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終章 守られる妹

 

 なんでもできたなどとはいうまい。人の能力を最大限好意的に観察して限界がないと判断しても、手脚や脳の数が変わることがないように人生における行動回数には限界がある。灯火にも喩えられるように揺らぎがあって人命はいつも最大限の行動力を発揮できるとも限らない。幼い頃、同性の多くが足の速い男子児童に惹かれたのは「行動力」の限度を本能的に推し量っていたためだろう。山添尊自身も、足の速い男子児童に目が行ったことを否定しない。

 ただ、山添尊は異常なほどに冷静でもあり、無感情でもあった。お喋りが好きな女子児童とは全く気が合わず、流行りのアイドルやファッションの話には意義を見出せず、かと思えば活発な男子児童と運動するでもなく教室で独り自主学習や読書をして過ごす毎日だった。

 協調あるいは同調を求める社会が子どもだけでも立派に構築されてゆく。中等部の頃には協調性の欠片もない山添尊に対して同性・異性ともに興味を持たず、反面、苛めの対象としたこともあった。初等部の頃には陰口を叩かれ慣れていた山添尊は、教科書に落書きをされても、ノートを破り棄てられていても、汚水塗れの雑巾をぶつけられても、全く気にしなかった。上履きや靴に画鋲や生ゴミや虫が入れられていたときはそれぞれあるべき場所に戻したりして手間が掛かりはしたが、それでもそれらを仕掛けた者に仕返しをしたり文句を言ったりはしなかった。理由は一つ。時間の無駄だった。

 ……暇があるなら自分の未来に活かせばいいものを。

 気に入らない他人のために時間を潰す本人の時間が無駄なら、それに関わる山添尊の時間も無駄。

 ……二重の無駄を強いるなら、連中は存在すら無駄だな。

 そんなふうに考えて帰途につき、帰宅するや自分のやるべきことをした。流行りの話題についてゆくためか、同級生の多くが宿題を蔑ろにする時間は、両親が早くに亡くなった山添尊に取って最も大事な自己鍛錬の時間であった。勉強をするだけでなく、筋肉を鍛えて、魔法の練習をして、将来あらゆる場面で資本となる自身のポテンシャルを高めることに時間を費やしたのである。児童養護施設を家としている山添尊が学園に通っているのは主に精神面の鍛錬であり、比較的平穏な児童養護施設に引き籠もらなかったのはあえて面倒な環境に身を置くことで過酷であろう大人社会への免疫を獲得するためであった。

 ……無駄にしていい時間などない。

 三〇歳前後で亡くなったらしい両親には、約七〇年の余裕があるはずだった。その時間をあっという間に失った両親を思うと、山添尊は時間を何より重く感じた。

 「何が愉しくて生きてるの」と周囲の者に疑問を持たれるような山添尊の日常が変化したのは、高等部進学後であった。人生で初めての友人となる天白(あましろ)垂氷(たるひ)と出逢ったのである。山添尊が気に入ったのは、天白垂氷の無駄のないところであった。それまで観てきた同級生と似ているようでいて無駄を排した高い能力を持っていた。

 欠点を挙げるなら、

「お前とは親友になれねぇな」

 人付合いにおいて感情的だったこと。「オレだって無駄は嫌いだが馬鹿笑いできる仲間だって大事だろ」

「意味が解らない。馬鹿笑いなどしている暇があるなら筋トレしたほうがいい」

「腹筋や横隔膜は鍛えられるぞ。知ってるか、笑わない奴は笑う奴に比べてストレスが発散しづらいから寿命が縮まるんだとよ」

「笑いのストレス緩和効果は知っているつもりだ。が、笑ったあと無駄な時間を費やす関係は保つことに意義がない」

「ひとりで笑うってのか」

「そもそも笑いなど不要。腹式呼吸や低酸素運動、有酸素運動によって代替が可能だ」

「笑い一つで全て済むのにわざわざ替りのストレス発散メニュを用意するのか」

「わたしにはそれが合っている。君には合っていない。それだけのことだ」

「やっぱりお前とは親友になれそうにねぇや」

 感情的だ。

 ……こうでなければ、君ほど優秀なライバルはいないというのに。

 体術や魔法で山添尊と天白垂氷の右に出る者が学園にはいなかった。競い合った両者がどんどん伸びてほかの生徒を置き去りにする能力を身につけていた。競い合って確かめた実力を互いに認めながら、山添尊は天白垂氷を仲間とは考えておらず仲間になろうと身の振り方を省みたこともなかった。

 山添尊と天白垂氷は双璧のまま高等部卒業を迎え、ともに警備府を就職先とした。山添尊は天白垂氷とほぼ同時に出勤し、仕事に邁進した。部署が異なり帰りの時間が合わなかった。それぞれ外で仕事が終わって直接家に戻ることが多かった。

 幼い頃から生活管理をしてきた甲斐もあって山添尊は規則に厳しい公職に馴染んだ。無駄を嫌う職場は山添尊の性格にもマッチしていた。

 ……この仕事を選んでよかった。

 児童養護施設を除くと、無駄を嫌う性格を咎められることがない初めての環境だった。

 ──あなたには他者を動かすことに長けた目線と冷静さがあります。

 とは、警備府の仕事を選ぶきっかけをくれた児童養護施設の所長の言葉である。その助言以前から、感謝してもしきれないほどの恩を山添尊は所長から受けていた。両親の代りに自己鍛錬の場を設けてくれたことがそれである。言葉で感謝を伝えることは無論していたが、遠慮がちに微笑むだけの所長に真の意味で恩返しができるとすれば、仕事をきっちりこなして国のためになることをできたときだ。ならば──、と、山添尊は国益優先を決意した。

