一章 捉えるべき陰
──自分の足場をしっかり見定めてください。それが、わたしから贈る最後の言葉です。
竹神子欄。初めて恋をして、初めて付き合った女性に、そんなことを言わせてしまった幼い自分を、あれから何度呪っただろう。
仕事をする必要があった。その仕事が彼女と敵対するような立場を自分に与えた。引分史織は、それでも、仕事をした。家族が大事だった。下流階級から脱するため、必死に働いた。
わざわざ足場を崩すようなことはしない。引分史織はあの日そう決意した。震える彼女を抱き締められなかった自分を踏台にして、必ず、迎えに行く。それができて初めて彼女に応えることができる。そう、信じた──。
マンションのように電灯に化粧された引分史織が、口を開いた。
「お久しぶりです、子欄さん」
「……どうして、ここに」
非通知の電話など、もはやどうでもよくなっていた。子欄は引分史織に駆け寄り、「上流階級に、上がれたんですか」と、不躾な質問をしてしまった。
首を横に振る引分史織。子欄は、少し、距離を置いた。
「そう、ですか……」
まだ、あの日の願いは叶っていない。「なら、どうしてここに、どうして……わたしを」
「仕事柄、いろいろな情報が入ってきます。個人情報もそのうちで、子欄さんの電話番号は、初めて聞いたので、つい、気になって……」
「……職務規定違反ではありませんか、それ」
「厳しいですね」
「社会人なら普通の感想かと」
「そうですね、……すみません」
頭を下げる引分史織。就学時代を思い出すような柔らかな姿勢、黒縁眼鏡の奥に潜んだ優しい目差、求めていた姿がそこにあって、子欄は携帯端末をしまうことすら忘れていた。彼の発言から、昔と同じ仕事をしているであろうことを察して、携帯端末をしまう。
「国内調査員とでもいいましょうか、今も、それを続けているんですね」
「上流に昇るのも、夢ではないところまで来ました」
「っ……そう、ですか、それは、よかったです……」
「はい、すごく、いいことです……」
「……」
「……」
まだとは言え、願いはもうすぐ叶いそうで、そうすれば、あの日の別れが意味ある経過だったことを確かめられる。子欄は、言葉が出ないほど嬉しくて、瞼を閉じていなければ涙を怺えられそうになかった。
「子欄さん」
「はい……なんですか」
「少し、話しませんか。昔と、同じところで」
誘いを断る理由はないだろうが、別れの理由を振り返らずにはいられなかった。
「いいんですか、わたしと話して」
「構いません。……じつを言えば、あの日にはもう、ぼくは子欄さん達と関係のない立場になっていましたから」
「え──」
「調査対象は国内の別のところ。今も地道にやっていますから、安心してください」
「……」
だったら、別れる必要もなかったのではないか。「わたし、早とちりで無駄な馬鹿を見たんでしょうか」
「いいえ、そんなことは!あのことがなかったら……」
引分史織が嬉しそうに語った。「あの日の子欄さんの言葉がなかったら、そのときの仕事さえ擲って、それまでの努力を台無しにしていたと思います」
「引分さん……」
「だから、もう気にしないでください。話しましょう、また、二人で」
「……」
断る理由がない。子欄は、積極的にうなづいた。
納月が家に帰るまでしばらくあるだろう。忘れていた三〇六号室の施錠をして、就学時代に二人でよく訪れていた喫茶店〈伊吹〉を再訪した。
喫茶店は老夫婦とその娘が切り盛りしているためか、一三年ぶりだというのに子欄と引分史織の顔を憶えていて、
「注文はお二人ともレモンティでよろしいですか」
と。
子欄と引分史織は、揃ってうなづいた。
その昔であれば対面の席だったが、意識の高い引分史織が斜の席に座った。
届いたレモンティ。視線を一つ交えて、甘酸っぱい香りと味を愉しむ。
「『ふぅ──』」
久しぶりに重なる息遣いが、途方もなく懐かしく、過去とのわずかな差異を社会経験と捉える。
「おいしいですね」
子欄はカップを置いて、商店街の通りを窓越しに眺めた。「人通り、やはり少ないですね」
「各店舗が概ね閑散としています。度重なる感染拡大で高まった意識が標準化してきているんだと思います」
この一年超、ウイルス感染症が猛威を振るって、第三波、第四波、と、感染拡大が報道されるにつれて自粛疲れはある種の知恵を育んだ。国民性の抑制、すなわち、働きすぎな性格を抑えて、外に出て働くことだけが労働の価値ではないことを学び、ひとと接触せず遠隔でできる方法を創り出して乗り切ることだ。そこには家で余暇を愉しむ方法も含まれ、感染拡大を助長しない程度の人口が行動変容を果たした。その影響で外食産業や観光業、各種催し物を主催する企業やその関係各所が多大なる影響を受けており、伊吹もその一箇所のよう。
「そういえば、子欄さん知っていますか」
「何をですか」
「いっときレモンティが感染予防になるという話が出ていました」
「レモンが抗ウイルス作用を高める、と、いう話でしたね。カフェインレスのものでもテアフラビンがしっかり入っていれば感染予防効果があると聞きましたし、砂糖や蜂蜜を入れてもよく、好みの甘さと温度で飲めるのもいいです。残念なのはミルクなど特定の蛋白質を混ぜてはならないこと」
「お姉さんがミルク好きなんでしたね」
「ええ、納月お姉様が。それを除けばおいしくいただけて感染予防、非常に都合がいい、さすが我らのレモンティです」
「ふふふ」
「なんですか、やにわに笑って」
引分史織を一瞥して、子欄はレモンティを一口。「変なことを言いましたか」
「昔通りの子欄さんだなぁ、と、思って、嬉しいんです」
「なんですか、それは」
外見的に成長していないことを言われた気がして、子欄は気になった。「引分さんはいいですね、ちゃんと成人男性らしく成長しているようです」
