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三章 末子な着眼

 

 三〇六〇年一〇月二六日、土曜日。

 再会してテーブルを挟むたび思っていることではあったが、子欄は今日もまた同じことを思い、今日は、それを口にした。

「一緒に飲むのは何回目でしょう。……これから、何回飲むんでしょう」

 懐古でもなく悲観でもなく、素朴な疑問と感慨であった。

「何回目であっても何万回目を望むでしょう」

 と、引分史織が微笑むから子欄は微苦笑した。

「引分さんは五一歳、人生を仮に一〇〇年として残り四九年」

 子欄は携帯端末の電卓で計算した。「一万回に届きそうにありませんね……」

「追加で一〇〇年生きれば一万回飲めますし、現実的には都度四杯飲めばいいんです」

 一日四杯ずつなら一年に二〇八杯となり四九年目で一万杯を超える。

「計算は合ってますね。わたしが言ったのは飽くまで回数で杯数ではありませんが、知恵をつけましたね」

「実際のところ一〇〇歳まで生きられるかも判らないので、確実性の高い計算をしたいと思いました」

 計算高さは前向きさに等しく、限りある時間を充実させるために欠かせないもの。

 長生きする傾向にあるのは有魔力個体や女性だと判っている。無魔力個体で男性の引分史織が有魔力個体で女性の子欄より長く生きるとは考えにくい。

 ……四九年間で二五四八回の機会。多くなるか少なくなるか。

 毎週土曜日の夜、欠かさずこうして会っているがこれからもずっとそうとは限らない。例えば、互いの仕事が押したり病に倒れたり、と、いうのはこれまでも普通にあり得たことであるし、特に五〇歳を超えた引分史織については体のあちこちが悪くなり始めてもおかしくない。

「健康診断で異常値や再検査は出てませんよね」

「はい、安心してください。レモンティのお蔭です」

「レモンティとて万能ではないでしょうが……少し安心しました」

 有魔力個体が罹らないため魔法療法が進んでいない癌は無魔力個体の中で最も恐ろしい病の一つで、手遅れにならないよう早期発見が叫ばれている。

「死亡原因のトップには心臓病や肺炎などもありますが、そちらはどうですか」

「心臓も肺も正常です」

「脳を始め血管に関する病も最近では心配ですね」

「血管年齢は年齢より若く維持できています。流行したウイルス感染症も予防できていましたから、巷で聞いた後遺症にも見舞われていません」

 ……よかった。

 癌以外の病は子欄も他人事ではない。白物ばかり食べたがる納月の健康に気を配りながら普段からバランスのいい食事を作っているし、感染症の流行で国家レベルの行動自粛が求められた際は外出を控えたりもした。納月と住むオータムパレスの玄関に消毒用ハンドジェルや空間や布に使える除菌スプレを置いて使い、以前から習慣化していたうがい・手洗いも徹底している。万一の感染に備えて、感染者用エリア・共用エリア・清浄エリアを一目で識別できるようゾーニングを施したりもして、自主隔離生活ができる環境を整えた。

「そう、そう、また妹が生まれました」

 と、子欄は報告、「と、いっても、わたしも月曜日にお母様からメールがあるまで知りませんでしたが」

「おめでとうございます。ちょうどいい機会ですからご両親にも会いましたよね」

「いいえ、行っていません。行くべきなんでしょうが……」

 子欄と引分史織はまだ婚姻関係に至っていないため姓選択もしていない。すなわち夫婦別姓で結婚している、と、いうのとは違う。

 ……お父様やお母様に、背中を押してもらっているような気がする。

 顔も知らない妹の誕生を祝いに行くより顔を知っている両親や長女音羅としっかり話すため会いに行く、と、いうほうがよほど子欄らしく、それができていない現状、もっと強い訪問理由がほしかった。端的にいえばそれが婚姻で相手は引分史織しかあり得ない。両親がその婚姻を促してくれているような気が、子欄はしたのであるが。

 ……そもそも、引分さんから言ってくれてもいいことではないか。

 出身階級の差や魔力の有無で意地を張っていい歳はとっくに過ぎている。恋人関係に戻るための告白に等しく時間が掛かるなら半ば納得できよう鈍重な彼だがしかし、そんな彼が極めてバランス力のある人間であることも子欄は弁えているつもりである。いうなれば、彼には婚姻できない理由が階級や魔力以外の何かにある。その何かに皆目見当がつかなかったから子欄は告白を待っていたが、平均寿命と照らしてとっくに半生を過ごした彼のことを思うと、悠長な姿勢ではいられない、と、焦りを禁じ得なかった。

 子欄の焦燥感を余所に話題は両親の六女についてである。

「新しい末妹も子欄さんと同じように成長が速められたんでしょうか」

「そうですね、恐らく。(新しい末妹、か──)」

「確か、お父さんがその魔法を掛けたという話でしたが──」

 ……わたしがサンプルテにいた頃の末妹は五女の謐納(ひつな)さんだったが、今や六女──。

 これが元末妹の悲嘆というものだろうか。ひょっとすると納月も一度は感じたことかも知れないし、ずっと感じてきたことかも知れない。引分史織を超越するであろう真ん中っ子の力強さはそうして納月に備わっていったのかと思うともっと姉想いになりたく、物思いに耽っていた子欄はすっかり引分史織の話を聞き漏らしていた。

「──子欄さん、聞いていますか」

「え、あ、申し訳ありません、考え事をしてました。なんでしたか」

「はい、成長加速はどんな魔法でしたか。子欄さんが成長を速められたときどんな感覚だったんだろう、と、思って訊きました。その頃のことは憶えていますか」

 そんな話だったのか。目の前のひとをおざなりにしているようでは真ん中っ子になれまい。末妹に甘えてもらえるような姉にもなれそうにないので、ここでしっかりと力を身につけなくては。と、子欄は堅苦しく考えて応ずる。

