二章 未成年と成年
大人と子どもの境界線がどこにあるか、と、いえば、国ごとに定められている法的な「成年の基準」によるところが大きく、それに基づく意識によって多少の幅はあるものの、この国においては概ね「二〇歳」に結論する。未成年でも婚姻すれば成年擬制により成人と見做すという裏技的な境界線越えも不可能ではないがしかし、子欄は手段でもって成人であることをアピールしたいのでもなく、飽くまで一般的な感覚として認められる二〇歳という境界線にこだわりを持ちたかった。
三〇四四年一月三日、金曜日。一足早く二〇歳を迎えた次女納月を祝う夜食は毎度のように白い食べ物で埋め尽くされた。
が、主役の納月が目を向けたのは意外にもテーブルではなく、子欄であった。
「いやぁ、子欄さんもじきに大人ですねぇ」
「そうですね、一箇月後、なんですよね……」
納月を祝う料理を作りつつ子欄も思っていたことだった。二〇歳を目前としながら約一七年間も研究所に勤めた実績がある。特別に感ずるであろう大人と子どもの境界線をじつはとうに跳び越えていたのではないか、と、いう事後確認をしたからでもなく、子欄は実感が湧かないのである。
「引分さんに結婚、切り出すんでしょ〜」
「えっ、どうして今そんな話なんですか」
突拍子のない話題に子欄は狼狽したのだが、納月にしてみれば脈絡はあった。
「いやぁ、わたしも到頭成人ですぅ。そんなわたしが思うのは、もっと早くに成人してたら、なんて──」
「あ……」
納月は、もっと早くに生まれたかったのだろう。そうすれば、法的根拠でもって成人と認められて、婚姻関係を結び、水口誠治と深い関係になれていたかも知れない。たらればだが、広い視野を持てば持つほど自分の持ち得た選択肢の数と広さが見えてきて、最高の状況に至るための仮想もしてしまう。
「子欄さんとこはしっかりとした両想いなんですし、幸せになってもらいたいもんですねぇ」
「(しっかりとした──。)ありがとうございます、お姉様」
けれど、「今はお姉様の誕生日ですよ。お祝いですっ、ケーキを切り分けましょう!」
「切り分けるんですかぁ」
「えっ、駄目ですか」
「1ホールわたしのかと思ってたんですが」
「丸ごと食べるつもりだったんですね……」
納月のために買ったものだからそれでもいいのだが、「食べ残したりしたら──」
「食べ残すと思います」
「おかしいですね、全然思いません」
「でしょお。いただきまぁすっ」
「あぁっ、フォークで直接は!」
「あむっ、う〜〜〜〜っん、おいしいっ!」
「ああ……やってしまいました」
止めても聞くわけがなかった。フォークでぱくぱく、納月の手はしばらくフォークとミルク以外を手に取らなかった。
ケーキを半分ほど食べ進めたとき、納月が改めて口を開いた。
「じつを言えば心配してたんですよぅ」
「何をですか」
「卒業式の写真です。寂しげにしてるなぁ、と、内心思ってたもんで」
「笑ってるつもりでしたが」
「アホな話をしてるときと違って観えた、ってだけの単なる主観ですが、あのとき引分さんとは写真を撮れなかったからかな、と。勘違いならすみませんね」
ぱくっ。一頻り話したらフォークが止まらない納月に、子欄はカンパイである。
「お姉様だけですよ、そんなこと気づいたの」
「長く一緒だからでしょうねぇ。まあ、ほかにもう二人は察してたでしょうけど」
父と母。
年長者のようにうまく捉えられているかは判らないが、子欄は納月の心が知りたくなった。
「結婚……お姉様は、考えたりしましたか」
「不可能でしたけど近いことは考えましたねぇ」
「……。別れることを、選んだんですよね……」
「恋は盲目、って、言葉があるでしょう」
「はい、ありますね」
恋をしているときは視野が狭まって、普通なら見えるものや気づくことに鈍くなってしまうことを、そのようにいう。そのような言葉の意味は子欄も知っているが、
「盲目で済ましていいことと悪いことってあるんですよぅ。で、後者は恋に敗れるんです」
納月が体験した盲目がなんなのかまでは、判然としない。
「教えてほしい、と、思ってしまいますが、無理ですね」
「ええ。まだ吞み込みきれてない感情はあるんで、なんとなくのアドバイスで悪いんですが、参考にできるならしてください」
「はい……」
恋愛は細心の注意が必要だろうことを教えてもらえたから感謝である。その注意をどこへ向けるかがとても難しい問題であり、納月は自分でも気づかないうちに注意を怠ってしまっていたのだろう。盲目という言葉がそういった無自覚・無意識の部分を指しているように思えた。
「そだ、結婚したとして──」
「気が早いです」
「結婚したとして、」
「ごり押しするんですね……」
「子どもはいつですか」
「知りませんっ」
「考えたことは」
「いいえ……全く考えてませんでした」
成人して法的に許された関係になれたら、そんな選択肢が手の内にあるのは確かだが。
「そういうことはお互いの気持が大事ですよね」
「あたりまえですねぇ。引分さんからそれっぽい話を聞いたことは。無論あるんでしょう」
「はて……」
引分史織から聞くのはもっぱら引分家のこと。家事をこなしながら働いている母や母を積極的に手伝う姉には頭が上がらないとか、家ではぐうたらしている父や甘えん坊の妹を叱っているとか。自分で築く家族像そのもので意識の中心にあるからよく話すのだろう。
子欄にそれを話すことでもって暗に気持を伝えている、と、捉えるなら、逆に、竹神家のことをまともに話せない子欄は現在の家族の存り方と理想の家族像が異なっていることを実感せざるを得ない。
「子どもどころか、そうなる以前に会いに行かなくてはならないお父様やお母様の話をしてませんでした。音羅お姉様や妹のことも……」
「要するに、結婚や子どものきっかけになる話題がない、と。意図してそうしてるんじゃなくて一緒に暮らしてないから話題が尽きてるんじゃないですかねぇ」
サンプルテを出る決断をした時点で意図していたともいえるのでは。
理想の家族像は過去の竹神家にあった。理想像を壊してしまったのは自分達姉妹だったことを自覚しているから、子欄も、納月も、妹も、家を出ることを決めた。壊れた家族像の中にいることを選んだ、もしくは、壊れた家族像を修復することを選んだのは、音羅のみだ。
