そしてひかるきみはいなくなった
「なあなあ、Z教授のゼミにいた六条さん。覚えてねえ? 院生の、すっげぇミステリアスな雰囲気の、ストレートロングの黒髪美人」
隣に座った元ゼミ仲間の酔って声高になったそのひとことは、俺の意識を瞬時にあの夏の日へスライドさせた。
◇ ◇ ◇
あれは、とても蒸し暑い日の午後だった。
定期試験も終わり、大学生の長い夏休みに突入するちょっとまえ。
俺は友人のヒカルとともに、とある国文学の教授の研究室を訪れた。
ヒカルは俺と同じ高校から同じ大学へ入学した。
博識で気のいい奴で、背も高いし容姿にも恵まれ話術も巧みだった。だからこいつの周りは常に人が溢れ、高校時代から女子に大人気だった。
同じ高校出身とはいえ派手なヒカルと陰キャな俺とは大違いで、専攻の違いもあってそのときは昔ほど一緒につるんでいなかった。
けれどその日は、ヒカルにむりやり付き合わされてZ教授の研究室を訪れた。
どうやら直接レポートを提出しなければいけなかったらしいのだが、そんなことに俺をつき合わせるのはいかがなものか。女こどもじゃあるまいに付き添いが必要だなんてと鼻で笑ったが、付き合ってしまった俺はお人好しと呼ばれる部類に入るだろう。
Z教授の研究室に、肝心の教授は不在だった。
研究室にいたのは院生の六条アヤカ先輩――胸にネームプレートが付いていた――ひとりだけ。彼女はストレートロングの黒髪に冴え冴えとした印象の美女だった。暑かったでしょうと言って冷たい麦茶をグラスに入れて出してくれた。
どこか冷たい印象の、和服が似合いそうな黒髪の美女。
その美女の気遣い。ありがたい。
俺たちは勧められた簡易椅子に腰を下ろし麦茶をいただいた。
ヒカルが低姿勢で提出したレポートを預かった彼女は、実に厭味ったらしい口調でチクチクとヒカルを責めた。
提出期限は過ぎているとか。
この程度のレポートで教授を煩わすなんていい度胸、だとか。
六条先輩はチラリとレポートの内容に軽く目をとおすと俺たちに尋ねた。
「ねぇ。どう思う? 六条の御息所って生霊になって夕顔の君や葵の上を呪い殺すわよね?」
うん? レポートの主旨はなんだったんだろうと俺は疑問に思った。
源氏物語の、なにかの帖について? なのかなぁと察したのだが。(俺はZ教授の授業を選択していなかったので知らない)
「男性目線で、これってどう思う? 女の怨念は怖いかしら。まぁ怖いっちゃ怖いわよね。生霊にまでなるほどの恨みですもの。でも心変わりする男が悪いじゃない?」
「平安時代の妻問婚では、心変わりもなにもないと思いますがね」
ヒカルがそう答えたとたん、六条先輩の笑顔が消えた。
美女な分、能面みたいな印象になった。
「邪魔になった女がお気に入りの女を呪い殺すって、ヘヴィじゃない? あるいは“次は自分が呪い殺される番だ”って思わないのかな?」
六条先輩の瞳がとても冷たく光った。うつくしいからこそ、妙な寒気が伴った。
彼女が耳当たりのよい声でゆっくりと語る。
「浮気された場合の女の嫉妬は浮気相手の女性へ向き、男の嫉妬は浮気した彼女へ向く傾向が強いって現代の統計学的にも数値化されているけど、わたしはその考えかたって懐疑的なの。
わたしは浮気した男が悪いと思うし、浮気されたその怒りは、浮気した男本人へ向けるのが正当だと思うの。
そういう意味なら、わたしはどちらかといえば男脳なのかもしれないわね。ねぇ。ヒカルくん?」
そのゆっくりとした喋り口調と、一心にヒカルに注がれる視線と。
彼女のうつくしい顔がちっとも笑っていないことと、瞳の奥にちらちらと見える怒り。
さらにこの話題に。
にぶい俺でも理解できた。
ヒカルがむりやり俺をつき合わせた理由。
ひとりでここに来たくなかったんだな?
おまえ、この六条先輩にも手を出してたな? そして今は疎遠なんだな? 一対一で会いたくなかったんだな? たしかに彼女は美女だけど年上じゃん? いや、そういう括りはヒカルには関係ないって知っていたけど!
ものすっごく気まずい空気に俺は身動きどころか生唾を飲み込むことすら躊躇われた。
横目でヒカルを睨めば、気まずそうな表情をしている。
俺を巻き込むんじゃねぇよバカあほマヌケ!