「子欄さんが幼いとかそういうことではないんですが……」
「幼い」
「いえ、いえ、全然幼くないです、可愛いです、大人っぽくて」
「一文で相反する評価をした自覚は」
「……すみません、許してください」
「ふふっ……いいでしょう」
可愛いと言われて嬉しくないわけではなかった。が、それはそれ。子欄は幼い外見を気にしないでもなかった。ここまで引分史織と歩いてきて、かつては恋人同士に見えていたであろう横並びが、今ではどのように見られているか。
「わたしは、できればあなたくらい大人っぽくなっていたかったですよ」
「……驚いた気持も少しあります」
「わたしが老いないことですか」
「子欄さんのお父さんが掛けた魔法の効果なんでしょうか」
「スキンケアやアンチエイジング。特異な不老体質以外にも老いない前例は世界じゅうにありますから、魔法ではない可能性が十分あるでしょう」
父が掛けた成長促進の魔法によって子欄は生後半年足らずで進学した。その進学先で引分史織と付き合うことになり、恋人になって、別れたわけだが、子欄の記憶でも引分史織の記憶でも、子欄の外見要素は全く変わっていない。子欄が調べてみたところ、そういった不老的人間は希しくはあるが気に留めるほどのことでもない、と、いう程度にはいるらしい。成長促進に近い効果で大人の外見を得た先例があるので、その一例に過ぎない子欄としては取り上げるべき話題でもない。
「子欄さんのお母さんもお若いんでしたね」
「調査時代に見たことがあるでしょう」
「じつはそうです。失礼を承知で言うと、子欄さんより幼く感じました」
「お母様はそれを全く気にしてませんが、対面しても触れないでくださいね。連動してお姉様方の外見とかお父様の外見とかにも触れざるを得なくなって大変なので」
外見はどうでもいいと思っていても、いわゆるコンプレックスで全く気にしていない部分がないわけでもない。父は男性嫌いであるから恐らく自身の外見も嫌っているだろうし、音羅は身長を気にしているし、納月と比べて子欄は胸が──、
「別に気にしてませんが」
「ぼく、何か聞き漏らしてましたか」
「なんでもないです、忘れてください」
「気になります。何を話そうとしていたんですか」
「外見のことはどうでもいいと言ってるんです。以上、終りです」
「は、はい、解りました……」
勢いで振りきった子欄は、レモンティを一口。引分史織の外見などもともと気にしていないが、好み云云がないというだけで、彼の様子が気にならないという意味ではない。
……随分と大人っぽくなったな。普通に、女性の目を引いたりするんじゃないか。
そう思った子欄は、唐突なようだが質問をする。「恋人はいないんですか」
「いるわけないじゃないですか」
「そうですよね、当り前ですよね、だってあなた、わたしの個人情報を盗み取って電話を掛けてきたんですからね」
「今その話を掘り返すんですね」
「異常な情熱を感じたものですから、つい」
「異常……」
「異常でしょう、明らかに」
「反論、は、できません……」
職務上の権限を悪用したのは明白。事実が明るみに出れば有罪は確定的、引分史織が仕事を失うのは間違いないだろう。
それくらいの判断はつきそうなものなのに子欄に連絡してしまった引分史織である。非通知設定にして電話したことを隠そうとしていたようだが、しかるべき手続きをして情報開示請求をすれば非通知の相手でも割り出せるので判断基準が異常と言わざるを得ない。
「子欄さん、秘密にしてもらえますか」
「構いませんよ。掛けるほうが掛けるほうなら出るほうも出るほうです」
問題が多そうなのに受電してしまったのはほかならぬ子欄である。「わたし達は、同程度の異常性を有してるんでしょうね」
「嬉しいような、悲しいような……」
「恋人を作っていないなら素直に悦ぶべきですね、ほかならぬわたしとの共通点ですから」
「本音としてはポジティブな共通点がほしいですよ」
言われなくても解っている。が、口にした通り子欄も存外異常なのだろう、なかなか正常な共通点を見出せない。
「レモンティ好きなことを除くと、体型くらいしかぱっと浮かびません……」
「そういえば子欄さんはずっとスレンダですよね」
「誰が寸胴ですか」
「なんかすみませんっ」
「構いませんよ、(地雷だが)」
細身を認める子欄だがしかしスレンダと言われるとなんだか嫌なのだ。その表現の特徴として、あまりに胸が──、
「だから気にしてませんから!」
「何をですかっ」
「気にしないでください」
「む、無理ですよ」
……ああ、地雷ばかりでかわいそう。でもどうしようもない。
彼の言葉でもコンプレックスを気にしてしまうし、自分の思考の中でも気にしてしまう。
……そもそもあなたが現れなければ気にしてませんからねっ。
「なぜ睨むんですか」
「あなたの背後の壁を睨んでるんです」
それを聞いて左右に揺れた引分史織を、子欄はつい目で追ってしまった。
「ぼく、何かしましたか」
「したんでしょうね」
「せめて理由を教えてください」
「胸に手を当てて考えてください」
「むちゃくちゃです」
……うん、自覚してる。
でもどうしようもない。研究者として過ごしてきたここ十数年間忘れていた感性が、彼が現れた瞬間から蘇ってしまったようなのである。
……可愛い、か。
就学時代、他人からさんざん花に喩えられて嫌気が差したが、今こそ彼にだけは花に喩えてほしくも思うのである。
……いや、それはそれでスレンダと言われてるようなものか。
上から下まで凹凸がない、と、言われた気分になる。事実でも、受け入れがたい。
「わたしだって多少ありますから」
「何がですか」