「正直なことを言えば憶えてません。お父様と話した憶えがあるのは、お母様の経験的記憶を受け継いだことで、その証拠にわたしは教わってもいない弓術に長けていました」

「先輩達も驚いていたとぼくも当時学園で聞きました。実際、子欄さんの弓の腕前は先生を含めても学園トップクラスだったと思います」

「褒めすぎです。それ以外だと、日常生活を送る上での最低限の経験も備わっていた実感があります」

「例えば、二足歩行するとか」

「ええ。ペンシルが字を書く道具だとか、それで字を書いてみるとかもです」

「試しても習ってもいないのに、と、いうことですよね」

「ええ」

「すごいですね。では、コンセントにプラグを挿すとか包丁で野菜を切るとかも」

「コンセントに素手で触ってはいけないとか、包丁は指も切れるとか、そういった危ないと思われることも避けられていた気がしますから、そういうものも含めてですね」

 子どもの六割超が家庭内で怪我をするというデータがある。内容を観ると、擦り傷、切傷、打身、異物誤飲などなどが要因となり中には手術が必要になる危険なケースもある。子欄も子欄の姉妹もそういった怪我をしたことがほぼない。無知であるはずの幼い頃は気をつけようもない怪我を負わずに済んでいたので危険回避の知恵や経験が継承されていたことも間違いがない。父の話からもそれは察するところであった。

「わたし達に与えられたのは、──親からの愛情といえるでしょう。良くも悪くも痛手を知りませんでした」

「一概にいいことといえないのも確かですが、愛されて育ったことは間違いなくいいことだとぼくは思います」

「(それはそうだ。)成長については、そのあとのおまけみたいなものかも知れませんね」

「……それは、どういうことですか」

「成長促進は、そういった継承された知識や経験に釣合が取れるような体にするためだけのものだと思うので」

「……そう、でしたか」

 引分史織が何やら難しい顔をした気がしたので、子欄は尋ねる。

「お父様やお母様は外見なんて気にしてないんでしょうが、赤ちゃんが喋ったり魔法を使ったり弓を引いたりしたら恐がるひとはたくさんいるでしょう。そういった懸念を払拭するためでもあったと考えます。引分さんはどうです」

「同じ魔法が使えるなら、同じようにするかも知れません。ただ、それは知性・経験が継承されていることが前提で、その継承がどのように行われているのかがキーです。成長加速の魔法に知性・経験の継承が組み込まれているのかが最大の問題かも知れません」

 と、いつものように微笑む引分史織に子欄は続けて尋ねる。

「継承が成長とセットなら、わたし達が怪我をしなかったことも納得できます。ひょっとして引分さんもそういう魔法を掛けられたかったんですか」

「高望みかも知れませんが、そんな魔法があるなら魔力を得ることもできたかも知れません。そうしたら、すぐに上流階級にもなれて、家族を安定した暮しに導けたでしょう」

 魔力の有無は生まれつき決まっている。魔力を持たない人間が生後魔力を得た場合にどうなるか、魔力を持った人間でも素質のない魔力を宿したらどうなるか、その一端を子欄は知っている。引分史織もその当時の事件を知っているので知らないわけがない。それでも、有魔力個体になれていたら、と、架空の人生を想像することはやはりある。

 ……わたしだって、竹神家の子ではなかったら、と、思わないでもない。

 引分史織との決定的な差を生じたのは、上流階級であることでも有魔力個体であることでもなく、竹神音の娘として生まれたことだった。国に取っての危険人物の娘として監視されるようなことがなければ引分史織と距離を置く必要はなく、三〇年以上も前の訣別が婚姻と掏り替わった可能性も見えた。そういう意味で、出自を怨めしく思う気持ならよく解る。

「しかし、少し誤認していました」

 と、引分史織が微苦笑で話したのは、成長促進の魔法に対する見方だった。「ぼくはてっきり、子欄さんの知性や経験が成長加速の魔法によって与えられたものだと思っていました。子欄さんの話を聞いていたら、その辺りはあまり明確ではないようですね」

 言われてみればそうだな、と、子欄は気づかされた心地であった。

「わたしもごっちゃにして捉えてました。歴史のように、古い記憶ほど曖昧になって大雑把に話しているものなのかも知れません。引分さんにもそういうことはありませんか」

「ぼくは……出自や物心つく前のこととなると子欄さんと同じかも知れません。案外自分のことは見えませんし、普通、振り返ってまで理解しようとは思いませんからね」

 それでも解っているつもりになって生きてゆけるのは、それで生きてこられたからである。はっきりとは記憶になくても培ってきた現在の経験や技能でこれからも生きてゆけて危険がないということを本能的あるいは漫然と吞み込んでいる。過去を振り返って細かく調べるのは、それが歴史的事柄を読み解く上で大切な経緯であった場合などに限られ、歴史的事柄と縁遠い子欄達には全く関わりのない価値観であるといえよう。

「ただ、」

 引分史織が希しく窓の外を眺めて言う。「半世紀を生きてきた、と、感慨に耽ってみると、理解が遅すぎた気もします」

「何に対する理解ですか」

「自分の経緯の全てが土台の上で成り立っていることをです」

「土台とは何を指しているんでしょう」

「両親や姉、家柄や魔力の有無、ぼくが生まれた瞬間からあった環境、さらには、物心がつくまでに妹が誕生したことなど、避けられない環境も含みます。ぼくに限らず、そういった環境に知らず知らず染められているのが人間だと思います。それを棄てきれないのも人間だと思います。そういったものは無自覚の部分も全て土台です」

「それが、理解しなければならない土台……」

 子欄に置き換えるなら成長促進の魔法によって大きくなる前、両親の出逢いや二人の姉の誕生、サンプルテの前に住んでいたアパートでの暮しや家族関係、と、いったところだろうか。その辺りには記憶がない部分・無自覚の部分が山程あるように思えるが振り返っておらず気にしたこともなかった。山程と表現したそれがどれほど大きいかも判っていないのに気にしていなかった子欄に対して、引分史織は遅蒔きにもそれを気にし、理解したいと考えた。