「音羅お姉様のように家にとどまれていたら……」
「壊した者として修復する責任はありますけどね」
納月がフォークを置いて、ミルクの入ったコップを持つ。「わたし達にだって心がありますよ。淀んでもとに戻らなそうな予感があるのに無理してとどまる必要なんかないんです」
「……それでも──」
「お姉様はとどまることを選んだ、そう言いたいんでしょう。理解します。が、わたし達には無理な決断でしたよ、明らかに。自分達の無力さ加減に苛立って当たり散らすことが容易に想像できて、でも、その影響がどれほどのものか想像しきれてなくて言葉にもできないから不安で不安で仕方がなかったんです。一足先に大人になったわたしから言わせてもらいますけど、わたし達が目を背けたかったのはお父様のことだけじゃなかった。当たり散らすたび、お父様とお姉様のこと、それからお母様のこと、そして、自分達のことも痛めつけずにはいられないと漠然と察してた。それを、言葉にできないくらいに幼かったんです。視野の狭い子どもでは、立ち向かうことは不可能でした」
今もって不可能であった。サンプルテに戻ろうとする気持が起こらないのは、そのせいなのだ。
「なんてね」
と、納月がミルクを一口飲んで、笑った。「姉ぶってみましたけど、子欄さんのことだから自分がやることの影響くらいは具体的に考えられてたでしょう」
「ええ、それなりには」
「帰れないのは単純に度胸不足。学園に行くのが億劫な朝と同じです」
「……そうでしょうか」
「わたしは今すぐでも帰れますよ」
「そうなんですか」
「当たり散らした影響でいづらくなることが想像できて嫌なので帰らないだけです。わたしには酔っ払いな前科がありますし」
「──」
「どうせなら、理想的でいたいじゃないですか」
「わざわざ傷つきに帰りたくないですよね」
「そういうことですよ、わたし達はお父様とは違うんですから」
わざと家族を傷つけるような言動はしない。したくない。したくなくてもしていたような強さもない。
「ついでに、これはお父様にも当て嵌まると思いますが、笑えたほうがいいでしょう」
「お父様達、お笑い番組が好きですからね」
「ええ、お姉様も、わたしも好きです」
賑やかな食卓。どうでもいいことを笑える家族。それが当り前だった家が、子欄も納月も好きだった。その思い出や理想をも壊してしまうのはもったいない。壊してしまったものが修復可能なことを確かめたいから、今はあえて距離を置いている。
「お姉様の距離の取り方は、やはり為になります」
「そうですか」
「わたしはただただ、距離を置かないと恐かっただけです。お父様の怒りに触れたくありませんでしたし、沈んだお姉様達の表情も見たくありませんでしたし、妹達だって幼いながらに押し潰されそうな不安と戦って幼さを早くに棄ててしまうかも知れないとさえ……」
壊れてもなお壊れてゆく家族を、観ていたくなかった。
「物に光が当たると影できるでしょう」
「唐突ですね」
「影は離れませんよ」
「いったい、なんのことですか」
「子欄さんの距離の取り方です」
影は、光に照らされた物に必ずくっついている。
「子欄さんは、たぶん、わたし達と全く違う距離の取り方をしてます。目に入るところにさえいなければ角を立てずに済むわたしと違って、常にみんなへの意識を尖らせてしまってる」
「意識してはいません」
「だから影ですよ。別に影だって意識して物の影になってるわけじゃないでしょう。自然に、そうなっちゃうんですよ」
「……なんだか、自分の意志を否定されてるような気分です」
「違いますよぅ。子欄さんは平等に気を配れちゃう心配性だと言ってるんです。どこが影なのかも判らない夜闇にまで神経尖らせて、ね」
「あ……」
「だから少し気を抜け、と、言ってるんです。現状、サンプルテに戻ることはできません。そう結論したんですから、向こうからなんか言ってこない限り会いに行く必要もなければ、便りがないのが達者の証ということで変に気に懸ける必要もないってことです」
「……参考になります」
子欄はつい考え込んでしまう。その癖は子欄がこれまでに培ってきた意志で出てしまうものだから否定することはないが、それで解決することはなく、既出の答を疑う必要もなく、それで何かが暗転してしまわないかと気を揉む必要もない。
「……少し思うんですが、それでも一箇月後には考える必要に迫られるんだと思います」
「結婚するなら、ですかね」
「報告したいです。結婚式なんかもできるなら、呼びたいです。それで、祝ってほしい……」
希望でしかないが、壊れた関係の修復がそれで叶うかも知れない。立派に新たな家族を作ることができた。そう報告することで、両親や姉や妹に「竹神家」があったからこうなれたことを子欄は伝えられるような気がするのである。
「わたしを育ててくれて、甘えさせてくれて、不甲斐なさを許してくれているのは、納月お姉様を含めた、家族全員ですから、しっかり話したいですし、会いたいです」
今は不可能でも、いつかはそうしたい。子欄はそう思っている。
「そう思えていることが大事ですねぇ」
と、納月がコップを掲げた。「改めて乾杯。子欄さんは、一箇月を待たず立派に大人だと思います」
「お姉様……」
子欄はレモンティのカップを掲げた。「乾杯」
「しんみりなシチュが鏡餅みたく硬くなってしまいそうですから早く食べましょう」
「温め直しますよ」
「悪いですねぇ」
「誘導でしたね」
「てへぺろっ」
「その反応ちょっと古いです」
「ぺろぺろぉ……」
「もはや意味不明ですよ。って、ケーキの生クリームを直接舐めたら駄目でしょうっ」
キッチンに目をやった隙に軽はずみな食べ方をしている納月に子欄は、「いつかお父様に言いつけます……」
「ひっ、ぺ、ぺろぺろなんてしてないんで、すみません」
「やってないなら謝る必要もありませんが」
「あ、謝ってません」
「では言いつけましょう」
「ひぃっ、なんで誕生日に脅されなきゃなんないんですかあっ」
「大人なんでしょう。あ、お母様でもいいですね」
「やややっ、それだけは勘弁をっ。お父様だけでも雷じゃ済まなそうなのにお母様なんて無料躾三時間コースを押売りされて研究もなんもできなくなりますって!」
