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始章 諦めの日

 

 周りの評価や感性、無意識の悪意や影響力に害されることのない誇り。それがこの世に存在するならいったいどんなひとが持ち得るものなのだろうか、と、逆算的思考で必要なものを導き出そうとしたところで何もない闇の中を探るようなものだった。

 ──学んだことの大事さは何があっても変わらない、──。

 竹神(たけみ)子欄(こらん)は瞼を固く閉じると、卒業生代表たる姉の答辞がリフレインする。自分の中に何もないことを知ったから、自分が何かを持っていることを確認するために日記をつけたり、知識を蓄えたりした。三年間の就学で得たものはさして多くはなかったように思えたが、手放したものの大きさをいたく思い知ると得たものも存外多かったのだろう、と、事後的に判断できたこともある。そうして手放さなければ気づけないような大きな何かがきっとほかにもたくさんあって、それは姉の答辞をふと振り返ってしまうことの原因でもあるのだろう。

 

 卒業式のあと姉音羅(おとら)を中心に撮影した多くの写真は自分も写ったのにどこか他人事のように思えて、子欄は密かに目許(めもと)を拭った。

「しーちゃん、大丈夫」

 と、透かさず妹を心配するのがじつに音羅らしい。「やっぱり寂しいかな」

「あ、いいえ、さっき砂が目に入ってしまって。目薬ありますか」

「あ、勘違いごめんっ。なっちゃ〜ん」

 もう一人の姉納月(なつき)を呼び寄せて目薬を点してくれた。

 

 潤いすぎた瞳はしばらくごろごろと無縁だった。一番上の姉音羅も、もう一人の姉納月も、いつも優しい。甘えたらきっと甘やかしてくれる音羅はともかく、厳しい目線も持ち合わせた納月とは適度な距離を保ちつつも姉妹格差を埋めたい気持が子欄にはあった。

 父の病を治すという目標を持って納月と同じ治癒魔法研究所に勤めて満たされたような気になったのも束の間、納月が別部署に異動となってしまったから肩を並べて仕事をする、と、いうことがなくなってしまった。

 じわり、じわり、影が広がるようだった。

 寂しい。一言にいえばそういうことなのだろう。家に戻ると影はすっかりなくなったようだった。明るい長女と剽軽な次女を仰いで三女たる子欄は、積極的にジェスチャをしたり口を開いたりすることなく朗らかな空気を享受でき、それに違和感を持たなかった。生まれたときからそんな構図が完成していたのだからそれが我が家であることを疑うはずもなく、その頃は、壊れるとは想像だにしていなかった。

 

 三〇四〇年一一月一日、月曜日。遅起きの納月を起こして一緒に顔を洗ったり着替えたりしたあと食事を済ませて出勤するのが慣例の朝、納月がテーブル席についたまま母から借りた携帯端末で何やら検索していた。納月の仕事鞄を用意した子欄は、自分の仕事鞄とともに肩に掛けつつ納月の隣についた。

「朝から何を調べてるんですか」

「ああ、ちっとばかしアホになったのかもです」

「アホ、ですか」

 画面に書かれているのは、「〔ブラックホールとは〕……それが、アホなんですか」

「検索かけたことが、なんですけどね」

 そう言った納月が父を一瞥したから、

「もしかして、お父様の妄言ですか」

「っふふ、失礼な娘だこと」

 とは、父本人の言葉。テーブルの付着物と化している父の言葉をまともに聞く必要はない。

 母に携帯端末を返した納月と出勤する道すがら、子欄は事情を聞いた。

「──なるほど、ブラックホールが不治の病の治療に活かせるかも知れない、と」

 不治の病と称せられている病は、ほかでもない父が患う危険性の高い病である。人間の世界では魔力(まりょく)漏出症(ろうしゅつしょう)ともいわれており、根治されたことのないものゆえに不治の病で通っている。人間が認識できない「魂」という器官に由来する病であるから魂を認識できる存在のあいだでは魂器(こんき)過負荷(かふか)(しょう)という名称で呼ばれているらしい。なお、魂の存在を認識していない治癒魔法研究者たる子欄や納月に取っても魂器過負荷症は眉唾な部分があるので公には用いていないが、頭でっかちな子欄と違って納月は治療法を見つけるため柔軟に考えており、それがブラックホールの情報を検索した動機であった。

「正確には、着想の種とか置き換えるものとか比喩とかだと思います」

「そういえば昨日、お父様がブラックホール云云いっていたような気がします。お姉様はあれをアドバイスとして聞いたわけですね」

「魂を認識する必要がある・ないの話をしたときのことですから、ひょっとしたら、とね」

 魔力漏出症あるいは魂器過負荷症、いずれにせよ()()であり、厳密には病気とは異なる。根本的な原因が、魂を認識できる存在のあいだでもじつは判明していないことが魂器過負荷()などとしないことから判明しているといえるだろう。多くの病気で吐き気や目眩、頭痛などの症状が顕在化することからもそれは明白だ。魔力漏出症と魂器過負荷症は魂を認識し症状が起きている箇所についてより正確に認識できたかどうかの違いであって、それを顕在化させる病根を捉えた呼称ではないのだ。それを理解した上で、魔力漏出症の病根を捉えた治療法すなわち原因療法を開発することを夢見て治癒魔法研究所に就職した子欄達に取って、人生における目標達成がブラックホールにより初めてちらついていた。大きな進歩に繫がるかも知れないアドバイスを父が伏せていた意図は、今はあえて無視しておく。