 もしかするとそれが婚姻の足枷になっているのだろうか。子欄は、そこに光を当てたい。

「そういった土台を理解しておかなければ、前に進めませんか」

「みんながみんなそうではないと思います。ただ、ぼくは理解したいと思います」

「引分さんに取ってのそれはなんですか。よろしければ手伝いますよ」

「ありがとうございます。……では、一つだけ訊いてもいいですか」

 きちんと目を向けた姿勢に、子欄は応える。

「なんですか」

「上流階級出身の有魔力で、ぼくと同じ中身と外見を持ち、同じ仕事をして、同じく子欄さん達を監視する立場にあった人間がいて接触してきたとして、その上で、このぼく、引分史織がいなかったら、子欄さんは、そのひとと付き合っていましたか」

 つい最近になって考え出したことのように話していたのに、引分史織の質問は彼自身の人生の陰を感ぜさせる重みがあって、子欄はうまく咀嚼できなかった。

「っえ……。なんですか、そのあり得ない質問は」

「たらればの話であることは解っています。馬鹿げているとも思っています。でも、ぼくの土台はそれほど重く硬いものなんです」

 ……重く、硬い、土台──。

 彼はそれを先程無自覚の部分だともいっていたが、じつは粗方理解できているのではないだろうか。そうでなければ、馬鹿げた質問に対する答に意味を見出すことなどできないだろう。

 ……なんだろう、変な感じだ。

 急に、引分史織が遠くにいるような感じがした。

「子欄さん」

「……はい」

「すみません、無理な質問をして。年を取って焼きが回ったんでしょうね、忘れてください」

「……いいえ、気にしないでください」

 馬鹿げた質問。

 ただ単にそう思って答えなかったのでもなく、子欄はその日、引分史織のたらればの話に応ずることができないまま、帰途を辿った。

 彼の質問の答はなんだ。彼はそれを知っているのか。子欄がそれを口にすれば「正解」だったか。それか、知らない答を見事提示できたら「ありがとう」と言ってくれたか。それとも、かつては無自覚だった土台をじつは今は自覚しているのではないかと切り返せば「花丸」だったか。応えられなかった子欄には、引分史織の微笑みが恐かった──。

 三六年も前、それでもはっきりと憶えている訣別のときでさえ感じていた繫がりが、何かに覆われて見えなくなってしまったかのようだった。今、彼とのあいだには決定的な隔たりがある。が、

 ……判らない。何が正解だ。

 答が判らない。

 隔たりの正体が判らない。

 ……判らない──。

 子欄自身の自覚していない土台とやらを理解すれば、彼の求める答や立ち塞がっている隔たりが判明するだろうか。

 ……お父様、お母様、お姉様、……──。

 甘えるばかりの末妹。それで許されていた末妹。天才といわれ、花に喩えられ、ちやほやされていた末妹。それでいて誰からも苗字で呼ばれて、距離を置かれていた末妹。

 ……それが、わたしだった。

 四女が生まれて、姉になった。それでも、末妹気質が抜けきらなかった。姉になっても外見が老けなかったし、中身はもっと変わらなかった。街に出ても外見に因んだ周囲の反応が変わらなかったし、家に帰っても母が隙なく褒めてくれた。引分史織がいうように「褒められることがなくなった」ということは竹神家においては全くなく、子欄は末妹気質のまま五女誕生を迎えて、姉になりきれないままサンプルテを出て、六女誕生を聞いてもなお中身に大きな変化がないままだった。

 ……そうか、わたしは……引分さんとは違うんだ。

 姉妹に挟まれた真ん中の子として褒められることもなく妹に甘えられるその立場を受け入れて積極的・前向きに生きてきた引分史織。彼のように立場を受け入れていたなら、六女誕生のメールを受け取ってすぐサンプルテに顔を出していただろう。父との蟠りを無視してでも妹に甘えられることを目的に出向いただろう。子欄はそうしなかった。最も悪くいえば、引分史織の気を引くための材料として真ん中の子であることを主張し、妹を出汁にして話をしていただけだ。そんな子欄では、真正面から姉妹と向き合ってきた引分史織と釣り合わない。外面的には同じ立場でも、内面的には全く違うのだ。

「あ……」

 気づくと、オータムパレスの前だった。暗がりから抜け出たように目が眩んで、いつもは気もなく通り抜ける自動開閉扉を見つめるようにして歩いた。

 エレベータに乗り、三〇六号室に到着し、手指消毒をして、上着を除菌して、うがい・手洗いを行い、納月と湯船に浸かったとき、ようやく口が開いた。

「お姉様……わたしは、末妹ですね」

「池からボウフラですねぇ」

「……お姉様に取っては、当り前にそんな感覚だったということですか」

「うぉ、変な喩えなのに通じました」

「……」

「ぶくぶくしてどうしました」

「……」

 肩をなでなでしてくれる納月に体を寄せて、子欄は湯から顔を上げた。「四女、五女、先日六女と誕生して機会はいくらでもあったのに、わたしは末妹のまま成長をやめてました……」

「わたしから観れば子欄さんが妹であることに変りはないです。発言の意図を()()辺りから酌み取るべきですかね」

「……いいえ、わたしから話しますから考えずに聞いてもらえますか」

「構いませんよぅ」

 優しかったり察しがよかったりする姉に甘える癖がついている。察してもらおうとしている根性や自ら主張しないことによる責任回避は、末妹気質そのものだ。

「いつからか、いいえ、たぶん、引分さんと別れた日から、わたしは成長するのをやめてたんです」

 それに気づかせるような父の言葉があった。

 ──子欄は成長が速いね。早早に教えることがなくなってまいそう。

 ──……まだいろいろ教えてほしいですよ。

 父の言葉は距離を取るようなものであった。父と離れたくなかった子欄は、成長の余地があると示すのではなく、停滞することで、成長をやめることで、父に構われる自分でいようとした。が、父を助ける治癒魔法研究はやめられず、それだというのに失敗して、構われる立場ではなくなってしまったことに絶望して、長女にもう甘えられないことに絶望して、サンプルテを出たのだ。

「わたしはいつになったら、成長を始めるんでしょう……」

「ふぅむ……」

「わたしは……、……」

「ぶくぶくするのが行儀悪いとはわたしが言えたことじゃないんですけど、そんな話をするきっかけになった出来事を話してもらえると聞いてる側としては吞み込みやすいかもですねぇ」