「だったら、せめてフォークでいただいてくださいね」
「……すみません」
「よろしい。悪いことをちゃんと謝れるのが大人ですね」
「なんかちょっと違う気が……」
「何か」
「違いませんっすみませんっごめんなさいっ」
「ふふふ。温め直しますね」
「あっつあつにっ。火傷するほどトロトロにヨーソロですっ」
「解ってます。(──そうだ。いつかは、話に行かないといけないんだ)」
引分史織との将来を考えたとき嫌が応にもそのように考え込んでしまう。そのことを察している納月がいつものノリで賑やかしてくれたから、子欄は笑っていられた。
それからの一箇月は、引分史織と再会してからの約三年間よりもずっと早く過ぎていった。時間的に短かったのは勿論だが、過去を蘇らせるような時間よりも新たな関係へ進む時間のほうがずっと愉しくて、同時に、考え込んでいたからだろう。
三〇四四年二月一日の夜は誕生日の近い土曜日ということもあって、まさしくあっという間に過ぎ去った。引分史織が伊吹の店主に特別に頼んだ誕生日ケーキを出してくれて、二本の大きな蠟燭の火を吹き消した瞬間のクラッカの破裂音は体感的時間の短さに反して生涯記憶に残るように思えた。
中流階級の彼から特別なプレゼントを贈る余裕はないと判っている。そういった期待をしていなかったから余計にケーキの演出が胸に沁みたのかも知れない。
一方で、見送ってくれた彼が、
「おやすみなさい」
と、手を振ってくれたとき、脈絡もなく、
……結婚しませんか。
と、まさか言えるわけもなく、「はい、おやすみなさい。また来週」
週末最後の番組で出演者が発するような言葉で別れてエレベータに乗る自分が子欄は怨めしく、扉が閉まるまでに呼び止めてくれない引分史織を内心でヘタレと罵ってしまう。
……一番のヘタレは誰なんだ。
あと二日とは言え未成年。彼から来てもらえるわけがないのだから、せめて前倒しの誕生日に託つけて自分から迫るべきなのに。
……いや、そういうのは男性からが普通だ。
女性進出が叫ばれて久しい時代に古い考え方だが子欄は素直にそう思い、その裏側では自分の積極性を疑わないでもなかった。本当に好きなら迫ってでも進捗を目指せばいいものを、どうしてそうしない。嫌われたくないからか。妹気質で甘えん坊なことはとっくに知られているのに。それをとうに受け入れられているのに。
……簡単だ。わたしらしくない。
迫るというのは理想的選択肢であって、子欄が選びたいものとは異なる。甘えるのとは違って、違和感がある。だから、強引に迫ったりはできなかった。
父のようにテーブルにくっついていたのでもないのに落ち込んでいることを察して慰めてくれる納月に存分に甘えた土日を経て仕事をきっちりこなした誕生日当日三〇四四年二月三日、納月とともに帰途を辿った子欄はオータムパレス前に思わぬ影を見た。
距離があっても見間違うわけがない影を近くまで行って確かめて、子欄は口を開いた。
「引分さん……どうして今日」
「子欄さん。今日はどうしても顔を見てお祝いしたくて」
同じく仕事の帰りだろう、いつもと変らずびしっとスーツを着込んでいる引分史織が、「今から伊吹へ行きませんか」
「……、お姉様」
「いってらっしゃい」
と、背中を軽く叩いた納月が、「報告待ってますよぅ」と、耳打ちして後手を振ってエレベータへ。
引分史織と並んで、子欄は伊吹へ向かう。
車のライトが行き交う眩しい大通りから落ちついた街灯の小路に入ると、子欄はつい口を開いてしまった。
「誕生日祝いですか」
「ばれますよね」
「一応今日が本番ですからね」
「そうです。そして、今年の誕生日はひときわ特別です」
「特別──」
恐らく同じ気持で引分史織が時間を共有してくれていることに、子欄は頰が緩んだ。
「誘わない選択肢はありませんでした。ただ仕事の見通しがつかなかったので約束は控えました。それでせっかくなので、間に合ったらサプライズをしたいな、と、思って、迷惑覚悟で押しかけました」
予告をせず来訪したのはそのため。
「迷惑なんて、思いません。少しびっくりはしましたが、すごく、嬉しいです」
「よかった……。到着したらレモンティがすぐに出てきますよ」
「用意がいいんですね」
「子欄さんの声が聞こえた瞬間に注文のメールを送信しました」
「誘いを断られたらどうするつもりだったんですか」
「しっかり二杯いただきます」
「ロスしないのはいいことですね」
彼には確信があった。誘いを断られることはない、と。
「前倒しのお祝いで食べたケーキに替わる品も用意してあるので期待してください」
「期待……。愉しみにしてます」
どんなものが来ても驚くことはない。……今日は、言おう。いや、言わせよう。
結婚。そこへ踏み出すために、彼を踏み出させよう。それが叶うことほど驚くことはなく、自分から仕掛けるそれが一番のサプライズになるのだから、彼が用意したものに最大の驚きを発することはない。
……って、それはそれであじけない感じになってしまうか。
驚かないことを決める必要はないだろう。愉しませてくれると言うのだから素直に受け取って味わえばいい。
……そうだ。そうしたほうがもったいなくない。
などと考えて伊吹へ赴いたから、用意されていると判っていたレモンティとは別の香りが鼻腔をくすぐった瞬間、子欄はあっけなく最高の驚きを発することとなった。
「ベストタイミングです、店主さん」
引分史織が会釈する相手、店主の手でテーブルへ運ばれるのは二皿のカレーライス。店内を満たすのは落ちついたBGMと豊かなスパイスの香り。
「子欄さん、どうぞこちらへ」
「は、はい……、はぅ、(甘辛いスパイス、うどんにも合いそうな和風出汁、野菜の溶け込んだルウ、繊細に織り込まれた生地のような一体感──)」
引分史織に案内された定席で、その皿と向かい合う。「ん〜〜、……伊吹にこんなカレーがあるだなんて、じつに素晴らしい、じつにっ、素晴らしいです!」
「悦んでもらえてよかったです」
「食べていいですかっ」
「子欄さんのためのカレーです。一緒にいただきましょう」
「はいっ、一緒に!いただきますっ」
「いただきます」
目の前にカレーがある。大人も子どもも遠慮など要らない。食べ尽くせ。
……おいしい──!