「情報収集を急ぎたいですね」

「すみませんけど子欄さん、先に調べてくれます。仕事中は動けないんで」

「任せてください」

 臨床部に異動した納月がブラックホールについて調べていては職務に反する。もともと配属されていた既存部の仕事まで時折回されている納月に目くじらを立てる人間はそれほどいないだろうが、角を立てないように立ち回ったほうが何かとうまくゆく。

 治癒魔法研究所に到着すると、臨床部の納月を見送って、子欄は既存部研究室に入った。自分のデスクに鞄を置いた子欄は、誰より先に来て仕事をしている既存部部長水口(みずぐち)誠治(せいじ)に声を掛けた。魔力漏出症の原因療法開発のため力を貸してくれて、既存部内でなら同治療法の開発・研究をしていいように計らってくれた人物であるから、ブラックホールについても話しておくことにした。

「──君のお父様が、そんなヒントを」

「父の発言をむやみに信じることはできませんが、姉の判断は信じたく思っています」

「で、わたしに思い当たる節はないか、と、いう話だったが残念ながら門外漢だ」

 パソコン画面に向かった水口誠治がタッチタイピング、「いろいろあるようだな」と、ブラックホールに関するインターネット記事の一覧を流し見した。

「お姉様は〔ブラックホールとは〕と書かれたサイトを観ていました」

「ありふれていそうなタイトルだが……なるほど」

 阿吽の呼吸といえばそうであろう、納月が見ていたサイトに水口誠治がアクセスし、子欄に確認する。

「三〇三八年四月一〇日の記事のようだが、ここか」

「はい、たぶんそれです」

 画面が大きいので携帯端末では見えなかった画面下方の画像に子欄は目が行った。「その赤黒い球のようなものはなんでしょうね」

「説明文によれば、これがブラックホールのようだな」

「ブラックホール……それがですか」

 文字通り赤黒い球のようであって、「思っていたものとは印象が違いますね……」

「少し待っていろ、掲載文章を嚙み砕く」

 水口誠治が画像脇の文章を黙読して、「この画像は較正(こうせい)画像のようだ」

「作り物ということですか」

「複数の画像を照らしてぶれを修正し、限りなく実像に近づけた画像とでもいおうか。さて、どこから説明するか……」

 水口誠治が少し考えて、文章を遡った。「うむ、ブラックホールの説明から入ろう。像を捉えられない、つまり、目に見えない天体ということが広く知られている。それというのも一定の距離に入ったものを吸い寄せて外に出さない性質を持っているからであり、光もその性質を受けるからだそうだ。しかし、ブラックホールの近くを旋回するようにして外に出ていく光も存在しており、その光が人類の望遠鏡で捉えられた。その光は画像の中でいうと、ここ、リング状に明るい部分のようだ」

 水口誠治が指差した赤色のリングは、ブラックホールから命からがら逃げ出してきた光であるということ。

 一拍置いて、次の説明に入る。

「世界じゅうにある八つの望遠鏡を同期させて、人間でいうところの視力三〇〇万に相当する解像度を得て、この較正画像が撮影された。要するに、数えきれないほどの画像を撮影して、光の粒子が飛んできた部分を重ね合わせることでリング状の光を見やすくしたのがこの画像ということだろう」

「……素朴な疑問なんですが、結局、その画像のどこがブラックホールなんでしょうね」

「簡単にいえば、リングの内側にある黒い部分のさらに奥、と、いうことになるようだな」

 複雑だ。

「素人のわたしが思うに、ブラックホールの像というよりはブラックホールに程近い空間を彷徨ってたまたま望遠鏡に飛び込んできた光の分布を落とし込んだ像というべきではないか」

 素人考えのせいでもっと複雑になってしまって、子欄は首を傾げるのみであった。

 問題は、これが魔力漏出症の原因療法とどう繫がるのか、だ。

「これはいったいなんのヒントになると思いますか」

「全く判らない」

「ですよね……」

 天文学的知識と不治の病だ。そもそも関係があるとは思えない分野であるから、共通点さえ見出せなかった。

 納月なら何か判るだろうか。ブラックホールに関する文献を読んだ子欄は、仕事を終えた帰途、納月に情報を共有した。ブラックホールから逃げてきたのでもないのに赤い光が眩しいので並んで日傘を指している。光を遮って影ができた空間だけは日向より涼しい。あの画像に置き換えるなら、この影の中にブラックホールがあるといえるのだろうか、と、水口誠治のような素人考えを捗らせた子欄は確証のないその考えを打ち捨てた。