「自分で考えてください。恋人でしょう」
「……」
「あ……、……」
苛立ちのまま睨んでいたら気にならなかった男性然とした雰囲気が、一瞬で体の奥まで侵入してきた感覚がして、子欄は窓の外を見やった。
「……い、今のは忘れてください。もう、別れたんですから……」
もう別れた。それも、子欄から切り出して。
「……」
引分史織の沈黙が何を思ってのことか判らず、子欄は怺えられなかった。
「男性なら会話でもエスコートしたらどうですか」
「……ぼくは、そんな玉ではありません。年下の子欄さんに、いつも教わっていて、引っ張ってもらっていましたから」
「そうでしたね。あなたは少し遅いんです」
仮に、そう、仮に、秘密裏に動かなければならない仕事をしている、と、あの頃もっと早くに打ち明けてもらえていたら違う今があったのではないか。騙されたふりで国に取って有益な情報を提供して、彼との付合いは続けられるような匙加減だって──。そんなことを考えてしまうほどには、彼の遅さとそれ以上の自分の後悔を、子欄は思い知った。
「……」
付き合おう。そう言えたら、また、あの頃の関係が蘇るのだろうか。いや、きっと、蘇る。口を開けさえすれば。
……どの口で。
子欄には、無理だった。
だから、
「戻れませんか」
と、引分史織がぽつりと言ってくれて、子欄はレモンティの波紋が鮮明に見えた。
「何を言ってるんですか……」
カップを両手で包み、「一三年も経ってるんですよ。あなた、何歳になりましたか」
「三一歳です」
「でしょうね。わたしは早生まれなので……まだ一六です」
生まれた年に彼と出逢って、その翌年に再会して、その次の年に別れた。本当に幼い頃の出来事なのに、未だ感情を揺さぶられる。
「一五歳差なのはいまさらですが、あなたと付き合うことが今も昔もいけない年齢であることは、あの頃より解ってます。社会人と未成年者は一定の距離を保──」
「子欄さんのお蔭です」
一言で、遮られるほど貧弱な抵抗だった。彼の言葉のほうが、圧倒的に強かった。
「……」
「子欄さんの言葉があって、ここまで昇ってきました。まだ中流階級ですが、上流階級に手が掛かっています。そして、かつてのようにぼくの仕事を知らない子欄さんではありません。上司もそれを承知しています。その上でぼくは申し出ます」
引分史織が、まっすぐに見つめた。「以前のような関係に戻れませんか」
社会的な壁を作っている年齢差など気にすることはない。彼自身も彼の関係者もそう考えてくれている。
それを知った上で断る理由は──。
「……ないですね」
「……ぼくでは、駄目ですか」
「いいえ、逆でわぅっ!」
子欄は、慌てた拍子にカップを転ばせ、レモンティをテーブルに零してしまった。
「拭きますね」
「も、申し訳ありませんっ」
引分史織が率先しておしぼりを手に取り、テーブルから零れかけたレモンティを拭った。
忙しなさが騒いだ喫茶店。しばらくして落ちついたBGMを取り戻すと、子欄は落ちつき払い、改まって口を開いた。
「今度から、非通知はやめてください。それが条件です」
「え」
「遅いですね……。OKですよ、と、言ってます」
「あ……」
……この顔──。
あの頃の面影。温かく柔らかな表情は見つめていられないほど優しい気持にさせてくれる。当り前のように、自然に、将来を期待できる。
「ぼくが、幸せにします。必ず」
「飾りすぎです」
「ずっと言いたかったことですから取り下げません」
「……嫌とは言ってません」
子欄は町中で見かけたカップルを馬鹿のように思ってしまうことがあったが、自分もその馬鹿になるような気がしてならなかった。それもまた嫌ではなく、進んでそうなろうとしてしまう浮ついた気持をどうにも抑えられない。
レモンティを追加注文して会話に花を咲かせると、本当に過去が蘇ったように感じ、かつ、進歩も感じた。秘密保護の観点で彼は語れないことが多いようだったが、それを知った上で話せる関係は以前より確実に対等で親密だったのである。
「──ご家族が元気にしているようで何よりです」
「お姉さんと一緒にサンプルテを離れたようですが、子欄さんのご家族はどうですか」
「ええ、全員無事です」
元気とは実態が異なるが、無事──。
「あれからお父さんは動いてますか」
「安定の引籠りです。当然ですね、労働意欲のないひとですから」
「と、いうことは、変らずお母さんが大黒柱ですね。携帯端末やマンションの名義もお母さんですよね」
「秘密保護はどうしましたか」
「子欄さん相手に子欄さんに関することを隠すことはしません。と、いっても、たまたま入ってきたこと以外は知りようもないんですが」
「たまたま、は、どういう状況で起きるんですか」
少し気になるところだ。国の仕事とは言え、調査員である引分史織の耳に簡単に個人情報が流れ込んでしまうような情報管理体制はどう考えても穴が大きい。
「ここだけの話ですが、上司と話しているときこっそり聞き出してます」
「ばれてますよね、絶対」
「勇んで話してくれて、黙認もしてくれています。ぼく達のことを知っていますから」
「そういうことでしたか。人情に惇い上司なんですね」
「国の、政治や治安にも関わる仕事ですからいろいろと気を遣うことも勿論あるんですが、だからといって人間の心までは失いたくない。そう考えているからでしょう」
法律や規則で雁字搦めの職場でも、血の通った人間が働いている。絶縁を強いるような融通が利かない世界でもないようで、子欄は引分史織の現状を悦ばしく感じた。
「でも、個人情報の抜き取りは感心しませんよ」
「安心してください。子欄さんに関することだけですから」
「それはそれでいけないと思います。今後は直接聞いてください」
「では、今後も二人で話せますか」