本能の赴くままにぺろりと完食したその一皿は、香りから想像した以上にコクもあり、それでいてさらっとしていて、レモンティで締めても嫌みのないキレがあった。
「後味まで素晴らしい、この世にカレーを創り賜うた英知に感謝です」
「壮大な感謝ですね。頰にルウがついてます」
「わ」
指先のルウをぺろっと食べた引分史織から、子欄は目を背けた。「も、申し訳ありません、大人になって早早子どもみたいにはしゃいで」
「大人になった、と、いうのなら子欄さんはとっくに大人でした。ぼくに別れを切り出したあの日からずっと」
「──」
理解して、吞み込んで、再会から今日まで一緒にいてくれた彼に、子欄はまともに目もやれないのに、気持だけはどんどんそちらへ走ってゆく感覚があった。
……カレー、抵抗があったのにな。
毎食でも飽きなかったカレー類を引っ越してから一口も食べられなかった。目にするとなぜか首を絞められたようになって食欲がなくなってしまっていた。それなのに今は食べられて、また、食べたいと思えている。大好きなひとが用意してくれたからだろうか。
「用意がいいですね。わたしが悦ぶものを、まさしく完璧な形で提供してくれました。でも、伊吹にカレーってないですよ、あったら真先に頼んでましたから間違いないです」
「ぼくがお願いして作ってもらいました」
「裏メニュでしたか」
「いいえ、スパイスはぼくが集めてきたもので、特別にプロの方に教えてもらったレシピを店主さんに再現してもらったんです」
「ものすごい手間を掛けてくれてたんですね……。どうしてそんなに、(わたしの誕生日に、力を注いでくれたんだ──)」
「……」
その理由を早く聞かせてほしい。単なる誕生日プレゼントか。成人祝いか。恋人へのサプライズか。全てだとしても、わざわざスパイスを集めて、プロのレシピを教わって、行きつけの喫茶店で特別に作らせたりするか。ただの恋人にそんな手間を掛けるのか。成人した恋人に対するサプライズプレゼントで、理由が収まるのか。聞かせてほしい。早く。
「子欄さん」
「……はい」
BGMの一途な歌詞。喫茶店に満ちる二人の世界。
緊張の子欄は、待ちに待った最大の驚きに備えて心を落ちつけるばかりだった。そうしてついに引分史織の口が開いた。
「子欄さん、ぼくと、付き合ってください」
「──」
子欄は、数秒間、反応できなかった。聞き違い、か。「え」
「あ、えっと、……付き合ってください、ぼくと」
空気がぶっ壊れた。聞き違いではなかった。
……え、え、あ、えっ!わたし、何か、物凄く、変な先走りをしていたのか!
子欄は引分史織と付き合っていなかったのか。そんな馬鹿な(!)
「子欄さん」
「はいっ」
「曖昧な関係から一歩前進したいんです」
……あ、曖昧って、どういう──。
「ぼくは……もっと、子欄さんと一緒に進んでいきたいんです」
「……ん──」
子欄は、約三年間を振り返り、間違いなく先走っていたことを確認した。
再会したあの日から別れる前に戻ったと子欄は思っていた。
──以前のような関係に戻れませんか。
あの言葉に応えた瞬間から恋人同士に戻ったのだと認識していたのである。が、これまでに手を繫いだこともなければ何かしらの間接的な接触もなく、それは就学時代と同じであったがために恋人同士の感覚を取り戻すような時間であったことを体感していた。その体感が子欄の一方的なものではなく引分史織の意識が伝わってきていただけだったのだとしたら、子欄と引分史織の関係は恋人未満だった、と、結論できる。強いて言うなら、以前のような関係、は、以前の関係とは似て非なるものだった。
……あ、わ、わたしは、なんて馬鹿なんだ!
子欄は引分史織が恋人に戻ってくれたとばかり思っていたが、引分史織の認識は全く違う。あえて今の彼の肩書を記すなら、元彼とするのが妥当。焼け木杭に火がつきかけた関係ともいえるだろう。
……で、でも待て、冷静に考えるんだ。
引分史織は、先程なんと言った。過去を振り返って肩書を確認したので忘れそうになってしまっていたが、彼は、
……付き合ってほしい。そう、言ってくれたんじゃなかったか。
曖昧な関係から一歩前進したいとも。今はそれが大事だ。勘違いではなく、正真正銘の告白をされたのだから。
……形は、ちょっと違ったけど。
手を繫ぐことも抱き締め合うこともなかった就学時代。お互いが成人している今、濃密な関わりを持ち、きっと違う関係に踏み出してゆく。
……子どもとかも──。
意識しないではいられない。気持が伴えばいつだって結婚に手が届く。思いもよらなかった新たな家族の創造もこれからは視野に入る。
……だから、曖昧な関係から一歩前進したいと言ってくれたんだ。
子欄が先走って捉えた関係ではない。結婚を前提にした恋人関係。それへと前進するのだ。そして今回のアプローチは、以前のような不意打ちではない。心が弱っていたとき付け入られるようにして声を掛けられたのではない。引分史織のひととなりが解っていて、その上で子欄は彼を求めている。
……先走りは、恥ずかしくないと言ったら噓だが。
目の前のカレーライスを求めたのと何が違うというのか。本能的に欲しているものが食べてほしいと出てきてくれたのに皿を引っ繰り返すなんてことは、しない。
コートはとっくに脱いで横に置いたのに汗ばんできたような気がすると、顔が緊張で強張っているのではないかと心配になりかけて、しかしそんなことはどうでもよかった、と、口を開いたら解った。
「わたしもです……!」
遅すぎるくらい返事が遅れた。でも、それに対する反応は、
「本当ですか!」
と、これまでのどんな言葉より早かった。「また、ぼくを、選んでくれますか」
「引分さん以外に誰がいるんですか。わたしのカレー好きにドン引きしないあなただから選ぶんですよ」
そんな理由は後付けに過ぎない。彼がもしドン引きしても、子欄は彼を選んだ。別れの意味を酌んで、努力して、上流へ駆け上がろうとしている彼だから、選んだ。
「何度だってあなたを選びます。わたしと一緒に進めるのは、あなたしかいません」
結婚にはまだ早いとしても、「引分さん、わたしからも言わせてください。わたしの恋人になってください」
「勿論です!」
最高の微笑みと最速の反応で、引分史織が何度もうなづいた。
店主達にも祝福されて伊吹を出た子欄は、引分史織と手を繫いでオータムパレスに戻った。納月と一緒に暮らしているから、と、いうわけでもなく彼を連れ込むことなど考えておらず、一階正面玄関前で別れた引分史織と手を振り合って、エレベータに乗り込んだ。