 就職の数年後、後に〈悪神討伐戦争〉と称せられる大戦争が始まって各国政府が外敵たる悪神に対抗すべく遽しく対応した。

 公職に就く者の多くが非番返上で働いていた三〇一五年一二月八日の日曜日、悪神襲撃による被害調査業務で外回りをしていた山添尊に天白垂氷から入電があった。

「──現場はまずい状況になってる。お前も気をつけろ、あいつらは……オレ達みたいなただの人間じゃ勝てない」

「君はただの人間ではないと評価しているが」

「普通の人間と思わされた、いや、再認識させられた」

「君らしくなく謙虚だな。それに、こんな電話をする暇があるなら仕事に戻れ」

「ふと気になったんだよ」

「何がだ」

「オレ達は同じ仕事を選んだ。国に資する仕事だ。無駄を排して多くの人間が愉快に過ごせる国を作るために、豊かで穏やかな世界を作るために、誰より効率よく動いて誰より笑って生きていく──」

「与太話なら就業時間前の数秒で足りる」

「無駄を無駄と排するお前の考えは解ってる。だが最期くらいいいだろ、付き合え」

「最期、とは」

「脚が持ってかれた。もう動けない」

「……そうか」

 天白垂氷は馬鹿話が好きな人種だが、笑えない噓をつく人物ではない。無駄を排し、役立つ情報を集めるのが山添尊の仕事である。

「いったい、何が起きている」

「戦争が起きてる。ただそれだけだ」

「君は敵性調査業務の最中だな。悪神と戦闘になったのか」

鮎墨(あゆずみ)語大橋(かたりおおはし)付近で搗ち合った」

 警備府のある田創町南部に位置する町が鮎墨町。そこにある語大橋は人流・物流が多く長いスパンで経済的損失が懸念されるため、破壊されそうなら防がねばならない。

「大橋はなんとか無事だが、押し返すのが精一杯だった」

「増援要請は」

「した。じきに戦闘専門の成員が現着するだろう」

「状況報告は」

「してなかったら職務怠慢だろ」

「なら、君がすべき仕事は生存だ。出血を抑え、入院し、回復に努めることだ」

「……すまない、何か言ったか」

「……、生きろ。それだけだ」

「…………悪い、それは、無、理そうだ……」

 急激に意識が遠退いている。

 ……出血量が既に──。

 生きることを放棄するように会話を望んだのだとしたら相手を間違えたとしか山添尊は考えられなかった。彼には親友と呼べるような相手がいたはずで、最期に語るべき相手としては家族や恋人が最適ではないか。

「君は無能だ。わたしと話す選択は全くの無駄だ」

「結構。同じ学園で競って、同期になったお前だから、いいんだ。家族や恋人や親友と、こんな声で話したら、嫌でも夢に見させて、つらい思いをさせるだろ」

「わたしは君を振り返らない。無能の君は世界から排除される」

「ああ、……お前が友達で、よかった……。じゃあな──」

 声が途絶えた。

 しばらくして、携帯端末が地面を転がったようだった。回線が繫がったままになっていて、オォォォォ……風を捉えたであろうノイズが続いた。無駄だと判っているのに、その音を耳に入れて、山添尊は数十秒を過ごした。

 ……早く来い。増援は、何をしている。

 ノイズしか聞こえないことに、山添尊は苛立った。

 ……友達、か──。

 競い合ったライバルで同期。山添尊は天白垂氷を友人と捉えたことがなかった。が、いまさら、認識が変わったようだった。

 ……こういう感じなんだな。友人が、亡くなるというのは──。

 ノイズしか捉えない無能な耳を呪うしかなく、仇といえよう者に直接の武力を振るうことを考えられない弱さをまた呪う。

 天白垂氷は優秀だった。調査部所属となった山添尊より戦闘に長けていた。魔法を使わせても一級だったが徒手格闘でも右に出る者がなく一つ一つの判断も研ぎ澄まされていた。そんな天白垂氷の脚を奪い死亡させた相手に、どう考えても敵うわけがない。そんな無力を一瞬で冷静に判断できてしまった自分が、山添尊は心底呪わしかった。

 普通の人間を羨ましく思ったのは、そのときが初めてだった。友人を作り、恋人を作り、家族を作り、無駄な時間を無駄と考えずに済む思考回路を有した友人のようなひとびとが──。

 

 ……無駄は、やはり好けない。

 人生、何が起こるか。下流階級出身で学園にもまともに通えそうになかった山添尊が両親の死をきっかけに階級上昇の機会を得て、国益にまで関わる仕事に就けた。徹底的に無駄を排したことで得た地位でも直接の防衛活動から遠いため、同期ながら敵性分子との戦闘も担えた天白垂氷と比べれば格下だった。彼との格差を生んだのは余裕のなさであろうと山添尊は分析する。山添尊がいうところの無駄な付合いを彼は惜しまなかった。関係が彼を強くし、格上の地位にまで上昇させた。一方で早くに命を落とす結果を招いたことも確かであった。

 敵性分子と刃を交えることがなく、かつ、社会的に恥づることのない地位に落ちついている山添尊は長生きできるという点でも無駄を排することができる。とは言え、

 ……君は、もっとこの世界に役立てた人間のはずだったんだ。

 天白垂氷が失った将来。その中で成し得た貢献を山添尊では成しようがないが、

 ……違う形で、必ず実現する。

 国民が愉快に暮らせるよう、そのための国益を獲得する。

 