「……申し訳ありません。じつは──」

 喫茶店で引分史織と話したことを憶えている限り正確に伝えた子欄に、納月が微苦笑する。

「話の流れは判りましたがヤベェ記憶力ですねぇ、たぶん一言一句間違えてないでしょう」

「聞き漏らしてしまった部分を除けば、そうですね……」

「そんな子欄さんに言いたいんですけど、甘えて何が悪いんです」

「……え」

「いやぁ、成長してないとか、停滞してるとかあ、そんなもん主観じゃないですかあ。仮に客観的にそうだったとしても、わたしより記憶力も女子力もあって高望みすんなぁっ!」

「んんっ!」

 ぼんっと胸を押しつけられては口を開けないし、殺意すら籠もった眼で上から言われては恐ろしくて反論できない。

「いいですかね子欄さあん。わたしが敵うのなんて、せいぜいこの胸くらいですよぉ悪かったですねえっ」

 ……わたし何も言ってませんが!

「わたしなんか料理もできないし片づけもできないしいつかの段ボール崩しすらまともにできなかったですよお手を煩わせてすみませんでしたねえっ!」

 ……もしや酔ってらっしゃる!

「だからってわけじゃねぇですけどねぇ、たまに愚痴聞かされたり弱音吐かれたりぶくぶくされてるのを横で見せられたりしても気にしませんわっいまさらですよぉまったくー」

 ……──。

「ってことで、甘えりゃいいじゃないですか。っつーか、甘えてんのは基本こっちのほうですし、っはは……情けない姉ですよ、っははは……でもいいじゃないですか、わたしらはそれでやってきましたし、誰に迷惑掛けたわけでもない。家族間くらい気ぃ緩めないで、どうバランス取るんです、家の外でも家の中でも誰にも甘えず完璧な人間て、いると思います」

 ……いない、と、思います。

「そう、いないんです、いたとしても、少なくともわたし達じゃない。わたし達にはわたし達の生き方があるんです。妹像とか末妹像とか、一般的なそれに当て嵌めるのは他人が勝手にやることで、こっちから嵌まりに行く必要ないんですよ、馬鹿げてます。それでうまく嵌まりに行けないからって落ち込む必要もないんですよ、だって違うんですもん、わたし達とその像が、違って当り前ですもん。ひとの価値観に振り回されては負けです」

 ……そうだ、そうだったな──。

 とうの昔に知っていて実践もできていたスタンスは、三〇年以上の社会生活の中、引分史織との関係の中で、少しずつ崩れていて、無理な姿勢へと変化していたのだろう。

 ……わたしはわたしで、ひとはひとだ。

 子欄と引分史織も別人格で、違っていて当り前で、行き違いがあっても当り前だ。それなのに行き違いを感じた途端不安になって、正解を探して、引分史織との共通項に安心を求めて、それがないことにさらに不安になっていた。

 ……馬鹿だな、本当に。

 手伝うと自ら言ったのに答を出せなかった焦り。狂いが生じたのはそこだろう。

 答を出さなければならないことは変わらないように子欄は思う。が、その答が彼の求めるものである必要はないようにも、今は思う。彼が求める答でも、そうでない答でも、彼なら聞いてくれただろう。どんなに硬い土台かは彼自身が理解していて、それを完全には知りようもない他人である子欄に質問したのは信頼があったからだ。そして求めていたのは、答の正確性ではない。

 ……信頼感を、試されてただけなのかも知れない。

 引分史織との付合いは、再会からでも二〇年近く経っていた本日である。子欄だって婚姻を焦り始めていたとき、五〇歳を超えた引分史織がなんの焦りもないはずがなかった。つまるところ、彼が求めていたのは、

 ……引分さん以外考えられない。それだけでよかったのにな。

 馬鹿げた質問だったからこそ、即答できたはずだったのだ。恥ずかしいなどとまごついていられる歳を、互いにとっくに過ぎているのだから。

 ……今度の土曜日は、ちゃんと応えよう。

 問われるまでもなく、前のめりで気持を主張しよう。彼を安心づけるように、自分の気持に素直に、結婚の意思を伝えよう。

 胸から解放された子欄は、湯に浸かり直した納月の意見を聞く。

「しかしまあ痴話喧嘩にも思えて馬鹿馬鹿しいですねぇ!」

「も、申し訳ありませんっ」

 振り幅の大きい納月のテンションは子欄の気持を正常化するための演技だった。

「ま、全然いいんですけどね。でも面白い表現ですねぇ、新しい末妹」

「正しい表現だと思いますが、何か違和感でも」

「いやね、わたしからしたら目の前で三回経験したことのはずなんですけど、子欄さんのときが一番印象強かったなぁ、と、思って」

「なんだか申し訳ありませんっ」

「謝んなくていいですって」

 納月が話したかったのは、「第一印象が大事とはよくいいますけど、インパクトが強いからそのあとのことが薄れるってことでもあると思うんですよねぇ」

「お姉様の場合はわたしが生まれたときの印象が強くてあとは薄い、要するに、慣れた、と」

「そんな感じです。引分さんはその第一印象が塗り変わることがなかったんでしょうね、妹が二人いるわけじゃなさそうですし」

「ん。どういうことですか」

「いや、子欄さん言ったでしょう、引分さんが『新しい末妹も子欄さんと同じく成長促進されたのか』みたいなこと」

「ええ、そんな話をしましたから。それが何か」

「新しい末妹、新しい末妹、なんて、いちいち言いませんて。みんな『妹』でよくないです、メンドくさい」

「ははは、お姉様らしいですね……」

 こういっては怒られそうだが、父に似て物臭だ。「引分さんの妹は一人です。最初で最後の末妹の誕生には大きな感動があったんでしょう。消えない感動を、新しい妹が生まれてくるたびに得られると考えているのかも知れませんね」