……引分さんも、あんなに興奮するんだな。
そう思った子欄自身、胸に手を置くと、
どきどきどき──。
鼓動を感ずる。彼がまだここにいるかのように愉しくて、うきうきして、一緒に食べたカレーライスや一緒に飲んだレモンティを思い出して頰が緩んでゆく。
……これからは、本当の本当に、恋人同士なんだ。
どきどきするのは、胸に置いた手が先程まで彼と繫がっていたことを強く感ずるからだろうか。離れないように握った掌から伝わってきた温かさと脈を自分の鼓動で確かめているかのようで気恥ずかしくもあった。
三〇六号室に到着、引分史織に告白されたこと・返事をしたことを納月と一緒にお湯をいただきながら話して、子欄は夜食の準備に取りかかった。
「ぼーっとしてますねぇ」
「してませんが」
「そのネギはなんですか」
「田創ネギです」
地産地消。この町で作られている農作物を優先的に買っている子欄である。
「名称はどうでもいいんですけども。端っこを持ってください」
「あ」
全部繫がっている。
「ぼーっとしてますねぇ」
「ぼーっとしてますね……」
「ドキがムネムネな出来事を妄想してるんですねぇ」
「妄想ではなく振り返ってるんです」
「むふ」
「あ……」
「ドキがムネムネを否定しない上、実際の出来事を振り返っているとはぁ、病ですねぇ」
「……否定はしません」
「むふふ」
「う……」
蛇腹なネギを切り直しつつ、子欄は納月を一瞥した。「わたし、変、ですよね……」
「全然。逆に普通で、姉の沽券が保ててすっごく嬉しいですよぅ」
「沽券ですかっ」
切り直したのに全部繫がっている。「これではまともに食べられません」
「煮るなり焼くなり、形はどうであれおいしいでしょう」
「蕎麦の薬味なんですが」
「ちゃんと切りましょう」
「はい、勿論です。……」
いつもなら普通にできることなのに、「……切れませんね、包丁のせいでしょうか」
「ポンコツですねぇ」
「買い替えます」
「いや、子欄さんが」
「わたしっ」
「その反応はデキる女という主張に取れますねぇ」
「ポンコツは心外です」
ネギの切れていないほうを上にして刃を入れてみるが一向に切れない。「な、なんで切れないんですかこのネギは」
「薹立ちじゃないですかね、一部枯れてますし」
「あ……」
「ポンコツですねぇ」
「ポンコツですね……」
子欄は、枯れた茎の層を剝ぎ取って、それでも切れていない部分があることに気づいて、切り直して、自分のポンコツさを招いた原因を火加減とともに確認した。
「わたしは恋に恋をしてたんです。それに気づかされて、本当の恋に踏み出してドキがムネムネになってしまったわけです。ひどいありさまです。こんなのは、わたしではありません」
「ちゃんと子欄さんだと思いますよ。どんな男子も花に喩えそうな外見は生まれた頃から変わってませんから」
「いっそラフレシアであればお姉様のようなボディラインを獲得できたものを」
「ボディラインはともかく体臭ヤバそうな喩えで嫌なんですけど、まさかわたしの自覚を促してるってオチですかね」
「いいえ、そういう含みはありません」
スレンダは幼児体型の縦長バージョンのようで、子欄の求める目の前の理想的なボディラインとは美の部類が異なる。
「わたしの体、そんなに魅力的です」
「多少の横っ腹なんて気にならないくらいに」
「ヤブヘビでキレますよー」
「も、申し訳ありませんっ、そんなつもりはなくて単純に昔から、……柔らかくて好きです」
「す、好きとか改まっていわれるとドギマギしますがっ。暴飲暴食すれば柔らかボディは叶いそうなもんですけど、子欄さんはカレーでも一杯で足りるんですもんね」
「ええ、あまり食べられません。お姉様も白物以外はそうだったように記憶していましたが、無理やり用意されない限りはお替りを食べないでしょう」
少食を徹底しているとか、食事制限をしているとか、そういうことは一切なく、昔から手許にある食べ物だけで子欄は満足できてしまえる体質だった。生まれつきといえば生まれつきなのだろうが、音羅のようにたくさん食べられる体質ではなく、納月のように好きなものならいくらでもという体質でもなかった。
「食べないから、柔らかくならないんでしょうか……」
「地味に刺さるぅ」
「申し訳ありませんっ、ただ、自然に食べられるのが少し羨ましく思えて……」
「ずっと少食だとそうも思えるのかも知れませんねぇ」
小皿に入った不細工な切れ目のネギを見て、納月が手を叩く。「せめて薬味を多めに入れてみるとか、ソースや醤油が使えるときは少し多めにしてみるとか、どうです」
「なるほど……それくらいなら体脂肪率の底上げになりそうです」
「全世界のダイエット民に謝っても足りない目標でしょうけど、決して出られないこちら側の世界から物を観てほしい気もしますねぇえ」
「なんだか怨念を感じるんですが」
「そりゃ飛ばしてますから」
「も、申し訳ありません。ですが切実なんです……」
体のラインを気にしてしまうのは、「お姉様のような体なら自信が出そうなのに……」
「なんの嫌みですー」
「羨みですっ」
「へー、そーですかー、マウントな妹になってしまってお姉様悲しーですー」
「台詞が棒ですよ」
「冗談ですから。ま、妬み・嫉み・怨み・つらみはともかく──」
「負の感情多いですね」
「不出来な姉なんてそんなもんですよぉお」
「ももも申し訳ありませんんっ!(今日のお姉様、テンションの振り幅が壊れている)」
その勢いを恐れつつも蕎麦を茹で上げた子欄は、食卓についたとき納月のアドバイスを受けることになった。
「蕎麦は縁起担ぎでしょう。末長く付き合えるように」
「……」
「それがもはや自信に近いもんですよ。末長く付き合いたい。そう思える相手がいて、その相手から告白されて、返事をした。その関係の継続ひいては発展を願掛けしてるのは、子欄さんの性格からしてそれなりの確信が得られたからでしょう。その確信を自信と捉えていいとわたしは思いますよ」
「上を目指すには、それなりの準備も必要だとは思うんです。最初から神様や運勢に丸投げするつもりはありませんが、可能な限りの力を身につけて将来性を高めたい、と」
「そのためのボディですか」
「そのためのボディです」
「それがなくても選んでくれたのが引分さんでしょう」