「関係が噓でないなら」
「勿論」
カップの側面に引っついたレモン。
「今日はこの辺りにしましょう。あなたが未成年を連れ歩いて捕まっては困ります」
「子欄さん……ありがとうございます。今度はいつ」
「そうですね──」
月曜日から土曜日までは仕事が入っている。休日である日曜日は納月と水口誠治の研究会に同席していることになっている。余裕があるのは、
「土曜日の夜です」
日曜日の本日、彼の仕事が休みであろうことも加味して考えるとそこが一番いいだろう。どうやら都合がよかったようで、
「ぼくもそれだと助かります」
と、引分史織が快諾した。「日曜日は特に家族と過ごせる時間ですから、子欄さんもそうしてください」
「ええ」
そう応えておいて、家族が納月しかおらず、その納月が水口誠治と過ごすことも承知しているから、子欄は暗転する内心を表に出さないようにした。
「では、今日はこれで」
「はい。ごちそうさまでした」
「ええ、ごちそうさまでした」
それぞれ代金を出して伊吹をあとにすると、アーケードの向こうへ歩いてゆく彼を見送る。日曜日の今日、彼が時間を削って会いに来て、話してくれた。納月と目指した父の治療に失敗してここにいる子欄だが、残酷でない運命もあるのだとこの小一時間を嚙み締めた。就学時代は携帯端末を契約することができず寮暮しだったために個人の連絡先もなかった彼が携帯端末を持つまでになっていた。一方、子欄も引越しを機に携帯端末を契約してもらい再会した彼の連絡先を登録できた。経緯を振り返ると暗転のみではなかったと実感が湧く。
……そのときは悪いことでも、いいことだったりするのかも知れない。
サンプルテを出ることをネガティブに考えていた数時間前までの自分に、上を向くよう伝えたいくらいに、青空の気分である。アーケードの天井を透かしても今は夜だから、星空の気分といってもいい。とにかく、
……やった……。
一三年前の別れやそれから抱えることになった後悔が、報われた。油断すると涙しそうな心持で、子欄は帰途につこうとした。
そのとき、
ドォンッ!
遠くで水が弾ける音が鳴ったような気がした。感覚的なもので聴覚が働いたのではない。
……今のは、魔力の流れ。
自然のものでは考えられない強大なもの。なおかつ、とても感情的なものだったようで、悪寒に近い肌の震えを感じた。直感が働いたのだろう、その瞬間、子欄は魔力の流れを捉えるべく魔力探知を掛け、音の正体を摑んだ。
……お姉様──!
それは、納月の魔力だった。水を操ることができる納月がなぜか水を操った気配がない。
……何があった。
僻むのでも贔屓目でも偏見でもなく、外見的に納月は子欄より人目を引く。暴漢に襲われたりして、相手を傷つけない程度の脅しや抵抗をしたのかも知れない。とにかく、一人にしておくのは心配だ。
子欄は納月の魔力を感じた川岸へ駆けつけた。あの音の正体は恐らく納月が魔力で川の水を叩いたときに生じたものだった。飛び散った川の水が重力に従って降り注いで、納月とその周辺がずぶ濡れになっていた。
「お姉様!お姉様……!」
「……」
体を揺すっても反応がない。息はしているが苦しそうだ。持病はない。父に対する治療失敗の件が祟ったか。
ふと、
「誠治さ……」
譫言。
「お姉様……」
水口誠治と会っていたはずの納月が、こんなところで独り、ずぶ濡れでいる。
「竹神子欄……」
「……水口部長」
ぬかるみに足を取られながらも駆け寄ってきた水口誠治を、子欄は睨みつけた。「あなた、お姉様に何をしましたか」
「……すまない。全面的にわたしが悪い」
「……」
こういうひとだから責める気はなくなるが、「お姉様、気を失っていますよ。何がどうしたら、こんなことになるんですか」
「……別れることになった」
「……まるで他人事ですね」
「……」
その沈黙に納月が追いつめられた理由が潜んでいそうだが、冷えてゆく体が心配だ。「申し訳ありませんが日を改めてください」
「家まで運ぼう」
「……お願いします」
理由はどうであれ、水口誠治の責任なのだからそのくらいはしてもらう。それに、そうしてもらったほうが早く帰れる。納月を早くお湯に入れてあげなくては。
泥塗れになるのも気にせず水口誠治が納月を抱えて帰途を急いだ。浴室まで運ぶと、
「すまないが、あとは頼む」
と、水口誠治が去っていった。なんのフェイントもないだろうが子欄は施錠して、納月に温かいシャワを浴びせて、体じゅうの泥を洗い流し、その間に溜めた湯船のお湯に浸けて、温めてあげた。
「お姉様……」
「ぅ……」
呻くような声は、子欄への反応ではない。
一番に納月と話さなければならないとでもいうように水口誠治が終始口を閉じていたので事情が解らないが、浴室に散った泥が姉の苦しみそのものに観えて排水口へ押し流した。
……別れることになった、か。
納月と水口誠治の関係は、年齢以前の問題で普通には認められることがない。だから、別れること自体はむしろ健全でもあったのだが、それと気持の問題は別だ。目の前で、苦しんでいる姉がいて何もできないもどかしさは、父を助けられなかったときと似て──。
……嫌な予感しかしない。
体が温まっていることを確かめてお湯から出し、水滴をしっかり拭って布団に寝かせると、しばらく経って納月が目覚めた。
話を聞こうにもどう切り出していいか判らず、傷つけることも覚悟で鎌を掛けながら話をして、しかしむやみに傷つけた恰好になって、ただただ納月が傷ついていることだけ、子欄は判った。
寒くはなさそうだったが、納月の気持に寄り添う温かいものが必要かも知れない。
「震えてますよ。……、暖房器具が必要かも知れませんね」
「……」
「──お姉様」
「ちょっとだけ、じっとしててくれます」