 国民とは、どこまでをいうのだろうか。国に利益を齎せば国民か。国に仇を為せ(な )ば非国民か。国のルールを直接作っているのでもない山添尊は、所詮一国民であって国民の枠を定められる立場にないが、主観的意見を挙げるなら、そう、国民とは、国という大きな枠の中で家族や恋人や友人、同じ土地に住むひとびとを想うことのできる人間ではないか、と、思うのである。

 ……わたしは、……何を命じているんだろうな。

 調査部部長になっていた山添尊は三〇四〇年一一月二〇日の土曜日、政府の方針に従って外部特派員の引分史織に竹神音の娘竹神子欄への接触を命じた。三〇二七年に一度その役割から外したものの同年中には監視業務に再任命し、成長加速の情報を引き出せると見込んで此度の命令と相成った。

 同日、サンプルテの竹神家監視業務を終えた引分史織から報告が入った。

「──本音をいえば複雑です」

「情報は聞いた。通話を切って来週に備えるといい」

「ぼくはまた、彼女に噓をつき続けるしかないんですか」

「弱音を吐かずこなせ」

「……はい」

 通話を切った山添尊は、デスクに置いた携帯端末を引分史織と思って一瞬睨んだ。

 ……黙って従え。君以上の適役はいない。

 竹神子欄との過去がある彼にしかその役を担えないともいえた。ただ、出自や過去の出来事に縛られた引分史織の立場や心情も理解はできた。

 ……うまく運ばなくてはな。

 成長加速の魔法は国益に成り得る。ゆえに獲得する。だがそれ以前に、竹神子欄は治癒魔法研究者として働き、引分史織は国のために情報収集を行う、守るべき大事な国民だ。「国」という枠の中で国民が一細胞程度に扱われ得ることを山添尊は無論認識しているが、竹神子欄や引分史織をそのように扱いたくはなかった。天白垂氷がそうであったように、脚を失えば失血死することはあるのだ。切り捨てたあとになって大動脈が通っていることを知っても遅い。切り捨てて失血死しないとはいいきれない。

 ……たとえ矮小でも、細胞と捉えるならむしろ自然に寄り添う。

 傷口があっても、竹神子欄と引分史織は理解し合って生きてゆける。その未来を作ることは広い意味で国の利益の一つである。

 

 三〇六〇年一一月二日、土曜日の夜、山添尊の考えと裏腹に竹神子欄と別れた引分史織が思わぬことを口にした。

「ぼくと、付き合ってもらえませんか」

 どう転んだらそう考えられるのか。問いつめたところで山添尊は姿勢を変える気がないので無駄である。

「君の配置を変更する」

 間髪を容れず仕事の話をされて脈がないと察せられないわけがない。言葉を返せない引分史織に山添尊はさらに伝える。

「竹神一家及び竹神子欄からは離れて別場所への監視任務に当たってもらう」

 彼らを引き裂いたのが引分史織の仕事であることは明白だった。そうなることも予測しながら仕事を与えた山添尊にも、この状況を招いた責任がある。

「決定事項は追って伝える。今日は早いが帰宅して休め」

「……家族サービスでも、することにします」

「時間がある。自分を見定めておけ」

「はい……」

 ……君に与えられた無駄な時間を有効に使え──。

 天白垂氷に取ってそうであったように、彼に取っても無駄が無駄ではない。

 ……そう、信じさせてくれ。

 らしくない感情的結論が仕事の外でなら許容されてもいいと思えるほどには、山添尊は柔らかくなった。

 

 

 走ったのだったか。歩いたのだったか。どこを通ったのか憶えていない脚がエレベータ前で止まった。

 ……ああ、家か。

 両腕を抱えているのは、寒さのせいか。

 上で停まったエレベータ。ボタンを押して降りてくるのを待つと、到着を知らせる音が鳴るまでにそうは掛からなかった。

 扉が開いた。納月の待つ温かい家に、帰れる。

 ……、……。

 膝と腕のあいだから洩れるエレベータの眩しさに瞼を落とす。頭が痛くて、

 ……寒い。

 引分史織と同じように平気を装った上辺が途中から崩れていた。腕が濡れているせいで異様なほどに寒い。

 予測のついていた結論を確かめただけのことだ、と、想定内だ、と、心から言えたならこんな思いはしなかった。心のどこかでは納得しておらず、何かの間違いだと思いたかった。

 ……わたしも、下流階級出身だったらよかったのにな。

 最初から同じ立場で、同じ差別に苦しんでいたのなら、土台から同じ思いを持って寄り添えたはずなのに。絶対にあり得ない仮定の理想論などなんの意味もないのに、それを考えずにはいられない。