「……背伸びする必要はありませんか」
「と、いうか、不要でしょう。背伸びしなくても子欄さんは変らず魅力的です。ツッコミでもボケでもなく、姉のわたしがそれを認めてます。そう、誰よりもねっ!」
「ね、妬みを感じますが……」
ほかでもないワガママボディの持主に妬まれるのなら、「今の自分に自信を持ってもいいんでしょうか」
「持たないと刺しますよ、まったく」
「ふふふっ」
「むふふ、さ、食べましょう、せっかくの蕎麦が伸びますっ」
「そうですね」
両手と挨拶を合わせたあと、箸を持った子欄は改めてポンコツであることに気づく。
「そういえば、わたし、カレーを食べてきたんでした」
「でしょーねー。香りがしてたので判ってました」
「言ってくださいっ、今日のわたしはポンコツなんですからっ」
「責任転嫁っ。で、食べられます」
「う〜む……」
箸を持ってはみたが、「お姉様、食べます」
「食べますっ、三割蕎麦なら白物も同然!」
「八割です……」
「でしょーねー、健康志向ですもんねー。まあ、麺も好きだからいいんですけどね」
「ご迷惑をお掛けします……」
薬味ごと納月に譲った子欄は、……ああ、こうしてまたお姉様がワガママボディに。と、いう、内心の羨望を打ち消せなかった。
それから毎週土曜日がさらに愉しみになった。
目立つ接触を控えた就学時代の恋人関係は成人したいま隠す必要もなければ誰に憚ることもなく自由そのものであり結婚を前提としているからいっそ何をしてもいい、と、いう解放感が程良い緊張感を生み出して、子欄は初めて恋の駆引きを学んで実践したりもした。その駆引きに全く引っかからずうまく躱してみせたのが引分史織のすごさであったといえよう。これならどんなハニートラップも看破して足を掬われるような事態に陥ることはない、と、ある種の信頼を寄せるほど子欄は引分史織にどっぷりと嵌まった。
そうして六年が過ぎ、夫婦別姓を受け入れる時代に突入して久しい三〇五〇年三月一六日の日曜日、もはや引分史織との関係は入籍だの婚姻だのを必要としないくらい親密であると自信を持てていた子欄は、朝のニュースで知っている名前を観た。
「〔言葉真国夫、拘置所で死亡〕──」
〔同氏は拘置所にて自然死したと発表があり──〕
ミルクを飲んで寛いでいた納月も、アナウンサの声に引かれるようにしてテレビを振り返った。
「自然死。言葉真国夫って確か……お父様の叔父、でしたっけ」
「はい、わたし達からすれば大叔父ですね」
「叔父様」と呼んだら「さん」でいいと父にきつく言われたことが子欄の記憶に鮮明だ。そのことは当時家族に共有したので言葉真国夫がどんな罪で捕まったか、どんな罰を受けたかもみんな知っている。
「国を裏切って終身懲役、死ぬまでの懲役刑でつまるところ死刑みたいなもんだとは聞いてましたが、到頭、逝きましたか……」
「そのようですね……」
子欄は、父と共鳴するように嫌悪感をいだき、この国を裏切った過去を聞いて一国民としても嫌った。それが言葉真国夫、父の叔父である。
「又姪の立場から言うべき文句はないんですけどねぇ……」
「……お父様の感想は全く異なるでしょうね」
少し戻って敬称の話だが、例えば、テレビ番組などを観ているときやその番組を話題にしたとき、出演者の名前を呼び捨てることはよくある。敬称をつけて呼ぶことを咎めたり敬称を改めさせたりする必要は通常ならないのである。社会に出れば立場によって敬称の有無や選び方が大事だと学ぶ機会も増えるが、父が言葉真国夫の敬称について子欄に言ったのは家の中のことであった。仰ぐような敬称を改めさせたことから何かしらの因縁があって父が大叔父を深く嫌っていたのは明白だ。
「お姉様、詳しい事情を聞いたことは」
「いえ。子欄さんもないっぽいですねぇ」
隠し事が苦手な音羅に話すことはすまい。と、なると、姉妹全員が聞いていないだろう。父と大叔父の因縁を唯一知っていそうなのは母だが一緒に暮らしているあいだにそれらしい話を聞いた憶えがない。国に絡む犯罪がもとになっているなら再逮捕の頃に話してくてもよかったのでそれ以外の因縁があると推測できる。
「気になりますね……」
「まあ、死亡を聞いて胸の痞えが下りてれば話してくれることもあるかもですから、どうしても気になるなら折を見て聞けばいいんじゃないですかね」
子欄達には関わりがなかった大叔父の話であるから、父の不快感を煽ってまでわざわざ話題を振ることはない。父の胸が少しだけ軽くなっているであろうことを推察できる話題であったから、蟠りがただちになくなったりはしないとしても間接的に子欄達にいい風が吹いているようでもあった。
……それに、なんだろう、少し、わたしも胸が軽くなってる。
見れば納月も少しだけ清清しげである。ともに、父の心境を思ってのことだろう──。
……もうしばらくしたら、引分さんのこととかも、話に行けるかも知れない。
娘が異性と付き合っているという事実に驚かない父だが無関心ではなく、その事実をいいこととして捉えてくれているであろうことを子欄は就学時代に感じた。よりよい関係を報告しに行けば一〇年以上会っていないことも合わせてきっといいサプライズになる。
「近いうちに会えたらいいんですが……」
「そのためには、もうちっとフォーリンラブですねぇ」
「ふぉ、ふぉーりんらぶ……」
「fall in love、恋に堕落せよ、です」
「それは違う気が」
「もっと愛を深めよう、と、いう意味ではあると思いますよ」
……深めよう、か。
充分深めていると思う反面、父に会いに行く気になっていないのは確かである。時が経てばいい報告ができると確信しているのに積極的に訪ねられないのは、無自覚に自信がないのか。あの父ならどんな人間のどんな自信も一言でぶち壊すことを容易に想像できてしまい、反論の余地が得られるか不安で訪ねられない、とか。
「もう判ってるでしょうけど折を見てですよ、子欄さん」
「……はい。焦らず準備します」
結婚かそれに等しい関係を築いてから。とかく、いい報告ができる段階になってから訪ねるべきであり、そのときにこそ破滅的言葉に反論の余地を得られる。
ニュース番組が占いコーナに入っていて、ふと耳に入ったのは子欄の運勢だった。
〔──残っ念っ!今日のアンラッキは水瓶座のあなた!〕
……なんですって。
〔全ての運が右肩下りでいいとこなし!注意深く過ごさないと痛手を負うかも〕
……縁起でもないことをっ!