「感動じゃなく愛憎じゃないですかねぇ」

「お姉様、顔が悪人です……」

「素朴な疑問が湧き出ただけですよぉ〜」

「難儀な顔ですね」

「湧き出るのは口のほうですけどねっ。子欄さん案外天然ですねぇ」

「えぇっ」

「花の如く天然!」

「無理やりなオチ」

 ハイテンションなボケが浴室を響いて、落ち込んでいた気持はあっという間に浮上し、凝り固まった心が緩んだようだった。

 湯を上がって、わいわい食事をして、床につくと、賑やかしてくれた納月が噓のようにぐっすりで、子欄は、今一度考える時間を得た。

 暗がりの天井、空を切り取る窓。夜の景色はみんなで暮らしたサンプルテと思うより差がなく、離れて暮らす家族が同じ空を見ているかと思うと理由もなく安心を得られた。

 ……お母様──。

 思い立ったが吉日。携帯端末を取り出して、メールを打った。

〔 来週土曜日の夜、予定は大丈夫です

 か。

  返信はいつでも構いません。〕

 逃げ道を塞ぐわけではないが、これで後戻りはできない。

 ……引分さんに、告白しよう。今度こそ。

 置こうとした携帯端末が音を鳴らしたので慌てて画面を確認すると、……お母様だ。

 返信は明日でもよかったが勤勉で律儀な母らしい対応だ。して、そんな母は察しがいい。

〔 何か大事な話ができるようですね。

  来週土曜日の夜、オト様と待ってい

 ます。〕

 ……大事な話ができるかは、まだ確定してないからな。

 母の時間に余裕があると観て、子欄は返信した。

〔 大事な話をすることになると思いま

 すが、当日までお父様にも秘密でお願

 いします。〕

〔 ええ。

  本日はおやすみなさい。

  明日ゆっくり休んで、来週もしっか

 り研究してくださいね。〕

〔 お母様もご自愛ください。

  おやすみなさい。〕

 できることならどんな話をするかまで伝えたかったが、確定していないことを伝えられないので、訪問当日、報告内容が決まってからでいいだろう。

 ……気になることもある。

 引分史織の質問とそれに至るまでの話について納月と話していて、子欄は大きな疑問が生じていた。

 ……新たな末妹──。

 彼がその言葉を使った理由を納月に話した通りに子欄は捉えていたが実際のところはどうだったのか。子欄は、一つの憶測が湧いてしまっている。

 ……繫がりを覆い隠しているもの、隔たりは、わたしの勝手な見方、主観だ。

 そう思いたい。それを確信したいから、しっかり確認しなければならない。

 

 翌週、平日の仕事をきっちりこなした子欄は、土曜日の夜を迎えた。

 母を訪ねる予定の日であり、引分史織と伊吹で落ち合う日。仕事帰りに訪ねる形を取ることも多いが、本日はサンプルテの家族にも会うことを想定し、オータムパレスに戻って勝負服を着て──、伊吹を訪れた。

 先に座っていた引分史織に会釈して、彼と同じように上着を脇に置いて斜の席についた。

「子欄さん、今日はいつも以上に子欄さんな服ですね」

「なんですか、それは」

「シックで美しいです」

 なんの裏も感ぜさせずにそんなことを正面からいえる引分史織に、子欄はどっぷりだった。

「あなたは男性の鑑ですね」

「ぼくがそうなら、子欄さんは女性の鑑ですよ」

「本当にそうならいいんです。わたしは、今日、一世一代の勝負をしようと思います」

「一世一代の勝負ですか」

 レモンティを持つ手を下ろすも身構えることのない引分史織に、子欄は切り出す。

「質問をします。予め言うと、これは馬鹿馬鹿しくてくだらないものです。どうでもいい仮定の状況での答を聞きたいものであって、今現在のわたし達とは一切関わりがなく影響を及ぼすものでもありません。その上で質問しますから可能なら答えてください」

「解りました」

 迷いのない即答だった。これからする質問にもそのように答えられるなら、子欄は引分史織に心酔でき、サンプルテへ向かうことを迷わない。

「では──」

 子欄は、引分史織を見つめて、「質問です。お互いが生徒だったあの頃、別れたあの日、わたしがあなたの告白と取れる言葉に応じていたらどうしましたか」

「……」

「結婚してください、あるいは、結婚を前提に隠れて付き合いましょう、そう言っていたら、あなたはわたしと付き合いましたか」

「……」

 即答はできない。できるわけがない。

 彼は、そうなのだ。

 彼の全てが噓ではない。が、本当でもない。就学時代、ただの生徒と疑わなかったあの頃、表向きのその顔とは別の顔を悟らせなかった彼が今も変らずここにいる。子欄が嬉しがることを察してすらすらと返せて、下の子に甘えられることを受け入れられた真ん中の子。褒められもしないのに自分の本心を隠せて、伝えることもしないで黙っていられる真ん中の子。そうして彼が甘えられる年上の存在は誰だ。両親か。姉か。それとも──。

 上流階級に上昇することを目指して頑張っていた引分史織は、生まれながらの上流階級で生活に不自由のなかった子欄となんの接点もないはずだった。両親を大切にし、家族を大切にしている。それを互いが知って、だから、近づき合うことができた。子欄は、ずっとそう思っていた。引分史織も、少なくとも就学時代はそうだっただろう。別れの日も、きっとそうだっただろう。一つの強い共感で結ばれて、別れさえ受け入れることができた。

 けれども、共感はどこかで歪んで、歪みがどんどん大きくなっていた。歪みの起点を子欄は把握できていないが、別れの前後のそう遠くないときではないかと推測はしている。

 ……引分さんは、まだ、あの頃の仕事を続けている。

 仕事というのはそう簡単に変えられるものではない。意識的・無意識的を問わずそれまでに学んだことによって適していると感ずる労働がある。その感覚が深ければ深いほど離れがたくなる。加えて、安定した職業なおかつ昇給も見込める職業につくことが難しい下流階級出身者は〔退職〕という経歴を得たくない。就学時代には現在の職業を続けると決めた彼引分史織には転職の考えがなく、上司山添尊のお蔭で仕事を続けられたと話す表情は活き活きしていたようだった。