 ……だからきっと、引分さんもあんなあり得ない質問をしたんだ。

 絶対的に寄り添える要素を生まれ持っていたかった。質問にはそんな暗示もあったのだ。

 寄り添えることが定められた者ばかりではないから理解し合おうとする気持が湧くのも確かで、子欄は、そう存りたいと思ったから膝を抱えている。

 ……これでいいんだ。これで、引分さんは、本当に幸せになれる。

 隔たりを知り、同じ痛みを知った者同士として、一定の理解と共感を得られたことも大きいだろう。子欄と引分史織は、これからいくらでも幸せになる道を見出してゆける。

 ……そのはず、なのにな……。

 どうして、こんなに寒い。

 頭も腕も膝も潰れて消えてしまいそうだ。

「子欄さん!」

 ……引分さんの……幻聴か。

「こんなところに座り込んで……」

 ……病んでいるな、わたし。

 そう思った矢先、肩から被さる温かみがあって、恐る恐る顔を上げると、

「子欄さん……それ、届けに来ました」

 引分史織がいた。どうして、ここに彼がいる。

「幽霊を見たような顔ですね」

「……だって、あなたとは別れて──」

「……はい、恋人では、もうありません。結婚も、ごめんなさい」

「だったら……──」

 子欄は、肩に掛かった自分の上着にいまさら気づいた。「……律儀ですね」

「今を逃したら、届ける機会がないと思いました」

「……そうですね」

「話す機会も、なくなると思いました」

「……。どういう意味ですか」

 あんなふうに振られることを望みながら、子欄はやはり気質が変わっていない。「外からは判りにくいでしょうけど、あなたくらいは、わたしの気質を忘れないでくださいよ……」

「甘えたいんでしょう」

「……お姉様に甘えますからもう大丈夫です」

「いつお姉さんに合流できますか」

「……」

 情けないことに、立ち上がれない。目の前に引分史織が立ち塞がっているから、と、いうのは言訳で、先程の彼の言葉の裏を読んで、手放したはずの将来を手繰り寄せられるような気がしてしまっていた。

 ……二回も、失敗してるのに。

 一回目は幼かったと吞み込もう。二回目は隔たりに気づけていなかった愚かと吞み込もう。三回目があったらどう吞み込めばいいか、そのとき判るのだろうか。して、苦しい思いでまた吞み込むのだろうか。今度は喉を詰まらせてしまうかも知れないのに。

 引分史織が、唐突に頭を下げた。

「……え」

「まず、謝らせてください」

「いったい、何を」

「噓をついて、すみません。仕事のこととはいえ、子欄さんや、子欄さんの家族を監視していたことを黙っていて、ぼく自身、噓をついている気持でいたんです」

「それは……もう、いいです。仕事だ、と、割りきりました」

「だとしても、もう一つ。ぼくは、隔たりについて、積極的に話そうとしたことがなかった。それは、隔たりに気づいていなかったあなたに対して、理解できないと侮るような姿勢だったように思うんです。そして隔たりが変わることはないと一方的に結論したようなものでした。話し合うこともせず、傷を恐れて、そのくせ暗に皮肉をぶつけるように下の階級であることを主張して、……大事なことから、目を背けていた。それこそが隔たりを生む姿勢だったのかも知れない。いまさらながらそう省みました」

 省みるたびそうやって頭を下げるのか。この先ずっと。

 ……下流階級出身でなくても、その機微に気づけていたなら──。

 隔たりを乗り越えて寄り添い合えたに違いない。そうはできなかった、甘えん坊の自分を子欄は引っ叩いてやりたかったが、そんなことをしてももう遅いのだ。引分史織とは一生、恋人にはなれない。

 ……なれないけど──。

 子欄は立ち上がり、上着の前を閉じるようにして腕を抱え、引分史織を見つめる。

「謝らなくていいです。話した通り、わたしが気づくべきことがありました。気づくのが遅すぎて、あなたに、苦しい思いをさせたことを、わたし自身が許せそうにないんです」

 甘えたくて、甘えたくて、仕方がない。甘えさせてくれる気質の引分史織に、つい、甘えてしまって、結局甘え倒して、心を酌まなかった。自分と同じように、引分史織にも甘えたい気持があって、甘えさせてほしいときもあることに、全く気づかず、目を向けなかった。

 誰もが全てを吞み込めるわけではない。誰もが何かに苦しんでいる。そのことに気づけた今も甘え続けることはできない。そう思っていてもきっと甘え倒してしまうことを、子欄は判っている──。

「さような──」

「話はまだ終わっていません!」

「っ──」

 

 弓を引き絞る。姿勢を崩さず、的を見つめ、指を自然に緩める。張りつめた弦に押し出された矢が空気を切り裂いて、

 ザッ!

 紙製の霞的を突き破って安土に刺さる音は、二八メートル離れていても耳に心地いい。全てが整然。矢がそこにあることが自然のような感覚は、実際に弓を引くまで知らなかった。

 

 最初に胸に刻んだ経験は、あの感覚だったのかも知れない。

 遥か遠くのミサイルさえ打ち落とした奇跡の射手たる父が言っていた。

 ──己は何者か、何者であるべきか、ってね。

 子欄は、何者であるべきか。

 ……わたしが、引分さんと──。

 父に一つ反論するなら、あるべき、ではなく、……わたしは、()()()()んだ。

 呼応するように、引分史織が落ちついて口を開いた。

「友達に、なってください」

 力強い言葉であった。

 恋人としては別れたのに友達になどなれるのか。

 子欄はそんな疑問符すら浮上しなかった。向かい合って弓を引いたら空中で矢がぶつかったかのように、同じ結論を導き出していたのである。

「わたしは、積極的に会ったり話したりする相手がいませんし、友達を作った認識がありませんでした。あなたとは、かなり長いあいだ話していたのに、薄情でしたね」

「仕事柄、ぼくは、話せる相手が少ないんです。仕事のこと、理解してもらえることもないんです、そもそも話せないですからね……。子欄さんなら、ずっと前から、話せたんです」