「……はい」
布団から上体を這い出した恰好はむしろ寒そうにも思えた。でも、掛布団を掛けつつも姉の震える体を抱き締め返して、子欄は天井を仰ぐのみであった。
……申し訳ありません、お姉様、こんなことしかできなくて……。
こんなとき、もしも音羅だったら、全力で温めてあげられただろうか。無い物ねだりで、なんの役にも立たない考えなのに、うまい言葉の一つも浮かばない子欄はそうでも思わなければ体験した別れがリフレインするせいで泣き出してしまいそうだった。
苦しい現実をなんとか吞み込んで望ましい今に辿りついたのが子欄だ。けれども、納月の未来まで望ましいものだとは断ぜられるわけがなかった。望ましい未来を信じたふりをして諦めていた子欄を励ましたのはあの父で、その当時の父にさえ及ばない自分では納月を励ますことなどできるわけがない、と、漠然と悟っていたからだ。
良くも悪くも父のような話し方が子欄にはできない。納月が泣き疲れて横になるまで、抱き締めているだけだった。
「クムさん……蜜柑を、ください──」
テーブルに必ず置いていた果物も、それを手渡してくれた小さな影も、この家にはない。
無い物ねだりばかりだ。
未成年とは言え、高等部を卒業して就職した一社会人が納月だった。そうしてまじめに働いてきた研究者たる納月は子欄が感じていたよりずっと姉らしく、心配を余所に翌日からばりばり働いて、落ち込んだ様子を見せることはなかった。妹である自分との抱擁のお蔭であるなら悦ぶべきことであって心配には及ばないと思い、一方で、空元気なのではないか、と、子欄は心配が尽きなかった。
その週の土曜日、予定通り伊吹に訪れた子欄は、先に到着していた引分史織と前の席取りで面した。
「お待たせしました」
「大丈夫でしたか」
「やはり伝わってましたか」
納月とのことが引分史織に伝わっていることを想定していたので、事実そうなっていることに子欄は驚かなかった。
「あなたの上司はお節介でもあるようですね」
「また別れるようなことになったら困るんでしょう。部下のメンタルケアの一環だそうです」
ケアとは、配慮、管理、手入れ、どれのことを指す。それとも、別の意味か。過去の別れを知っている上司がそのあとの引分史織の精神的不調を観察していたのだとしたら──。
「わたしは、自分のことばかりを観ていたようです。あなたの体調は、大丈夫でしたか」
と、子欄は引分史織を一瞥した。
「……しばらくは落ち込みました」
意図をきちんと酌み取って答えてくれる引分史織である。「仕事に支障が出ないようにはしていたつもりでしたが上司には筒抜けみたいでした。中間管理職はすごいですね」
「観察力は当然ですが、仕事の割振りや上層部との折衝も下には見えないところでこなしているんでしょうから頭が下がります」
納月と別れることになったという水口誠治も中間管理職だ。別れの原因は定かでないが理由になるくらいには仕事が忙しい身だろう。
「お姉さんの体調は大丈夫ですか」
「外面的には。内面までは、把握しきれません」
子欄の研究している治癒魔法は飽くまで外傷に対するもので、心に働きかける類ではない。治療にもいろいろあるが、納月の心を癒やすことについては専門外、と、いえなくはない。
「それでも、わたしはお姉様の傍にいます。手摺くらいにはなるでしょう」
「ぼくが倒れずに済んだのは仕事を続けさせてくれた上司がいたからです。お姉さんには、子欄さんが必要だと思います」
大切なひととの別れ。今生の別れとはいわないまでもその重さを知っているからこそ、引分史織の上司への信頼を子欄は推し量る。
「引分さんの上司はなんというひとなんですか」
「山添尊といいます」
「引分さんは山添さんを信頼してるんですね。わたしも、お姉様に取ってそんな存在になれるでしょうか……」
「心から寄り添えたなら、必ず。子欄さんがそうできることを、ぼくはずっと知っています」
「……ありがとうございます」
別れで勝ち得た信頼だった。
「何かうまい励まし方はないでしょうか。あなたとの別れのあと、わたしを励ましてくれたのはお父様でした。わたしはお姉様をあんなふうには励ませません」
「難しい問題ですね。言葉がしっかり伝わるとも限りません」
引分史織が不意に告げる。「子欄さんのあのときの言葉をぼくなりには理解したつもりで、その通りだったことは今になって解りました。それまでは不安で、ぼくは自分自身を責めたこともあります。すごく、苦しかったです……」
「そのとき支えてくれたのが山添さんなんですね」
「すごい人ですよ。ぼく以外にもたぶん多くの人を纏めていて、国じゅうのあらゆる情報から必要なことを国に上げるんです。仕事の一つ一つが国のためになる、すごい重荷を負っているはずなのにそうは感じさせないでみんなを支えてくれているんです」
「(解っているつもりだったが、)わたしが思う以上に山添さんへの信頼が強そうですね」
「ぼくと同じように助けられた人がいっぱいいると思います。懐の深い人なんです」
「なるほど……」
目の前でほかのひとのことを熱く語る引分史織を見て少しだけ寂しく感じた。「……申し訳ありません、ちょっと、嫉妬しました」
「えっ、あ……すみません」
「いいえ、いいんですよ。間接的にわたしもお世話になったんですから、感謝しないといけません。一方で、そう思わされるような油断がわたしにはあったんだな、とも、思いました」
「子欄さんは子欄さんで心を砕いてくれました。だからぼくは、ここにいます」
「引分さん……」
「子欄さん……」
目線を交わらせるだけでも共有できる気持があるが、手を取り合ってもよかっ──。
「遅れましたがいつもの品です」
「『!』」