〔周りのひとを大切にして、足りない視野を補って!ラッキーアイテムは味噌のキーホルダ!〕
……味噌のキーホルダ……!どこ!
「子欄さ〜ん、冷静になってくださいねぇ」
「っ」
納月にとんとんとテーブルを叩かれて子欄ははっとした。
「テレビの占いなんてフォアラ効果を知らしめんとする心理学者の回しもんみたいなコーナじゃないです」
「曲解な気がしますが」
「自分の注意力のなさを知ったほうがよほどいい自己啓発になると思いますよぅ」
「……確かに」
番組の占いコーナも既に実証されたフォアラ効果の周知により社会がいいふうに回ることを狙っていると観るほうが無難であり、自己啓発の材料と捉えたほうがずっと前向きだ。
「さ、ゆっくり食べて、ゆっくり頭を回して、ゆっくり動き出してください」
「はい……冷静になります」
姉の落ちつきに救われて、子欄はテレビを消した。
落ちついて考えて動き出す。納月の言葉を聞いたときには、特に人生の岐路でそれをすべきと子欄は解っているつもりだった。が、その岐路がずっと前にあって、落ちついて考えるべきタイミングを逸したばかりか、自分の動きは別の何かについて回る影のようなものだったことに一〇年後の土曜日、三〇六〇年一〇月二六日によくやく気づき始める──。
子欄が気づきを得る出来事の起点がどこかといえば最短でも三〇二三年一二月五日の月曜日に遡らなければならない。
国内外の情報を集めるため政府中枢警備府内に設置された部署〈調査部〉の部長を務める山添尊は、警備府のトップでありこの国の政治の長たる火箸凌一の拘束を受け、重要人物の監視を部下に命ずる立場にあった。
……竹神音に、聖羅欄納か。
かつて天才の名をほしいままにした人物とその人物に深く関わる女性であった。竹神音は誰も及ばない魔法技術でひとを助けて回っていた神童の過去を持ち、聖羅欄納は悪神討伐戦争といわれる大戦争に参戦したのち各地でのボランティア活動を経て竹神音に接触した。火箸凌一拘束の一端を竹神音が担ったのは恐らく聖羅欄納の接触が大きな要因になっているが、要因・経緯云云はこの際どうでもよかった。竹神音が活動を再開したのだ。それを促したであろう聖羅欄納とともに竹神音の存在が今後の国益に多大な影響を及ぼし得ると先見して、山添尊は動かなければならなかった。
そのための仕事の一つが、火箸凌一拘束から一箇月を待たず大きく変遷した。竹神音と聖羅欄納のあいだに、第一子が生まれたのである。その子はとんでもない速度で成長し、生まれたその日にはS級魔力を持つ術者が操るような強大な炎魔法を放った。聖羅欄納が防がなければアパートが全焼したであろう、その魔法の報告を受けて、山添尊は懸念を強めた。
……天才の子は天才、か。それとも──。
竹神音のように悪になる危険性も視野にある。そうなったときこの国の安全は内側から崩壊する。
三〇二四年三月二八日、月曜日。結婚した竹神音と聖羅欄納改め竹神夫妻と、それまでに生まれた長女、次女、三女の観察報告を受けて、山添尊は警備大臣に一つの上申をした。
……竹神の子に施された魔法は莫大な国益になる。
肉体を成長させるような魔法は過去にもあった。が、肉体を成長させただけでは知性が育たない。体を動かすことや知性を身につけることは既存の魔法ではできなかったのだ。
対する竹神夫妻の子は一線を画していた。肉体の成長に合わせて一定の知性を有して魔法を操ることができた。すなわち、肉体を成長させるにとどまらず経験や知性を育む術が、魔法に組み込まれていると推察された。山添尊はその魔法を「成長加速」と仮称した。
成長加速が国内に普及すれば、未熟児や発達障害者の救済にも繫がり、経済を含むあらゆる格差を是正できる。人材育成のコストカットと高速化が成り立ち、必要な場面で必要な人材を適宜育成することが可能になり、技能を持たない人間が必要な能力を取得でき、就職難や貧民の問題も解消される。まさしく国民総活躍社会が達成され、某産業国家に優る経済発展をも果たし、この国は、世界のリーダになる。
……素晴らしい展望だ。
無論、その段階では理想論に過ぎなかった。竹神家の子の観測は極めて短期間であり、成長加速の利点が多く観えたもののリスクが判然としていなかった。利点を超える欠点があっては足を掬われる、との、慎重な上層部の意見は尤もだった。情報収集のため山添尊は観察を続けることにした。
そうするうちに竹神夫妻の長女から三女が通う学園で事件が起き、山添尊の部下だった青年が逮捕されるに至った。三〇二七年二月二一日の月曜日、山添尊は警備大臣の特命を受けて、青年の取調べのため警察署に赴いた。取調室で向かい合っても青年が反応できなかったのは、山添尊と顔を合わせたことがなかった。そも、山添尊は顔が割れないよう行動を慎んできた身であるから、こんなことでもなければ青年に顔を見せることもなかった。今後も元上司と告げることはない。
「初めまして。君からいくつか聞きたいことがある」
「別の部署の刑事ですか」
「ああ」
「何を聞きたいんですか」
「まずは──」
青年の対応は素直だった。割りきったふうなのは先日竹神夫妻の長女など後輩の接見を受けて支えられたのだろう。
青年は得体の知れない力を使う。神童と謳われた竹神音のような規格外であり逮捕された今もその力は警戒に値する。取調室では外されることもある魔導手錠が掛けられたままになっているのは、魔法的作用が起こせないようにするため。裏を返せば、この場の刑事では青年を止めることができないということでもある。