「……そうでしたね」

「噓をつくのも噓をついた気持でいるのももう嫌なので、はっきり言わせてもらいます」

 引分史織が自棄のように言った。「山添さんに振られました!泣かせてくだい!」

「えっ」

 思わぬ報告だった。

「もう、ほんと、馬鹿みたいです、ぼく……ははは……」

 自嘲の笑みには、初老紳士らしからぬ幼さが滲んでいた。「山添さんに振られた話ができる友人もほかにはいません。慰めてもらえると助かります」

「曲りなりにも元恋人なんですが」

「是非嘲笑してください。そのために話したいというのもあります」

「……言訳ですね」

「はい、言訳です」

 友人になるための。

 互いの仕事を知っている。監視し・されることを知っている。それでも受け入れられた過去もある。隔たりも、越えられなかったことを吞み込んだ。

「ついでに、ぼくは別のところの監視業務に就くことになりそうです。子欄さんの家族の監視に三度(みたび)就くこともあるとは思いますが、そのときは……思いきって断ろうと──」

「結構。仕事は仕事です」

「子欄さん……」

 もう恋人ではない。恋人にはなれない。そう割りきっても胸はやはり痛む。だが逆に、これまでは少なかった時間が長くなりそうな気はする。それは、ティーカップや窓の外を眺めてばかりいた眼で、彼を視る時間だ。

「友人ですか。ほとんど手を繫いだこともないわたし達は、友人でも上等でしょう」

 気心を知っている。「腐れ縁のほうが合ってるような気もします」

「なんだって構いません。子欄さんとは先輩・後輩でもあります」

「言訳を畳みかけますね」

「噓ではありませんから。子欄さんを先輩として慕っていた気持も、好きになった気持も、一緒にレモンティを飲む時間に癒やされたのも、誓って噓はないです」

「素直ですね」

「少しは、弟気質を見せてもいいかな、と」

「ふふふ……姉気質を磨くのに利用させてもらいます」

 上着をしっかり着るといつまでも話していられそうだった。就学時代の付合い、別れを経て再会してからの付合い、その全てより気兼ねなく話して夜が深まった。オータムパレスの住人の出入りが少なくなり仕事や外食から帰るひとびとで騒がしかった前の車道も静かになって、薄い壁伝いにマンションの声がエントランスホールにまで聞こえてくるようだった。

「──あ、もう二二時過ぎ……。長長とすみません」

 と、引分史織が時間を気にした。これまでなら一時間五〇分も話せば長いほうだったが、今日は四時間超も話していた。

「あなたがこんなにお喋りとは思いませんでした」

「子欄さんも。……お互い、存外遠慮していたんですね」

 引分史織は姉妹に挟まれていて我慢することが常になっていたから子欄の前でも自然とそうなっていたのだろうが。

「わたしは、末妹気質を抑えていたんでしょうね、(嫌われたくなくて)」

「……ぼくは嫌ではありません。じつの妹に比べたら慎ましかったですから」

「そう、ですか」

「毎日相手するのは大変そうですが」

「そうですよね……」

 嫌われていたら友人にもなれなかったかも知れないので、動機には適わなかったとは言え抑えていてよかった。

「こんなわたしに毎日付き合ってくれているお姉様には感謝してもしきれません」

「ぼくもたまには妹に感謝してもらわないと嫌になりそうですね」

「背中を押してますか」

「兄の素直な意見です」

「参考にします」

 納月と同じ位置で生きている引分史織の意見なら信頼できる。

 別れ際、「今度はいつ会いますか」と、引分史織が訊いたので子欄は迷わず「いつも通りでいいでしょう」と答えた。毛嫌いして拒絶し合ったのでもない関係だ。行きつけの店を変える理由は何もなかったのである。

 ……前より親しくなっている気もする。

 彼もそう思ってくれているだろう。と、()()()で済ませていいか疑問符がついて、同じく別れ際、子欄はこう尋ねた。

「わたし達、隔たりを越えられてるように思いますが、どう思いますか」

 引分史織の回答は、

「勿論」

 と、前向きだった。「これからもよろしくお願いしますね、先輩」

「先輩はよしてください」

「照れた表情が可愛いですね、先輩」

「夜闇に閉じ込めて帰れなくしましょうか」

「おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

 にこやかに手を振り合うひととき。この貴重さを知って、棄てることはもうできない。

 三〇六号室に戻ると、玄関で待っていた納月が含み笑いで

「照れた表情が可愛いですねぇ先輩っ」

「んっ──!」

 子欄は顔から火が出るようだった。「いつからいたんですか、なんで聞いてるんですか!」

「帰り遅いなあ、と、心配してたらエントランスで話し込んでるんですも〜ん、姉としては気になるじゃないですかぁ、むふふ」

 どうやら長話のほとんどを聞かれていたらしく、その夜、子欄は納月に弄り倒された。

 

 それからおよそ一三年間、魔物襲撃事件が勃発するなど騒ぎがちらほらあったものの大半は穏やかに過ぎ去った。

 増えに増えた仕事に潰されたのでもないが魔物襲撃の数箇月後、定年間近で退職した引分史織が、

「これから第二の人生です」

 と、隠居暮しを宣言した。土曜日の夜のティータイム、いつもの席で明るい表情を見せた彼に、子欄は伊吹特製のチョコレートケーキを注文してお祝いした。

「お疲れさまです。晴れてあなたに見張られることがなくなったわけですね」

「ほかの人が動いている可能性はあります。気をつけてください」

「それをOBのあなたが言うのは間違ってますが気をつけましょう」

 はっきりとした四季のある土地なら四月は春であるが、この国の夜は季節感なく冷え込む。店主らのお気に入りのBGMに等しく喫茶店は過ごしやすい室温が保たれ、ゆっくりと話すにうってつけであった。