店主の娘さんが微笑ましそうにレモンティを運んだ。会話に配慮してくれたのだろう。
娘さんが会釈で去ってゆくと、子欄と引分史織は微苦笑。
「ともかく、わたしがお姉様を支えないと」
「子欄さんならできます。ぼくが保証します」
「引分さんに言われると心強いです」
揃ってレモンティを一口。
それから雑談を交えた一時間超のデートは、ティーカップを優に超える味わいと香りで満たされた。
引分史織と別れた伊吹の前で子欄はふと思い返した。
……そういえば、お姉様が倒れていた場所は──。
あの日、水口誠治の家へ出向いたであろうことから水口邸が近かったことは言うまでもないが、オータムパレスに帰ろうとしていたのならもっと北の道を選んで帰るべきだった。納月が倒れていた川岸は、前に住んでいたサンプルテ方面に向かう道だ。引越しした日だったから間違えた、と、いうことも考えられなくはないが、水口誠治との別れを受けて、どうしても家族の顔を、父の顔を、見たくなったのかも知れない。
納月を癒やせるのは父や母や音羅であるのかも知れない。
そうは思うも、年長の家族に頼るばかりでは三女たる自分を情けないだけの存在と認めるようで、嫌で、子欄は急いでオータムパレスに帰った。
ルームシェア状態の三〇六号室は全体的に納月と共用であり、まだ片づいていない段ボール箱塗れの一室もそうである。
「お姉様っ」
「わっ、いきなり大きな声出さないでくださいよぉっ」
「申し訳ありません。ただいま戻りました」
「おかえりなさい。どうしたんです、らしくない元気な帰宅なんてして、って、おや──」
「気づきましたね」
子欄は、背中に隠していた買物袋をテーブルに置き、納月の目を引いた。
「こ、これは……!」
子欄は納月の目線に応えるように指差す。
「グラタンです。パスタです。生米です。切餅です。ミルクです。そして、シチュです」
「ど、どうしたんです、こんなに買い込んで」
「一、二週間はこれで乗り切ろうかと思いまして。お姉様、こういう白いのが大好きですから引越し祝いということで買ってきました」
「おぉ……できた妹です、全部いいんです」
「毎日・毎食でもどうぞ。小包装のものもありますがわたしも一緒に食べられるようなものも買ってきましたから、遠慮なく」
「すごいですっ!家ではなかった白物パラダイスっ!」
「ふふふ、……まだあります」
「えっ」
「こちらもどうぞ」
子欄は隠していたもう一つの袋をとんと置く。「ケーキと大福です」
「パオンなコンボ!」
「こちらは日持しないので今日じゅうに。グラタンでもパスタでもシチュでも好きなものと組み合わせていいですよ」
「わたしはいま理性を試されているんですかね。新手の試験とか」
疑われるのも無理はないので建前を考えてある。
「慣れない新生活です。段ボールの片づけもかなり残ってます。せめて食べ物は自由にして終わらせるまでの糧にしてください」
「片づけへのテコ入れでしたっ」
「虫の類が大量に湧いてもわたしは対処しませんよ」
「えっ、嫌ぁっ、駄目っ、子欄さんなんとかしてくださいっ!」
「水弾でどうにでもなるではありませんか」
「町中での魔法は法に触れますからっ」
「だったら片づけてください。放っておいてもわたしはやってあげません。ついでに言えばわたしは白物ばかり食べたくないので、お姉様が食べなければ怒るお上もいるでしょうね」
「恐ろしい妹です、作戦が汚いですっ」
食べ物が好きな音羅の影がちらつけば食品ロスは是が非でも回避せねばならない。と、なれば、納月は白物を食べざるを得ず、片づけもせねばならない。
「お姉様を動かす完璧な方程式です。いかがですか」
「鬼ですっ、悪魔ですっ、こんなおいしげなもんに手をつけるなだなんて!」
「いいえ、嫌でも手をつけるでしょう、お姉様なら。ですから片づけも決定事項です」
子欄の計算は完璧。の、はずだったが、納月が含み笑いである。
「ふふはふはふふふ」
「ぐうの音も出ない替りに笑うしかなくなりましたか」
「子欄さんの悪意の方程式はわたしの欲望の前に崩れ去ることでしょう」
「なんですって」
「お姉様のお叱りさえ回避できればあとは子欄さんの良心と本能に任せればいいんですよぉ」
「な、それは──」
「そう、白物はいただきます。が、片づけはしません!」
それも想定済みだ。
「だから太るんですよッ!」
「ぬぁッ」
一緒にお湯に浸かってきたのは昨日・今日のことではない。納月が横っ腹を気にしていることくらいとうの昔に判っていた。その原因がなんなのかも、至極当然に判っていた。ゆえに、一言でKOだった。
「食べた分だけ運動するんです。そうしないから太るんです。足し引きゼロ、簡単な式です、初等部一学年生でも理解できます」
「そこには体質という係数があってですねぇ、これは大人でも解せられない問題で──」
「よかったですね、未成年で。頭が柔らかいうちに係数まで理解するチャンスですからしっかり動いて研究しましょうね」
「お、鬼ですぅ、悪鬼ですぅ!」
「害虫防止のため悪鬼でも魔王でも演じましょう」
「ひぇえぇっ!」
……元気な、泣声。
家族のツッコミやボケに乗ってくれる。それが納月だ。子欄が知る限り、そうしているあいだの納月はじつに姉らしく優しい。そうさせてあげたら、自然と元気になってくれる。
傍にいるだけでもきっと癒やしてあげられると思っても、それだけに甘んじて後悔するのは嫌なので、子欄は小賢しくも頭を使った。口実はなんだってよかった。淀んでゆく姉をただただ観ていたくはなかったのだ。
お湯をいただいて、マカロニグラタンを食べて、一緒に笑えたから、子欄は自分の行動の正しさに確信を持てた。
ケーキをぺろりと平らげた納月が大福を片手に、
「ありがとですよ、子欄さん」
神妙に言った。「心配、掛けますね」