「──、なるほど、国内を巡回し、竹神音の周辺を観察し、一方で、かの兵団の密命を受けてダゼダダの地図情報を伝え、同時に竹神音に対する切札として暗躍した二重スパイ、映画のような話だ。作文ではないと調べがついているが、言葉真国夫が移って以来兵団側の命によって竹神音の魔法等の情報を渡し、暗殺の手引きをしていた。両親や弟を人質にされていたため軍事国に従わざるを得なかった」
「言訳はしません。オレが……弱かったことに責任があります」
「(知っていたがまじめだな、君は。)少年だった君を脅すやり方はまっとうな大人のやることではなく、国のやり方とも考えたくないものだ。飽くまで個人的にだが、わたしは君が懸命に生きたことを認めよう」
「……」
会釈の青年から、山添尊はもう少し話を聞く。
「成長加速、と、いったかな。竹神家の子を監視した約三年間で、元神童の魔法に欠点を捉えたか」
「はい」
「それはなんだい」
「彼女達から幼い時代を奪ったことです」
……瑣末な主観だな。
山添尊は青年を見つめる。「君と同じような立場にある者から聞いている。成長加速の魔法に欠点を見つけたなら報告するよう命令があったとのことだ。君はなぜ報告しなかった」
「主観は報告する必要がありません」
「二重スパイをするだけはある。君は賢い。が」
物事を俯瞰できるのは当り前で、その上で報告を行う必要がある。「君は無能だ」
記憶にとどめるべきは客観のみ。主観をつらつら答えられるほど憶えている時点で組織の一員として無能だ。
「一般社会に戻れるよう努力するといい」
「はい」
それまでの自分を否定する鋭い棘とも取れる言葉になんの躊躇いもなく首肯した青年に、山添尊は用がなくなった。言葉通り組織人として不要になったという意味はあるが、青年が社会復帰・貢献することを望んでいる。これ以上の取調べは互いの時間を搾取し、互いのできることを少なくするまさしく時間の浪費だ。
青年との別れもそこそこに、山添尊は取調室をあとにした。
山添尊のもとに集まった情報によれば、成長加速には欠点がいくつかある。まず、国益に繫がる「知性と経験の育成」を揺るがす部分について、竹神夫妻の三人の子それぞれの口から出た話として両親の経験や記憶を継いでいるという情報が挙がっている。ただ、記憶・経験は薄れてゆくものもあり最終的には個別に学んだことが定着しやすいようである。継いだ記憶・経験が薄れてもそれまでに各人が身につけたことは老化と同じく不可逆性を持ち生活できることはメリットである。ここで大事なのは、受け継がれた記憶・経験は両親のものなのか成長加速を施した術者のものなのか、だ。前者なら両親すなわち成長加速の術者ではない人間の記憶・経験が消える前に必要な知性・技能を与えて人材育成を効率化することに役立つ。後者なら成長加速に記憶・経験の継承を組み込むことが可能で当初山添尊が見込んだ国益を得られる。理想的なのは継承にばらつきのない後者だが、前者でも知性・技能継承の効率化が加速化すれば、殊に伝統工芸や製造業など一〇年単位の職業訓練を必要とする人材育成の劇的改善を期待できる。
……もっと情報が必要だな。
細かいメリット・デメリットの分析が求められていた。それに、実用化するには成長加速の魔法を開発したであろう竹神夫妻の協力が必須であり、あるいは、それこそが最大の障壁だったために、国益に成り得ないという意見もなくはなかった。
成長加速を手に入れる。その道筋をつけるためには、竹神夫妻ひいては竹神家との太いパイプが必要であることに山添尊は既に気づいていた。竹神夫妻の長女と意図せず接近した先の青年はこれまた意図せず距離があったようで、逮捕されたことをきっかけに調査部から除名されたため駒にならない。竹神夫妻の次女と交流があった各人との接触は端から想定にない。と、いうのも次女と各人とのあいだには親密な関係が成り立っていなかった。良くも悪くも距離があり、竹神夫妻とのパイプには成り得ず、家庭内で使われた成長加速の理論に迫ることも困難と判断ができていた。残った可能性が竹神夫妻の三女だった。在学時代、唯一恋人を持ち、その恋人引分史織が自分や家族を探るスパイのような存在と知りながら引分家が上昇するためとして別離を選んだ。そこには、幼さに反した賢さと深慮が観て取れた。また同時に、主観的表現にはなるが感情があった。その感情が竹神家とのパイプになる。
何も、感情は竹神子欄に限ったことではない。引分史織にも、竹神子欄に対する強い感情があることを山添尊は聞いていた──。
「──竹神子欄と引続き接触、決して急がず成長加速の情報を狙ってくれ」
「はい」
「それから次は竹神家の監視へ。子どもがいつ生まれても成長加速を見逃すな」
「はい、ではまた」
「君には期待している」
「必ず応えます」
引分史織は遺伝子のレベルでこの国の国民性を宿している。感受性が強く、寛容で、愛情深く、表情の下に心を隠すことに長けている。一般人相手ならまず感情を読み取られることはなく、隠密な行動も得意だ。一般的に欠点でしかない無魔力個体であることも、有魔力個体に気取られる心配が少ないという点で極めて優秀な要素といえた。心配事があるとすれば、引分史織も無自覚に発してしまうコンプレックスがある。地層のように積み重なった時代の歪みであり震源地と成り得るそれは、ほかでもない竹神子欄との接触において危険要素であり、成長加速の獲得を目指す今作戦において人選ミスを事後指摘される危険性もあった。
だが、山添尊はその危険要素こそが成長加速の獲得に役立つとも考えていた。
……君には、本当に期待しているよ、引分史織。
斜の席で竹神子欄と向かい合って、引分史織は切り出した。
「──成長加速はどんな魔法でしたか」
──二章 終──