「──ふーむ、逃げ延びた光を捉えることで約二年前、人類初のブラックホール観測ができたということですか」

 正式にはブラックホールシャドウといわれるその天体観測較正画像をプリントアウトしてもらったので、子欄はそれを納月に渡して話している。

「お姉様、それ、何かのヒントになってますか」

「光を吸収してるのも確かなんですよねぇ、ブラックホール」

「ええ、そういう性質がある、と。一種の科学理論によって一〇〇年も前に判っていたことのようですね」

「都会に飛び出して就職したのが運悪くブラック企業で逃げられはしたけど警察に捕まって犯罪者として見下ろされてしまっているような気分、でしょうかねぇ」

「光を擬人化したらそんなふうに捉えられますね。お姉様……優しいですね」

「ある種の生き証人扱いですから、ほとんどモルモットです。できることならもとの世界に還してあげたいでしょう」

「まさしく光速度の人生ですから、光自体は存外故郷を気にしてないかも知れませんが」

「NOぅっ!せっかく酔狂な話をしてるんですから夢がないと」

「酔狂の自覚はあったんですね……」

 納月が漫才めいた喋りを挟むのはいつものことだが、不治の病について子欄は真剣だ。

「日傘がないと見づらいですね、この色は。お父様の病根は……もっと見えません」

「ええ、そうです。だからこそ、ブラックホールだと思います」

「……あ」

「気づきました」

「……遅蒔きながら」

 納月が気づいていたことを、子欄は口にする。「ブラックホールは、魂なんですね」

「ええ、恐らく。わたしの喩えは放り捨ててお父様の言葉を解しましょう。いくつもの望遠鏡でブラックホールを撮影したいみたいに普通は捉えられない魂を認識する方法がある、と、お父様は教えてくれたんだと思います、たぶん」

「ブラックホールが魂なら、ブラックホールシャドウを捉えるために必要だった光に相当するものを捕捉できれば間接的に魂を認識できるということになります」

「子欄さんに問題です」

「なんでしょう」

「ブラックホールが吸収し、逃がしているのは光。これに似た性質が魂にもある、と、いう話を今していましたね。では、魂が吸収したり逃がしたりしているものはなんでしょう」

「魔力ですね」

「正解です」

「光に相当するものは魔力。……確かに、ブラックホールがアドバイスになってますね」

 魔法学会は学術的事実を基に世界を認識している。魔法技術によって認識できない魂は、理論上は「存在しない」というのが常識である。しかし魂は、個個の魔力を収める器官として実在しており、昔も今もヒトの体の中で機能し続けている。その魂を直接的に認識できないから魔力漏出症の原因療法に漕ぎつけられなかったのがこれまでの常識であった。子欄は納月とともに、その常識を覆すヒントを得た。

「ブラックホールみたく魂が魔力を吸っていることは間違いないわけですから、魂の位置を割り出すことは可能でしょうねぇ」

「リアルタイムでお父様の魔力の流れを探知すれば魂の位置を概ね把握できる。と、なれば、肝心なのはそのあとですね……」

 魔力漏出症の致命的な症状は、体内から魔力が漏れ出すことによって生ずる熱傷だとする文献がある。熱傷を治したところで、魔力の漏出を抑えられないと焼け石に水。魂の位置を正確に割り出し、魂ひいては体内から魔力が漏れ出さないようにする治療が必要になる、と、子欄と納月は昨日話したばかりだった。

「魂も体の一部、と、いうなら、細胞みたく再生機能がありそうなもんですよねぇ」

「魔力漏出によって穴が広がって再生しきれないことが病根であり、穴が拡大していくことで魔力漏出が加速して熱傷が重度化して致命傷になる、とか」

「その線はありそうですねぇ」

 いつもはボケも嚙ます納月が、真剣だった。「魔力漏出を抑えつつ熱傷を治癒。その間にも魔力の漏出箇所から魂の位置を割り出し、穴を塞ぐようにして再生させる。と、いうのが最善の治療、原因療法ということになりそうです」

「……やっと、治療の流れが見えてきましたね」

「まだ不完全な理論の段階ですけどね」

「魂に再生機能があるかどうかも判ってないからですね」

「そういうことです」

 例えば、擦り傷や切傷を負った指であれば、流水で綺麗に洗ったあと湿潤を保たせるためホワイトペトロリウムを塗ったラップで巻いておき、定期的にこれを取り替えることで治癒を促進することができる。魂に再生機能があるなら同じような手法が通用する。

 現段階で想定できる治療の流れを、納月とともに改めて確認する。

「雑菌とはいわないにしても、熱傷を発生させる魔力漏出を抑え込むのは大前提で。それをしたあとは、恐らくその時点で負っているであろう熱傷を治療。最後に、魂の穴の再生を終えれば、治療完了です」

