い浴衣の下にあった分厚く巻かれている布を解くと、背中と腹に塞がったばかりの刀傷が顕になった。

 ばっくりと切られた跡に沿って赤黒く変色した肉が盛り上がって異様な存在感を放っている。完治にはまだまだ日数がかかりそうだ。


 湯を染み込ませた手拭いを狐の項に当てる。その感触に狐は少しだけ身じろいだ。傷を避けて腕や背中、胸等を拭き進めていく。


「アズト様、そこは…その、私の沽券に関わりますので、どうか」


 上半身があらかた拭き終わったので下半身に移ろうと風呂椅子に座る狐の前に片膝をついて浴衣の帯を外そうとしたとき、狐から慌てた声があがった。

 見上げてみると狐の顔が少し赤くなっていて目も潤んでいる。

 アズトがお構い無しに帯に手をかけると、狐の手がそれを阻止しようと上から重ねられた。

 しかし、満身創痍の狐がいくら力を込めてもアズトの手はビクとも動かない。


 狐の心の焦りが最高潮に達したそのとき、アズトは帯を動きを止めた。


(この行動はすっごく嫌がってるっていう意思表示だよね。下手したら暴れだすかな)


 狐が暴れたところで取り押さえるのは簡単だが、相手は如何せんボロボロの体である。アズトが力の匙加減を間違えてしまえば何処ぞかの骨とか臓物とかがあっという間に折れるか潰れるかして、最悪の場合ぽっきりとあの世へと逝ってしまう。


(ボクが引き下がるのが一番早く、無難に終わる気がする)


 帯から手を引くと狐はわかり易く安堵の息をほっと吐いた。中断して拭けなかった股ぐらは離れに戻り次第、狐自身でやって貰おう。

 アズトはそう考えながら手早く足膝や足裏を拭いていった。


 狐は先程のような抵抗はみられないが、何故か浴衣を太もも当たりでギュッと握って、堪えるように目を瞑っている。

 今までにだって離れの屋敷でアズトが水を使って狐の体…人ではなく獣の状態を拭いていたが、こんな反応は無かった。

 人の姿に化けると感性にも影響が出来るのか。無防備な状態の体を他者によって無遠慮に触られることが嫌で我慢が限界に達しかけているのか。

 それとも別の理由であるのか。アズトには判断が付かなかったが、狐が何かに耐えているのだけは何となく察した。


 アズトはこういうのは得意じゃない。残りすべきは傷跡に薬を塗って新しい布を巻くだけだ。あと少しだ。早く終わらせて狐を離れの布団に押し込もう。


「薬塗るから。背中からいくよ」


 この薬は三重曰くかなり効くけどすっごく染みるよと、事前通告をして、浴場に持ち込んだ塗り薬の蓋を開ける。

 ドロっとした薬を人差し指と中指にとって背後から傷跡をなぞるようにゆっくりと指を滑らせる。


 塞がってるとはいえ、最も痛みが強く敏感に集中する場所に干渉された狐の体が少し大きく跳ねた。前のめりになっている。

 転倒してしまう前に手を伸ばして、その体を引き寄せる。立ち上がったアズトの胸元に灰金色の頭がぽすっと落ちてきた。

 狐が背中から凭れ掛かる形でアズトの腕の中に収まっている。


「っ、あ。申し訳ありません。お見苦しいところを。…すぐに起き上がります」


 口元を片手で抑えながら謝罪の言葉を述べてきた。アズトは意味がわからずに胸元にいる狐を見下ろしながら首を傾げた。


「次はお腹に塗る。倒れそうになるのは困るから姿勢はこのままでいい」


 狐は少し目を丸くした後に何が可笑しいのか目尻に涙を浮かべて、ふふっと笑った。あまりの痛みに錯乱してしまったようだ。


「はい、お願いします。アズト様」


 にこにこと笑って腹の傷を、どうぞとばかりに差し出している。


「塗らないのですか?」


 塗るけれども。あまりにも狐の表情が短時間でころころと変わるものだから、不思議で少し手を止めてしまった。


 狐の声に押されて腹の傷に薬を塗る。狐が再び痛みに悶え苦しんでいる。地面に落ちないように、少しばかりの力を込めてぎゅっと腕の中に閉じ込めた。


 息も絶え絶えで額には脂汗が浮かんでいる。落ち着いた頃を見計らって解放しようとしたとき、羽織っていた着物の袖口を狐にそっと引かれた。


「アズト様、今すぐでなくとも構いません。どうか、どうか…私に、名をくださいませんか」


 祈るように囁かれた、本日二回目となる願いに対してアズトは首を静かに振って拒否を示す。


 妖は名を大事にすると屋敷の書物で呼んだ。

 実際に本殿で三重が狐の名を尋ねたとき、なんだか様子がおかしかった。それを見たアズトは実名を告げられないのならば、仮の名前でも名乗っておけばいいと提案した。


 すると、狐はアズトからの名付けを求めた。アズトには名をつける気が全くないので、一度目も二度目もその願いに応じることはなかった。


 はやく、諦めて欲しい。


 狐の傷も痛みもアズトの悩みも、この場に渦巻く湯気みたいに溶けて空中に消えてしまえばいい。

 浴場に立ちのぼる湯気と汗にしっとりと塗れた狐の体を拭き直しながらアズトはそう思った。


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