先輩が空気の入れ替えだと言って窓を開けた。
冷房で冷え切った研究室の中に、生暖かい空気が入ってきた。じっとりと湿った空気がモワリと顔にまとわりついてなんだか気持ち悪かった。
「話は変わるけど。あれの題名って覚えてる?」
先輩が笑顔を戻し、気楽な口調になって尋ねてきたのでちょっとホッとする俺。
イヤだよ、男女の修羅場に居合わせるなんて。自分のお人好しのせいだけど!
「題名? なんですか?」
ヒカルも話題が変わったことにホッとしたのか尋ね返した。
「推理小説なんだけど。アガサクリスティーの……結末的には全員が共犯者って奴。なんだったかしらね。題名が思い出せないのよね」
「全員が共犯って……オリエント急行殺人事件、でしたかね」
俺がそう答えるとヒカルも合わせたように頷いた。
「ポアロの出る奴っすね」
そうだったわねありがとうと言って先輩は背を向けた。会話はこれでおしまいという合図であった。
彼女はなにを言いたかったのだろうと俺は考えた。
女の嫉妬が生霊になる話と、女の嫉妬も心変わりした男へ直接向けられるということ。
そして全員が共犯……?
先輩は空気の入れ替え終了と言い、窓を閉めた。
天井につけられているエアコンから冷気がどっと流れこんだ。
寒い。
そろそろ帰りたくなった。
「あぁそうそう。平安の時代ってどうやって男の浮気を知ったのかしらね」
立ち上がろうとした俺に六条先輩が笑顔のまま語りかける。
「自分のもとに通わなくなったからって、それがイコール浮気になるわけじゃないわよね? やっぱりそこには噂を伝播させるだけの媒体……お喋り雀の存在が大きいと思うのよね。側仕えの従者とか侍女が噂して、その噂が噂を伝えて……。人のうわさって怖いわよね?
今の時代ならSNSよね?」
先輩の笑顔が今日イチ、いい笑顔になった。
「気を付けた方がいいわよぉ。今の時代の方がどこに紐づけられた目が監視しているのか、耳がうかがっているか。分かったものじゃないから」
いい笑顔には違いないのに、なぜかとても怖かった。
にぃぃぃっと笑った唇の端が上を向いているのに、うつくしいのに、綺麗なのに。
「あとね?
後輩の女生徒たちが何人も、わたしに相談しに来たの。なんでも? とーーっても辛い目にあったとか。彼女たちの話を聞いてね、学生課にも相談して警察に通報って手段になるってよ?」
血相変えたヒカルは弾かれたように席を立つと、倒けつ転びつしながら研究室を飛びだしていった。
「ヒカル?」
突然の友の行動に目を白黒させる俺に対して先輩は。
クスクスと笑っていた。とても無邪気な少女のように。
そして。
「ヒカルったら。なにか、身に覚えでもあったのかしらね……なんだか顔色も悪かったし……通報されて困るようなことを女の子たちに、してたのかなー」
母性さえも感じさせるような甘い甘い声で、そう呟いた。
俺は知ってる。
ヒカルがどんな人間か、よく知っている。
彼は背も高いし容姿に恵まれ口が上手い。高校時代から女子に大人気だった。博識で気のいい奴ではあったけど、とても女にだらしない男だ。
いつか恨みを買うからやめろとは忠告していたけど、同時に複数の女と付き合える人間性を持った最低な男だってこと。
本人は女の方が俺を放っておかないからな、なんて言っていたが。
だが。
俺が知っている以上の悪さを、あいつはしていたのだろうか。
警察に通報されるような、なにかを?
クスクスと楽しそうに笑っていた先輩が一転、笑いを収めると意思のない人形がそこにいるような印象になった。
長い黒髪の、等身大のうつくしい人形……のような。
その一種異様な雰囲気は、生きている人間なのに生命を感じさせない不気味なものだった。
きれいなのに、ぶきみ。
怖気づいた俺の内心に気がついたのか、彼女は表情を変えないまま日が暮れるまえに帰りなさいと静かに言った。
その後。
六条先輩が言っていた“通報”とやらが行われたのかどうか、俺は知らない。
俺が知っているのは、その日を境にヒカルが失踪したということ。
いつのまにか大学も休学になっていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おーい、聞いてる?」
大学も卒業して十余年。
今日の俺は、大学の同窓会に出席していた。みんな社会に出てそれなりの職について働いている。
二次会はゼミの仲間だった者たちで集まり、酒も進みどうでもいい与太話があちらこちらで囁かれる。
「その六条さんってさ、おとうさんがその筋の人らしいって卒業してから聞いたんだよね俺」
そいつは“その筋”と言いながら自分の頬を人差し指ですーっと縦に切れ目を入れた。
その仕草の意味はつまり……背中にモンモン入れてる系? ヤクザ家さんってことか?