「魂は体内にありますから衛生環境を流水で保つことは不可能ですね。穴あるいは傷口を綺麗にする流水に替わるものは、やはり治癒魔法でしょうか」

「ですね。ついでに、水属性が最適でしょう」

 水属性魔力を用いた治癒魔法は保全の性質を有するため、その環境に取っての本来の状態に戻して維持することができる。その性質から、主に熱傷の治療にも用いられるが、本来穴が空いていないであろうことから魂の穴を塞ぐことにも力を発揮してくれると見込める。衛生環境を保ちつつ治療できるなら、水属性治癒魔法一択ともいえる。

 と、前向きな意見はいくらでも出せる。ネガティブ思考というわけでもないが、確立されていない原因療法に挑むのだから悪い状況も想定しておくべきだ。

「魂は魔力の出し入れをする器官ですから、もとから口や蓋があって適宜開閉しており、開くこと自体は異常ではなく、魔力が溢れて閉じられない状態も異常とはいいきれない。と、するなら、魔力漏出も自然のことといえますから保全治癒では漏出状態が維持されるだけ……。そのような場合はどうしましょう」

「寝ます」

「治療断念、ですね」

「わたし達が構築しようとしてるのは治せることまたは延命できることが前提のご都合主義理論ですからねぇ。大前提が覆れば、何もできません」

「……」

 治せることと延命できること。その二つにしても大きな隔たりがある。治せるというのは病根を取り除けることを示すが、延命できるというのは病根を取り除けないながら放置するよりは症状を和らげられることを示す。端的に纏めるなら、原因療法と対症療法だ。どちらも手が施せるという点で最悪の状況ではなく、どちらかができるという大前提が覆ればまさしく最悪で、治癒魔法ではどうにもならない。子欄も納月も父をむざむざ見殺しにすることになってしまう。言うまでもないが、魔法学的に認識されていない魂というファンタジな器官に外科手術が及ぶはずもなく、魔法による治療しか選択肢はない。

「闇属性の、堕落(だらく)治癒(ちゆ)についても調べてます」

 と、納月が尋ねた。「そっちは子欄さん任せになりますけど、活用できる場面はあるかも知れません」

 治癒魔法にはいくつかの種類があり、用いる魔力の属性によって性質が大きく変わる。堕落治癒というのは、子欄が生来宿している闇属性魔力の性質から生ずる治癒魔法であり、その効果は亢進した神経や暴走した免疫機能を抑制する、と、いうものである。

「異常抑制の性質を用いれば、漏れ出した魔力の流れを緩和することはできそうです」

「実験は」

「さすがに臨床試験はできてませんが、それらしい経験はあります。お姉様が魔力の溜り場を正常化するきっかけになった出来事です」

「囚われし者が抗い運命を狂わせてゆく……、みたいなアレですね」

「映画の宣伝文みたいですね」

「冗談を交えて愉しいだけの記憶に差し替えておきたいですねぇ」

 闇の精霊結晶が暴走するようにして垂れ流した闇属性魔力によって植物が悪影響に曝された学園での一件だ。別館の地下で闇の精霊結晶と相対した納月と魔法研究部・魔導研究部一同が命の危険に曝されたことを子欄は聞いたが、その頃、敷地内の地上にいた子欄自身もある現象と相対していた。

「あの日、地下から漏れ出てきた闇属性魔力をわたしの闇属性魔力で押しとどめたんです」

「へぇ、そんなことが。初耳です」

「話す機会がなかったので。本題ですが、精霊のあの魔力を押しとどめた要領で体外へ漏れた魔力の流れを抑制することは可能だと思います。精霊騒ぎの個体魔力流動とお父様の漏出魔力流動は同じ魔力流動。異なる部分が理論上ほぼありませんから対処法も通用すべきです」

「無意識に漏れ出すこと。魔力の溜り場を形成すると周辺環境を破壊すること。この二点が同じですけど、違う点は」

「感情的か否か、です」

 闇の精霊の魔力は激した感情によって無意識に漏れており、闇の精霊によって意図した操作が可能だった。対して、魔力漏出症で漏れる魔力は患者本人ではどうしようもないからこそ熱傷を止められず致命傷を負ってしまう。

「違う点は好要素だと考えます。不確定かつ爆発的で未知数の感情が作用し得る意図して操ることのできる魔力、それを抑え込めた。ただただ漏れる魔力が相手なら単純な力比べ。技術を磨けば抑えようはいくらでもあります」

 子欄の魔力で漏出魔力の流れを緩和しつつ止める。初期段階で止めるに至らないとしても、緩衝材となる魔力の密度を高めて幅と厚みを持たせればどんな流動もやがて止まる。ただし、どれだけ増強が必要かは不明であるから日頃から技術を磨いておく必要がある。

「その辺りは勤勉な子欄さんなら問題ないでしょう。任せますよ」

「はい。魔力の溜り場が形成されたらそちらは環境保全治癒魔法すなわち水属性治癒魔法で対処。場合によってはこれらを魂の穴に対する治癒魔法と併行することになると思います」