「少し気になっていて、在職中の引分さんには訊きにくいことだったんですが、いいですか」

「委細でなければ話せることはあると思いますよ」

「業務内容ではなく引分さんの気持です。答えられなくても構わないので気にしなくていいですよ」

「解りました。では、聞きます」

 ティーカップを仰ぐ姿勢がすっかりご隠居の引分史織に、子欄は変わらない姿勢で尋ねる。

「いくら業務とはいえ、引分さんが仕事一辺倒のひととは思ってません。だから不思議に思うことがありました。わたしの監視はともかく、わたしの家族の監視を裏でこそこそ、と、いうのは、あなたの性格的にかなりきついものがあったと思うんですが、よく一三年前まで隠せましたね。わたしを侮っていた、と、いうなら甘んじて吞み込みますが理由はそれだけではないように感じてます」

 引分史織は基本的に善人だ。騙すことに罪悪感があったことは一三年前にも話していたし、山添尊に振られたことを打ち明けて裏のない友人関係を求めたことも話していた。なら、竹神一家監視業務について後ろめたく感じて、もっと早くに子欄にばらしていてもおかしくはなかった。そうしなかった理由はなんだろう。見破られるまで隠し通せた理由は、なんだろう。

「侮ったつもりはありません。子欄さんが感じている理由としては、山添さんとの関係への意識がぼくの支えになっていたのではないか、でしょうか」

「はい」

「それは間違いでもありません。山添さんの力になれるよう頑張ろうと思っていました。言葉を換えるならポイント稼ぎです」

「わたしの見方はワンサイドでしたか」

「再び子欄さんの家族の監視業務についたとき、ぼくはかなりの期待をしていたんです」

「期待。なんのことですか」

「子欄さんのお父さん、竹神音さんに対してです」

 父の名前を、応答の主軸として聞くことになるとは思いもしなかった子欄である。

「お父様の何に。娘のわたしが言うのはどうかと思いますが何もしないひとですよ」

「何もしない人のもとで子欄さんが育つでしょうか」

「返しにくいです」

「子欄さんのお父さんは、間違いなくこの国において最上級の術者です。子である子欄さんが偉ぶる理由にはなりませんが縮こまって生きていく必要もありません」

 それは遠い昔に遡って聞いたことのようだった。竹神音の娘として生まれた子欄をしかし竹神音の娘であることと切り離して好いてくれた引分史織の意見には、続きがある。

「ぼくは、子欄さんの魔法が、いいえ……心が、好きです」

「洗濯の魔法ですか」

「光の当たるところを目指す有魔力が多い世界で、あなたはそうではなかった。目立たなくても、蔑まれても、みんなを陰で支えることを、当り前のようにやっていた。甘えん坊を直隠しにしていたからかも知れませんが、それでもぼくは惹かれました」

「魔法は心──、いつか読んだ絵本の文言です」

「話が脱線しました。すみません」

 ティーカップを仰ぐ微笑には多分に感情が溢れていたが、子欄はあえて深掘りせず、彼の話を聞いた。

「竹神音さんの魔法はまさしく心だと思います。だから彼の近くには精霊がたくさんいる」

 小人や毛玉、姿はいろいろのようだが、父の世話を焼きたがるお節介な存在。子欄に取っても、きっと父に取っても、家族たる存在。

「ぼくが聞き及ぶ限り、あんなふうに精霊を集めて、それでいて利用した様子のない人間は、ほかにいません。子欄さんの質問に対する答ですが、世界の人人を魅了した彼の魔法をこの眼でまた見たかったんです」

「知りませんでした。あなたは、お父様のファンだったんですね」

「下流階級で、お金もなくて、誰も構ってくれなかったぼくでも、誰かを助けられることがあるということを教えてくれたのが、彼の言葉だったんです」

「どんな言葉ですか」

「『これまで誰がみていなかったとしても、あなたが消えたらぼくが悲しい』と」

 父の番組を見返していたから子欄は判った。

「家族を失って自暴自棄になった少年に掛けた言葉でしたね」

「ぼくはあの少年のように天涯孤独ではなかった。でも、人脈の少ない下流に生まれて、両親からは見放されたように気に掛けてもらえなくなって、甘えてくれる妹がいるのに、状況が近いような気がしていたんです。何を隠そう、視聴したのは子欄さんと再会した高等部進学後なんですが、少年も、荒んだ心を癒やされただろうな、と、強く共感しました」

 生まれたときには既に放送が終わっていた父の番組を子欄が観るにはインターネット環境が必要であった。一方の引分史織も番組放送当時は家にテレビがなく、子欄と同じように高等部進学後にインターネット環境を利用して番組を視聴した。最初は監視対象のことを知るためだったそうだが、

「ミイラ取りがミイラ、とは、このことかも知れません。ぼくは彼の魔法を見たくて見たくて仕方がなくなった。勿論任務をおろそかにするつもりはありませんでしたが、任務へのモチベーションを保てたのは、ファンゆえだったと断言できます」

 ……罪なひとですね、お父様は……。

 精霊のみならず面識がない相手まで魅了してしまっているとは。ここに来て彼の新たな一面を知ることになるとは思いもしなかったので、子欄は父の魅力に感謝しないでもない。が、一つだけ疑問と疑念が湧いて解消したくは思った。

「ひょっとすると、わたしへの好感もファン心理からだったりするんですか」

 と、いうものだった。疑念そのものである言葉に引分史織が、

「全くの別物です」

 ……即答とは。

「隠し立てする必要がないことをぼくはもう隠しません。ぼくはやはりあなたが、子欄さんが好きです」

「──」

「何を僻んでも、何を羨んでも、もはや遅い。弱さが招いた余生を送ります」

 どんなに時を経ても、どんなに寄り添えたとしても、恋人にはなれない。今このとき、心が通じ合っていることを感じていても、隔たりを感じなくなっていても、彼がいう通りに、もう遅い。