「……いっぱい掛けてください。お姉様はわたしの命の恩人なんですよ」
「……」
姉の表情は、その事実を忘れていたことを示していた。実際、命が害されたかどうか子欄も確信があるわけではないが、
「学園の一件のとき、お姉様が行動の指示をくれたでしょう。そうする作戦のように見せかけて、自然に危険から遠ざける考えがあったんだと、あとになって思いました」
「そんな意図ないですよぅ」
「実際、わたしは傷一つ負いませんでした。偶然でしょうか」
「偶然です。子欄さんの運がよかったんですよ」
「だとしたら、お姉様がくれた運です。水に流されて怪我をしなかったのも、魔物に襲われなかった位置にいたのも、お姉様の指示を受けて動いたから。全部、お姉様のお蔭。わたしは、そう思ってます。ありがとうございます」
「……まじめですねぇ、子欄さんは」
「信念は義を重んずることですっ」
「固ぁいっ」
「ふふっ」
「ふふふ」
また笑ってもらえたから、
……少しだけ、笑いのセンスが身についたかも。
納月との会話だけでも、それが活かせられれば幸い。引分史織に言われたからだけでなく、納月を支えられる自信が湧いてきた。
「さ、お姉様、二つ目も召し上がってください」
「いっただっきまぁす!」
……白物のときだけは長女レベルの挨拶。
何はともあれ元気が一番である。
横っ腹の問題もあって食べ物で釣り続けるのも限界があるので、健康的な活力増進を狙ってゆこう。
そう考えた翌週は地雷な白物パーティとなった。うだうだ言う姉にお餅をちらつかせて、無意味な牛歩戦術が如く片づけが進んだ。リサイクルに出すため折り畳んで纏めた段ボールが椅子のような高さになっていた三〇四〇年一二月五日、日曜日、──水口誠治が訪ねてきた。動揺を隠せない納月とその気を察して冷静になりきれない水口誠治を落ちつかせるように、
「──冷静になりましょう、お姉様。水口部長も」
子欄は二人の対話を促した。うやむやにしてはならないことは、漫才やコントのようなノリで済ませていいはずがない。漫才やコントだって、計算の上で成り立っている真剣な舞台だ。まじめに話さなければならないことは、まじめに話すべきなのだ。
沈黙のあと話し出した二人は、笑いを一つも挟まなかった。挟めるような話ではもともとなかったから、なんとか話しやすいように漫才のような掛合いをして、関係を不定形のまま終わらせようとしていたのだろう。打合せをしたのでもないのに息を合わせるようにそうしようとしていたのなら、むしろ、二人の関係はそのほうが幸せだったのかも知れない。それなのに子欄は、二人を向き合わせてしまった──。
納月のために。そう思って口を出したはずなのに、水口誠治を玄関の外へ送り出した納月が崩れ落ちた姿を目にしたら余計なことだったことを確信し、水底で溺れるような息遣いを抱き寄せると自分が妹であることさえ子欄は呪わしく思えた。
「お姉様、申し訳ありません。わたしが、あんなふうに話し合うよう言ったばかりに……」
「……いいんですよぅ、こうなることくらい、付き合い始めたときから予想済みでしたし」
「でも──、水口部長は言いませんでしたが、ずぶ濡れのお姉様をここに運んだのは──」
「そんなこともうどうでもいいんです。関係ないんです。これは……わたし達の問題です」
……わたしは、妹は、関係ない。
相関図で〔恋愛〕の矢印がある当事者にしか関わりのない話だ。子欄は〔妹〕で、姉の人生を左右するほどの発言はできず、影響力もない。
……わたしの、ただの思い上がりか。
呪わしい。涙する姉に〔妹〕であることを理由に気を遣わせてしまう自分が。
……こんなときでさえ、お姉様を温めてあげられないなんて。
長女に生まれたかった。そんなふうに子欄は思った。それほどに、情けなかった。
それから土曜日までは長かった。割りきった様子の納月が元気に振る舞っていた。それが少し前の空元気のように見えなくなっていたから余計にあの日の対話が間違っていたのではないか、と、後悔が湧いた。同じ部に所属している水口誠治と毎日顔を合わせるので、なんとか納月と復縁してもらえないかと提案しようとは思った。子欄は、〔妹〕が頭にちらついて声を掛けるにも至らなかった。
なんの影響もない脇役〔妹〕であるなら、あるいは救いがある。なんの影響もなかったとは思えない気持が膨らむ一方だった。三〇四〇年一二月一一日の土曜日、早くに伊吹へ訪れた子欄は父のようにテーブルに突っ伏していて、
「子欄さん、何かあったんですか」
そんな懐かしい言葉を掛けてくれる引分史織にも、反応できなかった。質問に対する答があるとすれば、「あるに決まっているからこうしている」だ。が、そんなふうに答えれば深い話をせざるを得ず、無意味に姉の涙を語らなくてはならなくなる。
話を掏り替えよう。
「思えば、引分さんは最初からわたしを名前で呼んでくれましたね」
「同級生の皆さんにも、子欄さんを名前で呼んでいた人はいましたよね」
斜の席は、ちょうどいい距離感を保たせてくれる。
「苗字がダブってましたから」
「お姉さん達ですよね。ぼくも、そんな理由です」
「声を掛けたあの瞬間には、あなたは国の仕事人だったんですよね」
「仕事人といわれるとちょっと恐いイメージになってしまいますが、以前伝えた通り、そうです。ただ、なんの偽りもなく心配でした。仕事のことを好都合に思ったくらいです」
「そうですか……」
「噓っぽく聞こえるかも知れませんが、子欄さんのことは、ずっと観てましたから」
「……」
突っ伏した子欄に配慮してレモンティを運んでくれた店主の娘さん。その足音が遠退くと、子欄はそのままの体勢で瞼を開けた。
「どうしてわたしは、妹なんでしょうね」