「やること多いですねぇ……ま、当然ですかね、だからこそ前例がないんでしょう」

 複雑で困難なことほど前例を作りにくい。子欄と納月は前例を作らなくてはならない。失敗ではなく成功の前例を。

 魂に再生機能があるかどうか。懸念はその一点に絞られたと言える。

 帰宅した子欄と納月はお湯をいただき、家族揃っての食卓についた。そこで、魂に関する知識を有する両親から話を聞くことにした。

 納月が現状の研究成果と治療の流れを伝えて、肝心の魂の性質について両親に訊く。

「魂に再生機能があれば理論は完璧!ニートも真青なヒモっぷりのお父様でも安心・安全の無償治療ですよぉ」

画餅(がべい)とはいわんが、それを知っとるなら俺もお母様もとっくに治療に掛かったやろうよ」

 と、父が鼻で笑ったので、子欄は母を窺う。

「お父様はこう言ってますが、お母様の意見はどうですか」

「魂に魂自体の再生機能があるかは知りません。オト様から伺ったことがあるのは肉体の再生を促す機能でした」

 そこで左手に座る四女が口を開いた。

「魂に関して、お父さんはお母さん以上の知識があるみたいだけど本当に何も知らないの」

「お母さんの言う通り魂が持っとるのは肉体の再生を促す機能であって、魂自体の再生とは全くの別物(べつもん)。いくら元天才でも知らんもんは知らん」

 父の語り口を子欄は疑う。

「自分で天才を名乗っては疑わしいですね」

「名乗った憶えはないし、無理な要求をされた側の苦しみを他人の評価を引用して解りやすく伝えたに過ぎん」

「苦しみは感じませんでしたが」

「感ずる気のない奴は一生感ぜられんやろうよ」

 煙に巻かれた感がなくはないが、父の感覚について子欄は無神経だった。

「……申し訳ありません。言いすぎました」

「間違いを正せたからもっと成長できるね」

 とは、ずっとやり取りを聞いていた音羅が言った。「しーちゃん、それになっちゃんも、すごく勉強しているんだね。感心しちゃった」

「治癒魔法が専門ですからねぇ、お父様の病に関しては恐らく世界で最先端ですよぅ」

 と、納月が胸を張る横で、子欄は浮つけない。

「理論が不完全です。魂に再生機能があることを願うしかないとは……」

「体の構造が突然変わるわけじゃなし、必要以上に悪く捉える必要はないですよ。ついでに、やってみなけりゃ判らないことのほうが多い。それが証明されてない魂に由来したものとなればなおさら。症例の少なさからいってもこれは仕方ないことですよぅ」

 父の前に臨床試験を行う機会はまずあり得ない。父以外に魔力漏出症を発症している患者はいないし、患者を見つけたとしても臨床試験に協力してもらえるか判らない。そもそも、法律や手順の問題からすると、開発を認められた魔法でしか試験させてもらえない。今すぐ父の魔力漏出症に対処するとしたら違法性を問われる危険性もあるにはある。

「……そうです、思えば、法的な問題もクリアしないといけませんね」

「法的な問題って」

 と、音羅が両親を窺う。「パパの病を治したらいけない、って、ことかな」

「そうは言わんが、対魔物戦闘用の攻撃魔法なんかと違って人間相手に使うのが前提の治癒魔法は安全性が大事なんよ。研究目的に怪我させたりした場合、攻撃魔法で起こした傷害事件より悪質に捉えられることもあるかもね」

「治癒魔法なのに怪我を負わせちゃうことがあるんだね……」

「お前さんも経験があるやろ。俺にやってくれたアレだ」

「あ」

 音羅は父に対して炎の魔法で治療を行ったことがあった。そのときは父の腹部に含水異常があり、肺が圧迫されて呼吸が難しくなっていたため余分な水を炎で炙ることで蒸発させたのだった。母の指導や音羅の炎のコントロールが絶妙だったので父は一命を取り留めたが、炎の扱いを一つ間違えばひどい熱傷を負わせていたことだろう。

「あのときパパに火傷を負わせたりしていたら、わたし、捕まっていたってこと!」

「それはございません」

 と、母が微笑む。「私の監督下で行った治療は全て合法です」

「お母様がまさかの強権発言っ」

「納月お姉様、強権というのは国家が国民に強いたりするものですから意味が違いますよ」

「そんな細かいことはどうでもいいんですよ子欄さん。お母様、さっきのどういう意味か説明してもらえますかね」

「それはわたしも興味があります」

 と、子欄は納月に乗っかった。「研究職とはいえ、治癒魔法に携わる者としてわたしは不勉強を否めません」

「研究職側では所長など一部責任者が存じていれば十分です」

「そうなんですね。監督下と言いましたが、お母様は治癒魔法に関する特権でも持ってるんですか」

「治癒・攻撃・補助を問わず一定の魔法使用が是認されます。私の持つ上級魔術師の資格による権限です」

「そうでした、お母様は魔術師資格を持っているんでしたね」

 魔術師はその階級に応じて魔法に関する一定の権限を有するらしい。「お母様の権限について教えてもらえますか」

「簡単に説明しましょう。まず、ほとんどの上級魔術師は豊富な実戦・研究経験をつんでおり国境を跨いで活動する者も多く、外敵討伐部隊を指揮して魔物などと集団戦闘を行うこともございます。その部隊で主力となるのは一般人の非魔術師、いわゆる術者です。術者に自由な魔法使用権はございませんが部隊を統率する上級魔術師には権限があるので──」