……知らなかった。独特な雰囲気の美女だと記憶していたが、まさかそっち系に関わりのある人だとは。
「中古文専攻の三原ヒカル、覚えてね? あの目立つイケメン。未提出物の催促をしに奴を探して俺らの研究棟にまで来たことあったんだぜ、あのひと」
それも知らんかった。俺はあの日、ヒカルに連れられてZ教授の研究室に行くまでまったくもって知らんかった。
“ヒカル”という名前が出たその場は、そういえばあいつ、どうしてる? という話題になり。
失踪したままの奴の、各々が知っている情報が提供され。
俺も知らなかった事実が言及された。
俺としてはまったくもって本当に寝耳に水だったのだが、ヒカルは。
そうとう女性から憎悪の対象になっていたらしい。
四人の女性と同時に付き合い、さらにほかの女性に乱暴をはたらいていたらしい。
サークルで知り合った他大学の子を酒に酔わせ、前後不覚になったところを襲ったのだとか。それも複数人。
本来なら警察案件だったものが『らしい』止まりになっているのは、明確な被害者がいないからなのだとか。
「いないというより、名乗り出ないというのが正しい」
「二次被害を恐れて口を噤んでしまうケースか」
「だれかひとりぐらい、訴える子がいてもおかしくないんだけど」
「おい。おまえヒカルと同郷じゃなかったか?」
急に話しかけられた俺はドキリとする。
「言っとくが俺は、あいつがそこまで酷いことしてたなんて知らなかったぞ?」
たしかに二股も三股もするような野郎だったけど!
サークル活動で乱暴なんて……。
あれ?
「そういえば……あのころヒカルと同じサークルの子から、あいつの実家の住所聞かれたことがあったな……」
笑顔が可愛かったあの娘は、いまどうしているかなぁ。
「あぁ、そのせいかな。奴の被害を受けた女子大生が大挙して実家に乗り込んだって噂、聞いたことあるぞ」
「どういうこと?」
「当時の俺の彼女が、そういう噂を聞いたって」
あぁ。その噂は正しい。
俺は噂ではない、俺の知る限りの正しい情報をみなに伝える。
「俺、帰省したときにヒカルのお袋さんに話を聞いたんだけどさ。あいつ、失踪するまえに一度実家に帰ってんだよ。その日のうちに女子大生が複数人あいつを訪ねて実家に来たんだって。
で、なんだかながいこと話しこんでたらしいんだけど……女子大生たちが帰ってさ。そのあとで、ヒカルは自分の足で家を出たらしいんだ。スマホも財布も置いたまま。それ以来、家に帰ってないんだ」
ヒカルの家族が奴の交友関係から行方を探ろうとスマホを見たら、初期化されててなんの手掛かりも残されていなかったのだとか。それはパソコンなども同様だったのだとか。
「自首したってわけじゃ……ないよな?」
「してたらニュースになってるだろ」
「覚悟の失踪?」
「行方不明届けとか出されてねーの?」
「出したってお袋さんは言ってた」
「届け出されてても、未成年者じゃないから積極的に探されないよ」
婦女暴行事件があったなんて、地方紙のニュースにもなっていない。
つまり、あいつは自首したわけではない。
健康な成人男性が姿をくらませても、自分の意思で逃亡しているのなら捕まらないだろう。
その後ヒカルがどこへ行ったのか、だれも知らないのはそのせいだ。
だが。
ヒカルは女子学生たちの恨みを買っていた(らしい)。
悪質な手段で婦女暴行をしていた(らしい)。
けれど、だれも警察に訴え出ない(らしい)。
あのとき六条先輩はなんと言っていたか?
『後輩の女生徒が相談に来る』と言っていなかったか?
彼女は知っていたんだ。ヒカルが自分を裏切っていたことを。そして、性犯罪者だったことも。
そして彼女は……ヤクザさんちの関係者……?
ふいに。
彼女のうつくしい顔が能面のように感じた瞬間を思い出した。
被害者たちは泣き寝入りをしたのか。
それとも、法に訴えるのではなく自分たちの手で――。
俺の脳裏に、あのときの六条先輩のやけに明るい声がこだまする。
『結末的には全員が共犯者って奴。なんだったかしらね』
【 fin 】
全国の警察に届けられる年間の行方不明者数は約八万人。
そのうち発見されない行方不明者は約千人。
彼らは人知れずひっそりとどこかで生きているのか、あるいは――。