 就学時代、引分史織と付き合うことになったのは、心が弱っていたとき声を掛けられた。再会し、再び付き合うことになったときは心が落ちついているときだった。子欄はそのように思っていたが、殊に彼との付合いにはパターンがあったようにも振り返られる。

 ……本当にわたしは、()()()()()()()()()()()()()

 子欄は、改めて口を切る。

「わたし、今日はあなたに告白するつもりでした。この服も、納月お姉様に付き合ってもらって、買いました」

 平日の半ば、仕事が終わったあとだった。ショップというよりは昔ながらのブティックという趣の店で、流行よりは自分らしさを引き出す服を選んだ。その買物の日がいつか、

「あなたは知っていますよね。あなたは、わたし達の監視を続けている」

「……」

「黙っていてもいいですよ。今日もその監視を終えてここに来たことは判っています。観ていましたから」

「……」

 必死の自制を瞳から窺い知る。視線を固定し、瞼を閉じないことで自分は動じていないと訴えている。痙攣するような無意識の微動までは制御できはしない。まっすぐに向けられた瞳から逃げたがっている心を隠しきれはしない。

「見晴しのいい南方の耕作区域を挟んで物陰から単眼鏡を使っていましたね。観ていたのは、サンプルテの一〇三号室、そこに住むわたしの家族です」

「本当に──」

「観ていたとは、ですか。あなたとわたしは違います。あなたのように噓をつけそうにありませんから……」

 子欄も自制が利かなかった。嫌みになってしまった。レモンティを一口飲んで、再び口を開く。

「無魔力個体のあなたは有魔力個体のわたし達から居場所を探られにくい。魔力がなく魔力探知されないためです。物音さえ立てなければ、姿を見られさえしなければ、どう移動しても察せられることはない。でも、知っている人物である程度居場所の予測さえつけば見つけるのが不可能というレベルでもない。油断しましたね」

 有魔力個体と無魔力個体は、互いが互いに姿や息遣いを認識しなければ見つけ出せない。無魔力個体同士や魔力を潜めた有魔力個体同士でも同じことがいえるが、ともかく、視覚的になら居場所を特定できる。これは視覚を持つあらゆる生物に可能であり、当然、子欄は引分史織に対してそれが可能だった。引分史織が子欄に対してそれをできなかったのは、背中を向けていた。ただそれだけのことだ。

「新しい末妹」

「……」

「あなたはそんな言葉を使いました。あなたには妹が一人しかいないから妹誕生の感動を下の子の誕生のたびに感じられると思っていて、わたしの妹に対してもそんな言葉を使ったんだろう、と、思っていました。全然、違ったんですよ。あなたは、わたしの新しい末妹の誕生を、都度、期待して、待ち望んで、確認して、知っていたんですよ、それで、それを上司に報告していたんですよ、だから、『子欄さんに新しい末妹が生まれました』とか、『竹神家に新たに末っ子が生まれました』という文脈ができあがった」

「……仕事でした」

「……」

 判っていた。その背中をサンプルテの南方で見つけたときには、愕然としながらも吞み込んだ憶測だった。それが事実であることを受け入れたくなかったから、あえてこうして確認していた。全否定してくれたら──、そう思っていた。それが末妹気質の甘えだとしても、納月の諭しが馴染んだこの心で、引分史織の噓を受け入れようと思えた。

 引分史織と、生きてゆきたかった。数千回に及ぶティータイムを愉しみたかった。

 もう無理だ。

 上流階級に昇って子欄と生きてゆく。引分史織にそんな将来像はない、と、子欄は察した。彼が仕事に邁進しているのは飽くまで家族のためであり自分の人生のためだ。否定はすまい。子欄も家族や自分のために生きてきた。

 訣別のために、子欄は指摘せねばならない。

「わたしとのことを知っている上司山添さん、その存在は噓ではないでしょう。そのひとのお蔭で引分さんが仕事を続けられたことも噓ではないでしょう。わたしが馬鹿だっただけですからあなたは自分を責める必要もありませんし、仕事と割りきれているならここで会うのもこれが最後です。あなたが将来を誓ったのは、山添さんでしょう」

「……」

 再会したあの日、恋人関係が復活した気持でいた子欄に、引分史織は当然のように気づいていたことだろう。なぜなら、非通知で電話を掛けて再会した相手をころっと信用してしまうような馬鹿な相手だった。気持がないわけがなく心理的に繫ぎ止めたことを確認するには十分すぎる出来事だった。その後、忘れもしない二〇歳の誕生日に、結婚を前提とした恋人関係を持ち出した引分史織と面して、子欄は愕然としつつもその関係を受け入れた。それまでの全ての出来事が結婚を約束している、と、舞い上がっていたのだ。その様子を観察して引分史織は子欄を繫ぎ止められたことに安堵していたことだろう。

「再会して、昔のような付合いを求めてもらえて、わたしは、本当に嬉しかった。二〇歳になったあの日は、あなたと同じ時間を過ごせることを決定づけられて嬉しかった。でもあなたは違ったんですよね、……あなたの目的は、なんですか」

「……」

「……いいですよ、言い当てましょう」

 子欄は、彼の目的を自分で推察できたわけではなかった。憶測こそすれ、信ずることは不可能だった。それくらい、心酔していた。盲目だった。

 

 引分史織の背中を確認してすぐ、用意していたメールを母に送信した。

〔 三〇二七年二月頃からこれまで、サ

 ンプルテに監視がついていませんでし

 たか。それは何を目的にしたものか、

 想像がつきますか。

  可能なら、お父様の意見もお願いし

 ます。〕

 子欄はそう尋ねた。

 母からすぐに返信が届いた。

〔 私は気づきませんでしたが、オト様

 がお気づきでした。

  オト様によれば、目的は──〕

 

「──成長促進の魔法、あなたのいうところの、成長加速の魔法であろうということでした。そのために、あなたは、わたしの家族を、そこで生まれて急激に成長する新たな妹の様子を、観察していたんですね……」

「……」

 驚きを通り越して、動揺し疲れて、微動すらしなくなった眼球が、テーブルを転がるように伏せられていた。面を取り繕ったところで意味がないと諦めた仕草でもあろう、子欄はそれを咎めない。咎めても、疲れるだけだ。