「このティータイムはどうしますか」

「子欄さんが嫌でなければ続けたいです」

 引分史織が冗談っぽく、こう言う。「ぼけてしまわないように、付き合ってもらえたら嬉しいです」

「勿論、いいですよ──」

 それが彼の甘えだと子欄は捉えた。子欄の気持と自分の気持のバランスを取った、彼なりの甘えだ。

 

 山添尊に振られたあとも独り身を通した彼が特に配慮したのでもなくそうしていたことを感じていたから、友人として彼の余生に与るためティータイムの継続を子欄は決めた。そうして回を重ねるにつれて、若い頃に成長が止まって老化しなかった子欄と対照的に彼は明らかに衰えていった。一般的な有魔力個体よりも老化が速いのは無魔力個体ゆえであり、仕事をやめたことも一つの要因となっていたのかも知れない。三〇七四年五月一日の土曜日、二日後の彼の誕生日を祝うためいつものように伊吹に訪れた子欄は、ケーキではなく、お粥を彼に贈った。一口に何分も掛かる彼の横について、子欄が食べさせてあげた。

 

 ひとは移ろいゆく。そんな当り前のことが目の前で起きていて、その当り前のことが、もっと当り前の未来を感ぜさせてもいた。

 その未来は、三〇七五年一月二九日の土曜日、ティータイムのさなかだった。

「──、そろそろですね……」

 引分史織の帰途を見送る時間が近づいていた。その頃になると、引分史織の妹が帰途を同伴するために来てくれる。引分史織の妹の訪れが別れと同義であり、それまで子欄は席についてゆっくり話してゆく。

「引分さん」

「……」

「……。引分さん」

「……」

 引分史織が眠ってしまうことも増えたこの時間帯であるが──。

「引分さん……」

「……」

 何度呼びかけても応答がなかった。

 少し俯いたか、顔も、ティーカップを包んだ両手も、閉じた瞼さえも、動かない。

「…………」

 斜の席を立ち、横についた子欄は、引分史織の口許にそっと手を翳した。

 ……引分さん──。

 

 ザッ!

 安土に逸れた矢を見つめる情けない笑みに、子欄は、

「きもち腰を低くして力まず引いてください」

 指導した。

 

 引分史織に対して特別な指導をしたのでもない。平等にみんなと接して、上達してゆく様子を子欄は観ていた。

 引分史織もいつか上手に的を射るようになった。それが有魔力個体に比べて児戯に等しいとしても、誰より遅い上達でも、誰より正鵠を逸れていても、子欄には充分な威力があった。一緒にレモンティを飲んだ彼の微笑みが一番深く心に刺さって、取れなくなった。

「おやすみなさい。今までずっと傍にいてくれて、ありがとうございました……」

 後悔は数えきれないが後悔ばかりの自分を彼が望まない。そう考えた子欄は今一度、違う形で隔たりを越えたく、彼のティーカップをテーブルに預けて、おもむろに彼を抱き寄せた。

 振り返るまでもない。昔と同じようにここにいることが、彼の心を示している。

 ……ありがとう。一番に、誰よりずっと、差別に抗ってくれて──。

 上流階級出身であることや有魔力個体であることよりも、竹神音の娘であることを理由に重い差別を受けた子欄に取って、彼ほど差別なく傍にいてくれた他人はいなかった。差別に曝されてきた彼自身がそれを恐れて、嫌って、意識していたからこそ差別しなかった。無自覚に差別していた子欄に対しても寛容に、彼は姿勢を貫いた。

 ……わたしは、あなたを決して忘れません。

 

 三〇七五年四月九日の日曜日、両親の移住計画完了に伴って子欄は納月達と一緒に森の奥に移り住んだ。そこは、通常は人間が立ち入ることのない世界で、神界といわれる星の片隅であった。新たな土地に馴染めるか不安もあったがやってきてみれば懐かしさを覚える空気とのどかな響きのある村である。家から見下ろせる程度の範囲しか活動域がなく、子欄が馴染むのに時間を要することはなかった。

 

 移住前から決めていた活動方針を移住後に判ったことも踏まえて微修正しつつ、三〇七五年五月二日の火曜日、子欄は再び村を見下ろした。

 ……どこかで何かが違ったら、ここに引分さんと一緒に住んだりしていたんだろうな。

 友人として彼を見送ったのが現実でも、もしもの話を考える甘ったれた気質はそうそう変わらない。して、そんな気質に寄り添う相手と一緒にレモンティを飲めないのが寂しくない、とは、絶対に言えない。

 他方、つらいことを乗り越えて静穏を手に入れたというこの村のように、将来のために今を見つめたく思う子欄である。二階のベランダから村を眺めて納月と話していた流れで、子欄は自分の弱点を吐露する。