「論じても変えられないことです。確か、妹もいますよね」
「二人、四女と五女が」
「ぼくには、姉と妹が一人ずついます。位置としては、子欄さんとほぼ一緒ですね」
「真ん中、ですか」
「何かと惜しいと思いますよ。妹みたいに親にべったり甘えられないし、姉みたいに突っ走ることもできない。あいだを取ろうと頑張っても褒められることなんてないですし、どっちつかずと詰られることのほうが多いくらいで、なんのために、誰のために──、ぐじぐじ考えてしまうこともありました」
「その立場にいたのは、もとは、納月お姉様だったんです」
「今になって、お姉さんの気持が解ったんですか」
「わたしは末っ子気質が抜けきってないんです。馬鹿まじめさを突き通させてもらえた甘えん坊のまま……」
なんの話ですか、と、訊かずに話を聞いてくれる引分史織に今また甘えている自覚があるのに、口を閉じることはできなかった。
「お姉様達は、そんなわたしを受け止めてくれて、甘えさせてくれて、気を遣ってくれてる。それなのに、わたしは、お姉様達に、何もできない。苦しんでても、温めてあげられない」
喫茶店のBGMの間奏に、沈黙が嵌まった。間を図ったのでもないだろう、大サビに入った瞬間に引分史織が励ました。
「言葉と行動が全てなんだとしたら、ぼくは完全に子欄さんに見放されていたんだと理解したでしょう。言葉にも行動にも光の当たらない裏側があるんだと思います。その部分は、暗かったり、あるいは物の陰になっていてすごく察しづらくなっています。だから解らないことのほうが多くて、不安です。でも解ったら、それ以上ないほどにしっくりくるリアルが潜んでいるんです。ぼくは、そうでした」
「……」
「子欄さん」
「……はい」
「ぼくは、子欄さんの言葉と行動の裏側に救われたんですよ。ぼくよりずっと身近にいたお姉さんのこと、ぼく以上に信じることって、不可能なんでしょうか」
「……。──あなたは、あいだを取るのが上手ですね」
「真ん中っ子ですから」
信ぜられないはずがない。長女のことも、次女のことも、子欄は信じている。たとえ自分が疑われても、甘えた自分を受け止めて貫かせてくれた姉を、信じている。
ひとを信ずるということは、回り回って自分を信ずることだ。自分が何もできないと思ってしまったのは、姉に突き放されたような気になっていたからだ。本当は突き放されてなどいない。姉は変らず姉らしく、妹を受け止めていただけで、子欄は何も否定されていない。そんな姉を疑うような真似は不遜で不敬で罰当りで、何より、姉の姉らしさを全否定する行為だ。
妹の子欄は何もできない。最初からそうだったのだ。いまさらではないか。そんな妹でも一緒にいてくれたのが、泣きついてくれたのが、姉納月だった。
……涙を見せてもらえただけで、充分だったのにな。
その尊さを理解していなかった愚鈍さをテーブルに押しつけるようにして、子欄は上体を起こした。
「ついでですから、妹の信じ方も教えてもらえますか」
「それはもう解っていると思いますよ」
「甘えさせてあげます」
「はい。あと、ときどき自由にさせてあげるといいかも知れませんね」
「自由に──」
毎週土曜日に引分史織と会う、と、納月に伝えたときのことを子欄は思い出した。
──へぇ、引分さんと二人で。これまでの分も、たっくさん愉しむんですよぅ。
そんなふうに押し出して悦んでくれた納月は、引分史織の域だ。
「妹と一緒に暮らせるのがいつになるかは判りませんが、もしそんな日が来たら、意識してみます」
この国の寒い夜は長い逢瀬を許してくれない。それでなくても、「申し訳ありませんが今日はちょっと早く帰ります」
「送らせてください」
「よろしくお願いします」
オータムパレスまで送ってもらった子欄は、笑顔の彼と「また」と交わして、エレベータに乗った。
エレベータが上がってゆくのを確認して、引分史織はメールを打った。
〔今日も愉しかったです
お姉さんともっと仲良くなれることを願
っています〕
自分の携帯端末を持ってそれほど経っていない竹神子欄だが、就学時代から母親の携帯端末やパソコンに触れる機会があったため返信が早い。
〔 こちらこそ、短くもとても有意義な時
間をありがとうございます。
是非参考にしたいので、また真ん中ら
しさにアドバイスをもらえたら嬉しいで
す。よろしくお願いします。
気をつけて帰ってくださいね。
おやすみなさい。〕
返信は小分けにしたほうが長続きして、結果的にたくさんの話ができ、時間を共有できる。そんな駆引きを全く考えていない彼女らしさを文面に感じて、引分史織は微苦笑、
〔おやすみなさい
また土曜日の夜に〕
返信を送って携帯端末をしまう。
帰途を辿って南進して間もなく、仕事用の携帯端末に上司山添尊から電話連絡が入った。
「彼女は」
「先程見送りました。仕事ですか」
「ああ。──」
「──」
秘密裏の情報収集。業務内容は家族にも秘密。だが、報告相手である上司山添尊は別だ。
「──、ではまた」
「君には期待している」
「必ず応えます」
竹神子欄と過ごした高等部の頃の失態に目を伏せてもらえたのは山添尊のお蔭だ。今の関係を発展させるためにも、仕事を続けて上流階級へ上がらなくては。
……今しばらくの辛抱だ。
秘密を抱えて生きるのはつらい。自分の気持や考えの全てをひとに伝えないとしても、伝える・伝えないの選択権は誰もが持っている。選択権のないもどかしさを引分史織はいたく思い知っているから、せめてやれることはやり尽くす。全てが繰返しというわけでもないが繰り返しているような錯覚を催すような現在や近い将来を回避したく、仕事を全力でこなさなくてはならない。
引分史織は新たな仕事のため、改めて南進した。
──一章 終──