「なるほど、上級魔術師が魔法の使用を認めることで部隊全体が自由に動けるんですね」

「そういうことです。一定条件下においてこの権限は各国の法律に縛られないため、大規模作戦を行う際は不可欠でしょう」

 平時魔法使用が認められない人材が国の法律に縛られることなく安心して外敵と戦うために上級魔術師の権限は必須といえる。外敵討伐作戦に参加して魔法を使うたび罪に問われていてはたださえ危険な仕事なのに誰もやりたがらなくなってしまう、と、いう問題もあるようだ。

 ……そういえば。

 と、子欄は過去の父の指導を思い出す。魔法技術で形作った弓矢を扱ったもので、この安アパート〈サンプルテ〉の屋上に上がった父が矢を放ち、たまたまやってきたというミサイルを見事に射た。

「子欄、どうかしたん」

魔弓(まきゅう)の実演をしてくれたときのこと、思えばおかしな話だったな、と、振り返ってました」

「ああ、あれね」

「お父様も上級魔術師の資格を持っているんですね。だから罪に問われず、今もこうしてテーブルにくっついてます」

「あのときには既に持ってなかったが」

「……え」

「やから、あれは罪に問われかねんことやったんよ」

「……」

 気が遠退くようだったが、子欄は母にも確認しておく。「お父様はこう言ってますが、お母様はどう思いますか」

「オト様についてはかつてかなり調べましたので、現在公に上級魔術師の階級にあられないことは間違いございません」

「そんな……」

 復帰しかけた気が、また遠退きかけた。魔弓によるミサイル撃墜は序の口。父がその後にやった町中での魔法使用は国民のほとんどが知るところだろう。問われれば余罪多し(!)

「お、お父様、いきなり捕まったりしませんよね……!」

「まあ問題ないでしょう」

「納月お姉様なんでそんなに冷静なんですか!魔物を倒すためとはいえお父様が攻撃魔法を使った証拠映像は探せばいくらでも出てきてしまいます!」

「子欄さん、落ちついてぇ。揺らされると味噌汁ぶっ零しますぅ」

「も、申し訳ありません……」

 町の至るところに現れた魔物を父が一人で対処したことがあった。当時には映像を残せる携帯端末が普及しており、その様子を誰一人撮影していないなんてことはなかっただろうから、子欄はどうしても血の気が引いてしまう。

「子欄さん、よく考えてみてくださいよ。あれからもう一三年ですし、当時の異常事態からして魔法使用は超法規的に見逃されてた可能性が高いです」

「あ……」

「それにですよ、お父様は何千万という国民を救った英雄も同然です。逮捕されたら国民の大半は警察の職務怠慢を叩く流れになって、ぽっと出の英雄を容認しかねた不正な弾圧と捉えられれば政府への批判にも飛火しかねません」

「お父様の逮捕は政治判断で見送られた、と」

「お母様もそう思うでしょう」

「その流れはあり得たことでしょうね」

 と、母が認めて、訂正する。「当時のオト様のご協力は広域警察に予め伝えていたことですから罪に問われることはございません」

「法律を含めて振り返るとより一層に歴史の裏を知った気分になりますね……」

 ほっとさせられる事実だったのでよかった。

 随分と遠回りしたが本題である。

「お母様がいれば法的問題がクリアされ、お父様の治療ができる。そういうことで間違いないですか」

「はい。魔法理論は完璧であるべきですが、魔力漏出症に関しては完璧はおよそ不可能ですから、安全に魔法が機能するかどうか私が確認しながら治療に当たるのが最善でしょう」

「お母様、そのときが来たらよろしくお願いします」

「お母様、わたしからもよろしくお願いします」

 子欄に次いで納月が頭を下げた。

 

 父を助けるため、考えられることは全て考えていた。母の監督下であれば法に触れることなく魔法による治療が可能と判って、残りの問題は魂に魂自体の再生機能があるかどうか、その一点にやはり絞られていた。

 救えること前提で魔法を構築してきた子欄と納月に取っては考えたくもないことだが、助けられないことも想定した対処も考えた。熱傷による死を、どう対処すればより苦しまずに済むか──。治療する前から気が落ち込みそうだった。

 