「……申し訳ありませんでした、情報をあげられなくて」

「……」

 母のメールには続きがあった。引分史織の目的のその先、成長促進の魔法に対する国側の考察が、父の推察として記されていた。

「父によれば、成長促進は父にしか使えず、記憶や経験の継承は成長促進とセットではない。従って国益にはならない。だ、そうです」

「信じることはできません」

「……国益が懸かっていますからね」

 気持は察しよう。国の仕事とはそれほどに重く、個人の心を無視してでも成し遂げなければならないものなのだと。

 テーブルを、どんっ、と、両手で叩きたい。苛立ちに任せれば簡単にできることだが、演技でもなければやれない。父や母に叱られるような真似を、観られていないからといってやりたくはない。離れて暮らしていても、子欄は家族が大事だ。同じ気持を持っている引分史織に対する共感も、苛立ちを鎮めてくれた。

「でも、わたしは、国益云云はどうでもいいです。引分さん、最後に、あなたの素直な気持を聞かせてほしいんです。どうして、わたしを選ばなかったんですか。どうして、国を、山添さんを選んだんですか」

「ぼくが最も苦しいときに、彼女──、山添さんがいてくれたからです」

「……。最も苦しいときとは」

「あなたと、別れる少し前でした」

 ……前──。

 子欄は、思い当たる節があった。何がきっかけで関係が歪んだのか、その歪みがどれだけの時間を掛けて大きな隔たりを生んだのか、その節を振り返れば理解できた。だから関係が修復できるわけがないとしても、いまさらだとしても、子欄は、頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。わたしは、無神経でした。昔も、今も──」

 子欄は引分史織に甘えていた。同時に、慮っているつもりで、深く傷つけていた。

 ──あなたは無魔力で弱いんですから。

 決して、悪意はなかった。子欄はそう断言できる。けれども、子欄の気持がそうだとしても聞いた側、引分史織がそう受け取っていなかった。

「侮られている、と、見くだされている、と、感じていたんですね、三三年間も──」

「はい」

 隠すつもりのない即答だった。

 子欄が恋をした三五年間と引分史織が見くだされていると感じて生きてきた三三年間は、天国と地獄のように差があっただろう。ただただ天国と地獄には互いの土台を介した繫がりがあって、自覚なく惹かれ合ってもいた。

「子欄さんのせいでは、ないんです。子欄さんは何も悪くない。誰も悪くない。ぼくが悪いわけではないという正当化だと思われても構いません、でも、そういうことなんです。土台が許さないんです」

「……そうでしょうね。わたし達のあいだにあったのは──」

 誰の足許にもある影のようなもの、二人のあいだにある隔たりは、二人が生まれる前から横たわっていた。隔たりの正体は、差別だ。

「重く硬い土台……、引分さんはそれを解った上で、先週の質問をしたんでしょう」

「はい。もしも子欄さんが即答してくれたなら隔たりを越えられる。そう、思えるような気がして、ひどい質問をしました」

 世界に横たわる差別がなくなるわけではない。だが、引分史織を求めている、と、子欄が即答できていたら、少なくとも引分史織の心持として隔たりは消えたのだ。小さな、小さな、心持の違いだ。けれども、繫がりを保つことにも袂を分つことにも影響する、大きな違いだ。

 ──ぼくは下流階級ですが、それでもいいんですか。本当に、大丈夫ですか。

 就学時代、恋人になる前に、彼は一番に、そんなことを尋ねた。

 ……言葉は、憶えていたのにな。

 そこに潜んでいた苦しみには、今日の今日まで、気づけなかった。そんな子欄では、彼の妻どころか、恋人にさえなれなくて当然だった。高望みしていた。恋に、恋していたのだ。

 ──そんなこと気にしません。

 就学時代のようにそう言えたなら。

 子欄は、引分史織を見つめ直す。

「引分さん」

「はい」

「わたしは、末妹気質なんです。最後まで、甘えた子どものように、扱ってください」

 かつては子欄なりに慮って彼を振った。が、振られた彼の気持を、知らない。隔たりの正体を一人察していて、苦しみを強いられた訣別の言葉を、知らない。

「どうか、あなたからわたしを振ってください。痛い思いをしないと、あなたの気持を解りようがないですから」

「子欄さん……、……」

 引分史織が会釈し、そっと口を開く。「ぼくは、国家のためにも、山添さんのもとで働くためにも、ぼく自身の心に素直でいるためにも、あなたを妻にはできません。別れてください」

「……、……ん……はい……」

 目を逸らすまいとしていたのに、返事の間際、どうしても、目を逸らしてしまって、子欄はレモンティを一気飲みし、笑った。

「振ってくれて、ありがとうございます。これからも、頑張ってくださいね」

「……、はい、子欄さんも」

「……」

「……」

 わずか沈黙。

 BGMが耳に馴染んで座り込んでしまう前に、子欄は喫茶店を飛び出した。

 

 

 窓から、走り去る彼女を見送る。

 所詮、竹神子欄は情報を得るためのパイプであり、駒であり、憎むべき差別主義者の枠を出ない人種だ。愚かで、情けなくて、甘ったれで、腹が立つほどいじらしくて、憎らしい。

 ……、……。

 上着が席に取り残されていることに気づいた。一通のメールに用件を詰め込めてしまう彼女に作為はない。

 ……子欄さん──。

 上着を持って追えたら、関係を保たせてもらえるだろうか。

 ……何を考えているんだ、ぼくは。

 振ったのは自分だ。彼女もそれを求めた。自分達の土台を知り、隔たりの正体を知り、同じ痛みを知って、同じ苦しみを感じて生きてゆくことを強いたのだ。どの口で、関係修復を切り出すというのか。

 ……そんなことを考えている時点で、ぼくは、まだ──。

 未練がある。

 予想の範囲のことだ。単純に憎しみをいだいてきたわけではない。下流階級出身で無魔力個体の自分がやれるわけがないと察しながら彼女を守りたい、と、引分史織は思ってきた。それができるほど強い自分はいないと察しながら、どこの誰より彼女を守れる男でありたいと思ってきた。