「教えることがなくなりそう。そうお父様にいわれて、わたしは成長を止めました。お父様ならそれを先読みしていそうなものですから、お父様なりの教育だったんでしょう」

 子欄は恐らく父の思いに反した。「お姉様がわたしの立場だったら、どうしましたか」

「成長止めたりはしないですねぇ」

「……」

 真ん中の子にも甘えたい気持があることを、子欄は引分史織から学んだ。振り返ってみると納月の甘えたがりな部分を間近で観ていたことも確かにあった。

「お姉様だってお父様に甘えたい気持はあったはずなのに、どうして成長を止めないと断言できますか」

「甘えたい気持と成長とは別問題では。年下からでも教わることはありますし、年上から教わることはそれこそ多いでしょう」

「あ、そこの受け取り方が違うんですね……」

 前向きのようでもあるが納月の考え方は消極的な部分もあるようで、

「特にお父様からは一生なくならないでしょう。神童だの化物だのいわれたひとにわたし如きが敵うわけないですからねぇ」

 ……それでもわたしよりずっと俯瞰している。お姉様はやはりすごいな。

 子欄も納月も、多くのひとがそうであるように自分の考えに則って動いてきた。が、父の存在を無視せずそれでいて自分の考えを曲げていない納月と、父に甘えたいばかりに成長を止めた子欄とでは、物事に向かう姿勢が全く異なっていた。

「わたしなんかから観れば、成長止めたっていう子欄さんもずっと成長してましたよぅ」

「そう、ですか」

「ヒトでも動物でも進化の過程で退化する部分があります。そういうのを振り返りつつも着実に成長してるわけです。お父様に甘えてる部分を退化とするなら、血の繫がりがないひとに全力で寄り添える心を持てたことを進化と捉えることもできるんじゃないですかね」

「(思いつきもしなかった……。)お姉様らしい、すごく柔軟な考え方ですね」

「誰しも自然にやってることでしょう。家と外で同じ態度の人間はいないんですから」

「目から鱗が落ちました」

 子欄がいった成長停止は主観であって実態を俯瞰できてはいなかった。立ち止まった部分があったとしても、心を何かに深く傾けることができるようになったことは、子欄の主観でも充分に成長と捉えられるものだった。

 ……もっと早く隔たりの正体に気づけていたら、と、思いもしたんだ。

 そんなふうに思えたのが就学時代より成長していた何よりの証だ。その陰で父に甘えたい自分がいて、それを退化の部分だと捉えるとしても、自身の進化を支える大切な土台だ。成長を止めたと悲観的に観る必要も、切り捨てる必要も、ない。

「唐突なようですけど、これから目指すものとかあります」

「わたしですか」

「傍に幽霊がいなければ」

「そうですね──」

 過日に開かれた家族会議で子欄は家族のサポートに回ることを明示した。竹神家の面子が全員集合したこの家で尋常な量ではなくなってしまった家事を分担するためであるが、子欄自身そういった役割が向いていると実感しているから進んでこなしたいと考えている。家族会議の場には納月もいたのでそういった方針を解った上での先の質問である。

「サンプルテを離れて暮らすようになって、わたし、お姉様のすごさをつくづく感じたように思うんです」

「お姉様って──」

「あ、納月お姉様のことですよ」

「わたし。何故」

 首を傾げる納月。すごい、と、いわれるのがこれまでなら音羅だったからだろう。自覚の有無はともかく消極的な部分があってそう思ってしまうのも止むなしだろうが、子欄は言葉にした通り納月のすごさを感じてきた。

「わたしも姉のはずなのに、姉らしくはないな、と、思ってます」

「それ、成長云云とも繫がってる話ですかね」

「はい。少なくとも妹の前で退化した部分のみを曝していては恰好がつかないと思うんです」

「持ち上げといて突き落としますねぇ。一番恰好ついてないタイプの姉がわたしですよ」

「甘えん坊の自覚があったんですか」

「こほんっ。子欄さんはわたしのような姉を目指したいと」

「はい。(可能なら体格も)」

「どうしました、見つめて」

「綺麗な眼だな、と、思って」

「よくいわれますぅ」

「冗談ですよ」

「子欄さんも冗談を言えるようになったんですねぇ、感心です」

「成長してますか」

「成長してますねぇ。話すのが愉しくなるなら毒舌でも歓迎ですよ」

「話芸も日日精進します」

「職人気質っ」

 ……僻みのようなことは言えないからな。

 体ばかりは遺伝子などの問題もあるだろうから高望みはすまい。家族が心地よく過ごせるようにしたいので、子欄はコンプレックスや高望みを潜めるくらいはしたいと思うのである。

「と、いうことでお姉様、これからも部屋の掃除や身の回りのことは任せてくださいね」

「言われなくても任せますっ」

「いっそお父様のように動かないでいてくれると助かります」

「どういうことです」

「お姉様が通るだけで仕事が増えるので」

「嵐扱いっ」

「竜巻ですよ」

「変わらんっ」

 その昔、姉二人の会話を聞いていることが多かった子欄であるから、しんみりするつもりもないが納月に会釈した。

「ありがとうございます、お姉様」

「藪から棒になんの感謝です」

「お姉様と、こうやって話せるの……じつはすごく嬉しいです」

「ティータイム、一緒しましょうか」

 納月の誘いを、子欄は少し考えて断った。

「──これからは、独りでもできます」

「いいですねぇ──」

 形の違う失恋を経てここにいる。余韻のひとときが心を穏やかにすることをお互いが知っている。

「ああ、でも一つ」

 納月が人差指を立てて言った。

「なんですか」

「独りになりたいときも、独りになりたくないときも、言ってくださいね」

 納月のみならず姉の優しさを感じてきたが、子欄はこれまでになく(うち)(ふる)えたのに会釈で返して、それでは足りないから、

「では、わたしからも一つ」

 と、告げて納月の胸に飛び込んだ。「少しだけ、抱き締めていてくれませんか」

「勿論」

 

 

 

──「不光のひとみ」 終──

 

 

 

 

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