第八話 恐ろしく甘い夢
――またリアルな夢を見た。しかしそれを現実と思うにはあまりにもいつもの世界からかけ離れていた……。
天蓋からレースを垂らした大きなベッドが見える。豪奢の限りを尽くしており、見るからにただのベッドではない。その周りを囲って天から純白の雨が降り続けているかのように見えるレースには、いたるところに純金の装飾が散りばめられている。深まっていく夜の暗さの中で、揺らめく炎によってちらちらと光って見える様子は、まるで夜明けを待つ無数の星のようだ。
俺は招かれたのだ。だがベッドを前にして恐怖していた。
その上で誰が待っているのかを知っている。それ故に、最後の数歩がまるで捕虜が付ける重りを足首に付けているかのように重かった。
……やっとのことでベッドの前まで来た。甘い香りがあたりいっぱいに立ち込めていた。頭がクラクラするような濃い匂い。レースには”その人”のシルエットがあたりの灯火で暴きだされている。
美しく、生命力に満ちた手が、ゆっくりと俺の方へ差し伸べられた。
一瞬のためらいの後、自分の手をその上に重ねた。そして、俺はベッドの上に誘われた。
シーツの上に座っている間は終始自分に向けられている目を見つめ返すことができなかった。俺の目は、”彼女”を覆っている薄い緋色のショールの上に落ちていた。
互いに言葉はない。音のない時間が二人の間を流れていた。
さっきまで俺を支配していた「恐れ」の一部が、いつのまにか「畏れ」へと変わっていた。だがそれでも”彼女”の前で体を委縮させて固まっていることしか出来なかった。
細かな金属がかち合うささやかな音を聞いた時にはすでに俺は抱かれていた。驚くほど柔らかく豊満な感触だった。背中へまわされる腕、胸を寄せるほどに形が変わっていくのが分かる乳房、一層強くなる香の匂い……俺いま、”初めて”女性というものを感じていた。
俺は”彼女”の柔らかく大きな腕の中で震えていた。
枕に頭を沈めて”彼女”を見上げた。一瞬だが、そこでようやく”彼女”の顔を見ることが出来た。折れ曲がって絡み合った闇のような髪が”彼女”の白い顔に影をつくりながら、俺の顔に向かって垂れ下がってきていた。気づけば、先ほど身に着けていた赤に黄を薄く滲ませたような色のショールは、もう”彼女”の肌を覆ってはいなかった。身に着けているものと言えば、動くたびに気品のある高い音を立てる金の装飾だけだった。首、腰、手首できらめくそれらは、炎の明るさに呼応して、”彼女”の内部から浮かび上がって来ているかのような高貴な輝きを、さらに眩しいものにしていた。女性の秘められた部分を見たことがない俺はいよいよ当惑の度合いを増し、どこを見ていいか分からなくなった。
思わず目を瞑った。
その時、初めて”彼女”は何かを口にした。
俺はその言葉に従った。というより、抗うことができなかった。
薄く目を開けた。
心の平穏が打ち破られるような、誘いこまれるような濃い色気。上から彼の動きを支配している豊穣な腰まわり。柔らかさを帯びながら引き締まっている胴。大胆さと繊細さをもっとも絶妙な割合で融和させた、大ぶりな乳房。そして、俺を見下ろしながら、溢れんばかりの愛情をしたたらせている顔。
俺はその時はじめて目の前の女性が美しいことに気づいた。
放心して眺めていると、”彼女”は笑みを浮かべながら顔をゆっくりと近づけ、俺の頬を撫でた。十代の少女のようにきめ細やかな顔に浮かんでいるのは、まぎれもなく慈悲の笑みだった。
自分に対するこの行為、この感情が、俺にとってとても意外だった。俺は”彼女”を愛の温かさから最も遠い存在だと思っていた。だから、こうして肌を合わせて”彼女”の美しさを認めても、その愛が本物であるのかどうか信じられなかった。
いまにも互いの鼻が触れそうな距離で、二人の瞳は繋がっていた。”彼女”の金のネックレスが胸に触れて、重さが伝わってきた。
大きな瞳を通して力の塊のようなものが流れ込んできているようだ。”彼女”のその目は、そのまま宇宙の闇に通じているのかと思うほど黒が深く、限りない奥行きを感じさせた。
次第に溢れるような熱を体中に感じ始めた。頬も、腕も、脚も、腹も熱い……特にその下は痛みを感じるほど熱を一か所に集めていた。体の中ではマグマのようなものが何度も巡り、その度に天にも昇るような心地よさを感じ、心はふわりと浮かんで”彼女”に融け込んでいきそうに思われた。
しばらく”彼女”は視線を外すことなく俺の体を優しく撫でた。すると、突如”彼女”の中の何かが頂点にまで高まったのか、眉は美しく曲げられて、全身全霊で覆いかぶさるようにして俺の唇にキスをした。
”彼女”と唇を重ねた瞬間、初めて愛の存在を知り、初めて愛とは何かを知った。乾き切った荒野に清い水が流れて潤っていくように、次第に空の心が満たされていく――。