 思わぬ形で治療に当たることになる三〇四〇年一一月八日を三日後に控えた金曜日──、子欄と納月は研究所から帰宅後、父に提案した。父のために研究・構築した創作治癒魔法を、父で試験させてほしい、と。父が魔力漏出症を発症していないか診察する意図もあったが、治療を受ける者が同じであれば試験データが本番でそのまま活かせ、さらには不明な点が多い魂の位置や再生能力についても判ることがあるかも知れなかった。

 それらの意図や課題、データの実用性を聞いた父が快諾してくれて、子欄は納月とともに創作治癒魔法の試験をすることが決まった。段取りは過日行った通りで、ざっくりと説明するなら、母の監督下で創作治癒魔法を発動する、と、いう流れだ。

 洗い物を終えた母が寝室に合流すると、音羅が見守る中、子欄と納月は協力、布団に横たわった父に魔力による診察を開始しようとしたが、

「『っ──!』」

 揃って、両手を弾かれた。魔法の性質上、体内に働きかけるためには父の体に触れているか極めて近くに手を翳しておく必要があった。ところが、父の体に触れるかなり前の段階で、子欄も納月も両手を弾かれてしまったのである。

「こ、これが……お父しゃまの魔力でしか──」

 と、納月が思わず幼い口調に戻るのも無理はなかった。

「なんて強力なんですか……魔力を体内に流そうとした瞬間に骨が折れたような……!」

 子欄は宙で手首を固定して、なんとか痛みに堪える。「わたしとお姉様の魔力では、お父様の体に治癒魔法を施す以前の問題ということですか……!」

 父が上体を起こして、子欄と納月の手首をするりと撫でると、

「『あ──』」

 痛みが一瞬で消えた。

「骨、折れとったな。体内で治癒魔法を発動するには体内に魔力を流すしかないが、そのためにはまず、体内にある俺の魔力を搔き分けるように進む必要がある。その先、患部で正確な魔力凝集を行う必要もある」

 患部と思しき魂の位置が全く判らなかった。それどころか、父の魔力であろう分厚い壁のようなものに撥ね退けられた感覚だけが、痛みの記憶とともに刻み込まれた。

「お、お姉様……」

「……ちっと、これは、マジで……骨が折れますね……」

 実際に折れていたのだから、洒落にならなかった。

「試験は失敗やな」

 と、父が無慈悲に纏めた。「まあ、こんなもんやろ。想定内だ」

「想定内って。そんなこと言わないでください……!」

「いや、想定内というより推測通りやったからな」

「では、これを理由にわたし達の手が及ばないことを最初から──」

「子欄は俺に似てマイナス思考やな。そうとまでは言ってないよ」

 父が微笑み、子欄と納月を両腕でそっと抱き寄せた。「ありがとね。俺は、今の試験でもって期待できたんよ」

「どうして期待なんて……。わたしもお姉様も、全然、力が及んでません!」

 叫ぶようにして抱きついた子欄を、父が同じくらいの力で包んだ。

「免疫機能が高い状態の体が病原微生物を退治するようなもんやよ。今は正常な状態やから、俺の体の中に魔力を流すこともままならんかったが、魔力漏出が発生して体内の魔力バランスが崩れとるときなら簡単に魔力を流し込める」

「それも理論ではありませんか。わたし達も理論上は可能なことを試したんですよ」

「お前さん達の理論とお前さん達の理論限界を想定できた俺の理屈、どっちが上やろうね」

「……」

「ぶっつけでもいいんよ。どの道、助かる見込みなんかなかった病なんやから。その意味、解るかね」

 想定していなかった生存可能性を、子欄や納月の創作治癒魔法に見出せた。だから、期待できた、と、父は言ってくれた。

「お父様……」

「嬉し泣き」

「……はい」

 期待の意味を知ったからには、「絶対……絶対に、助けますから……!」

「そのときは、わたしもやってやりますよぅ」

 と、納月が父とともに背中を抱き締めてくれたから、子欄は、感情を鎮めることができた。発症まで何もできないつらさと大きな不安があっても、みんなが一緒なら父を助けられる。

 

 そう考えていた。

 父の理屈は飽くまで理屈であり同時に極めて理想的な想定だったことを、三〇四〇年一一月八日月曜日、子欄達家族は思い知ることになった。魔力漏出症、人間の把握しきれない病根の脅威は、音羅の負った傷とともに家族全員の胸に刻まれて一生消えないものとなった。幸いにも父は生存したがそれを前向きに悦ぶことは躊躇われる経緯に後悔が尽きず、両親と音羅以外がサンプルテを離れることを決断するに至った。

 

 子欄は、同じ研究所で働く納月とともに〈オータムパレス〉なる一般的なマンションに引っ越す運びとなり、それに際して納月と色違いで同型の携帯端末を契約して、最低限の連絡先を登録した。

 ことさら所有物を増やした感覚がない十数年間だったが、引っ越すとなったら積めるほどの段ボール箱ができた。治癒魔法研究のために集めた参考書や治癒魔術師の著書、魔法書の類が大半を占めたが、自身の日記もかなりの数があって、引越しを機に廃棄することも考えないではなかったが、どこかもったいなくて新たな住い(すま  )の片隅に並べた。