 ……でも、駄目なんですよ、ぼくでは。

 差別を理由にしたくせに、その差別を容認するような主張をしてしまっていた過去を取り消せはしない。

 着信音を鳴らした携帯端末を手に取り、受電した。

「仕事ですか」

「情報を挙げろ」

「……すみません、竹神さんと別れることになりました」

「知っている。観ていたからな」

「っ──」

 窓の外を窺う。「どこから……」

「わたしの眼がわたしの眼だと思わないことだ」

「ぼくにも、監視がいたんですか」

 調査員が近くにいるのだろうが全く気づかなかった。引分史織は、レモンティの波紋を見下ろす。

「君なら竹神子欄との繫がりを必ず維持すると期待していたが」

「情報なら得ました」

「報告しろ」

「成長加速の魔法は知性・経験を継承するわけではないそうです。彼女の母の話とのことですから偽りとは考えにくいです」

「そうか」

「彼女の父の話として国益にはならないとも聞きました」

「こちらの動きがばれていたのなら竹神音の話が噓である疑いがある」

「そうだとして……、他国を出し抜くような、国家繁栄のポテンシャルを秘めた魔法だとしても、竹神夫妻に協力意思がないことが明白になりました」

「報告ご苦労だった」

「待ってください」

 いつもならここで話が打ち切られて通話が終わる。引分史織は、山添尊に伝えたい。

「一度、会えませんか。ぼくに、顔を見せてください」

 下流階級出身であることや無魔力個体であることを意に介さず部下として扱ってくれている山添尊に、引分史織は隔たりを感じたことがなかった。褒めてもらえるのでもなく、甘えられるのでもなく、こちらから甘えるだけでもない、隔たりのない関係は、理想的だった。それゆえ、引分史織は山添尊の近くにいたかった。

「ぼくと、付き合ってもらえませんか」

「君の配置を変更する」

「……」

「竹神一家及び竹神子欄からは離れて別場所への監視任務に当たってもらう」

 ……ああ、そうか──。

 隔たりがないのは、この関係が、飽くまで仕事だからだ。

「決定事項は追って伝える。今日は早いが帰宅して休め」

「……家族サービスでも、することにします」

「時間がある。自分を見定めておけ」

「はい……」

 通話が終わって、力が抜けた。ぶらりと垂れた手から落ちた携帯端末を拾うこともできず、引分史織はしばらく息もできなかった。

 ……これが、末路か。

 ようやく考えたのがそんなことだった。くだらないマイナス思考で、何も生みはしない。

 …………。

 竹神子欄の上着を眺めて、レモンティをゆっくり飲んで、お代を払うと喫茶店をあとにし、引分史織は、帰途を辿った。

 

 肋骨のような家はいつも風が吹いていた。

 ──寒い……。

 ──ほら、もっと寄って。

 物心つく前からそうしてくれたように両腕で包んでくれた両親や姉の温かさは、その後どんなに褒められることがなくても忘れがたく大切で手放せなかった。新たに生まれた小さな命を自分が同じように包んで温めてあげることも自然に受け入れられた。

 包む側になって初めてこの国の夜に終わらない寒さを感じた──。

 

 日が昇れば逃げ出したくなるほどの眩さが降り注ぐ。暑さと寒さで頭がおかしくなりそうな環境が生まれながらにあった。それがこの国なのだ、と、引分史織は受け入れられた。

 ……、……。

 抱えた上着が、温かい。その分、きっと彼女は凍えているだろう。

 末妹気質を自覚した彼女の表情は、つらそうな一方で晴れやかで、今までのどんな表情より優しく愛らしかった。

 ……。

 竹神子欄が別れてくれて立場がある。山添尊が見限らなかったことで仕事がある。そうして手にした今を引分史織は手放すつもりが毛頭ないが、だからこそ、この腕の温かさをあるべきところへ返したい。

 ……それは口実か。

 なんでもいいから取り戻したく思ってしまっている。彼女との隔たりが消えなかったと実感し、別れの言葉を求められて、発して、今後一生同じテーブルで向かい合うことがなくなった瞬間から思考停止していたかのようで、竹神子欄と山添尊の言葉がゆっくり頭の中を巡った。

 ……頑張って。子欄さんはそう言った。子欄さんも、と、ぼくは返したんだった。

 引分史織だけが苦しんだのではない。別れの言葉を聞いた瞬間、目の前に蟠っていた三三年間の苦しみが伸しかかって竹神子欄も同じかそれ以上の苦痛を覚えたかも知れない。

 ……ぼくは、半ば慣れていたんだ。

 彼女に会うたびに苦しかった。彼女に会わなくても苦しかった。二つの苦しさは、同じようでいて真逆のものだった。過去の苦しみが今の苦しみで打ち消されてゆくのを感じていた。横たわり続けていた隔たりに慣れてしまうほど、今の苦しみは心地よかった。

 ……子欄さんはずっとぼくや家族のことを想っていてくれた。

 それが判らなかったから会わないときも苦しかった。それが判ったから会うたびに苦しかった。確かに感じた隔たりはほとんどが引分史織の思い込みであって、彼女がわざわざ認識する必要のない陰だった。それを認識せず接していたことを無神経だったと彼女が謝ってくれただけで、引分史織の苦しみは、無に帰したも同然だったのだ。

 ……自分を、見定める──。

 部下の体調や精神状態を慮る上司の言葉だった可能性は高いが、それだけではないとも取れる言葉だった。

 ……ぼくは、本当は──。

 虫がいいといわれてもいい。真ん中の子らしいバランス力を失っていたことを咎められたら甘んじて受けよう。

 ……子欄さん──。

 竹神子欄が相手でなくても、有魔力個体には追いつけまい。だが、引分史織は帰途を逸れて駆け出した。およそ三五年間の関係がこんな形で終わることを認めたくない。何より、彼女を追わねばならない。そう叫ぶように、本能的に脚が動いていた。

 

 

 

──三章 終──

 

 

 

 

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