「『……』」

 父や音羅が口を開けば明るくツッコんだりボケたりするのが納月であった。が、治療失敗で気持が乱れて落ち込みがちだ。自分から話さないタイプの子欄としては無駄口が減って助かる部分もあるが納月の口数が減りすぎて調子が上がらない部分もあった。そこで子欄は、水口誠治に会いに行くよう納月を促した。納月と恋人関係のようなものであり創作治癒魔法の研究・開発に力を貸してくれた水口誠治ならきっと励ましてくれると考えたのである。

 納月を見送った子欄は、部屋の段ボール箱の整理を続けた。

「お姉様の分も、少しだけ進めましょうか……」

 納月は片づけが苦手なので、放っておくと段ボールに埋もれる生活になってしまう。軽くて丈夫な段ボールは加工がしやすく緊急時のベッドや机、仕切りなどに使えて便利だが、放置すると保温・吸湿効果の影響で害虫の温床になるので、使わないならきちんと資源回収してもらうのがいい。

「よし……お姉様が帰ってきたら驚くくらい、──ん」

 納月の荷物を入れた段ボール箱を開こうとした矢先、母を真似て設定した携帯端末の音楽が鳴り出した。高音域が続くクラシック音楽は、電話に設定したものだ。

「誰ですか〜、と……」

 画面を見るまでもなく、納月か母しかおるまい。研究所には明日にも電話番号を教えるつもりであるが、子欄の連絡先を知っているのは飽くまで家族だけ。と、思われたが、

「……誰です」

 見知らぬ電話番号ならまだよしとしよう。非通知だ。こちらの電話番号が使用されているか調べるための試し電話である可能性や、端末使用者の情報を聞き出そうとしている詐欺集団の手口である可能性、帰宅の瞬間や深夜に続く非通知着信はストーカなどのおそれ、と、ぱっと思いつく限りではいいことがないが、もし知合いの電話だったら出ないのも失礼で。

「お姉様、これはどう対処……って、いないんでした」

 自分で送り出しておいて戻ってきてほしくなった。合唱ありのクラシック音楽は、つい乗ってしまいそうなところまで流れている。

「……放置したら切れるかと思いましたが、もしかして、お姉様か誰かが非通知設定して掛けてきている、とか」

 長女であれば間違ってそうしてしまった可能性、次女であればまさしくいたずらである可能性、四女であれば何かの実験である可能性、五女であれば勉強を教えてほしいとか──、などと考えているあいだも鳴りやまないクラシック音楽である。

「……仕方ありませんね」

 子欄は受電した。「もし、もし、詐欺なら訴えます。いたずらなら逆探知します」

「……」

「どちらさまですか」

「……」

 電話口の空気を感ずる。よくありそうないたずら電話の息遣いとかではなく、車両の走行音だとか電話を掛けてきている本人以外の話し声だとか町を飛び交う雑多な音だ。

 電話を掛けてきている人間が話さないのでは、時間の無駄である。

「切ります」

「待ってください」

「っ──!」

「話を、しませんか」

 反応を求めた立場で相手が反応したことに驚くのは変だったかも知れない。けれども、驚かないのは無理だった。その澄んだ男性の声に、子欄は憶えがあったのである。しかしながら冷静に対処する。詐欺ではない、とは、言いきれない。

「──名乗ってください」

「第三田創で一年後輩でした、引分(ひきわけ)史織(しおり)です」

 確かに、その後輩は存在した。一三年経った今、声を聞くことになるとは──。

「……今、どこにいますか」

「マンションの前にいます」

「……誰の」

「オータムパレスです」

「……」

 鎌かも知れない。子欄は、なるべく反応すまいと考えていたが、

「三〇六号室。子欄さんは今、そこにいるんですよね」

 ……明らかに、こちらの情報を持っている。鎌を掛けるにしても、小出しのほうがいい。

 非通知の彼は明らかに作戦的でない。なんの飾り気もなく、昔の彼のようで──。

「会えませんか」

 と、彼は言った。「会いたいんです、最後の日のことを憶えていてくれたなら……」

「……──」

 大切な将来が果たされることを願いながら現実を受け入れた日。一年も経てば、つらくてたまらなくなったあの日。願った将来が、ようやく果たされたのかも知れない。子欄はそう思った。彼の電話がその確信を与えている。そう思った。

 人生を懸けた治癒魔法研究の結果を目の当りにしたこのときの子欄は、納月と同じように心が弱っていたとしか言いようがない。非通知の電話を握りしめたまま家を飛び出し、納月が使ったのだろう一階で停まったままのエレベータがまどろっこしくて、階段を駆け下りてマンションの表に急いだ。

 永住を促すような温かい色合の正面玄関。そこに、ほかの何より目に留まる影があった。

「引分さん──」

「……」

 口を閉じたままの彼を見つけただけで高揚して、子欄は力が抜けそうだった。

 

 

 

──始章 終──

 

 

 

 

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