第五話 新しい目覚め
目覚めた。
見覚えのある天井。
いつもの寝室。
朝日がカーテンから漏れている。
体をゆっくりと起こした。
自分の身に何が起きたのか理解しようとした。
だが頭の中は靄がかかったようにおぼろげだ。その先には、先ほどまで”自分がいたと思っていた世界”がある。目の悪い人が目を細めて見ようとする時のように、過ぎ去った夢の世界を思い出そうとしていた。
『今までのが全て……夢?』
次第に、信じられない気持ちが俺を襲った。まるで失われていた五感が一つひとつ蘇り、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになっていった人間のようだった。その時に味わったのは喜びではなく、「現実だと思っていたもの」を有無を言わさず否定されたことへの、底知れぬ戸惑いだった。
自分の腕に触れた。パジャマの上から、自分の体がいま確かにここにあるということを確かめた。いまいるのは頭の中、想像の世界ではなく、ちゃんと物質として構成された現実の世界だということを確かめた。この存在の”重み”、いまここを認識しているこの感覚……これが現実ではなかったら何が現実だというのか。ではやはり、さっきまでいた世界は夢だったのだ。
覚えているだけさっきまでいた世界のことを遡ってみようと思った。多くは厚い雲のようなものに覆われていてほとんど思い出せない。断片的ないくつかの記憶を取り出してみる。その大きさと深さに圧倒された。どれもが、時間にして優に年単位の厚みがあるのだ。まるで本当の自分の一生を思い起こすように。
子供時代の記憶もある。だがこれは確実に「自分がたどってきた子供時代ではない」と言えるものだ。だからこそ、夢だと思える。
しかし、夢の中だというのに異様なほどの現実味が伴っていた。子供の頃から大人になるまでの期間を経てきたという“実感”がある。
この“実感”に、気持ち悪さすら感じ始めていた。
子供のころ公園でひとりで砂遊びをしていた時の自分、小学生の時に自転車で交通事故を起こした時の自分、中学校の卒業式の時に桜の花びらが舞っている中で面識のない女子生徒に告白された時の自分、そして、高校時代に学校で一番仲が良かった男の子と女の子の三人でトリオを組んで文化祭でコントを披露し、観客席から聞こえる爆笑に心底ほっとした時の自分……。
特に高校生の時に出会ったその二人には強い結びつきを感じていた。知らない土地の、知らない人のはずなのに。おぼろげな記憶の中でも、不思議なほどに彼らとの思い出が際立って残っていた。それなのに、彼らの名前と顔が思い出せない。教室内で談笑しているシーンや、修学旅行に行ったときのシーンなどは思い出せるのだが、二人の顔は切り取られたようにそこだけ空白だった。要となる中央のピースだけが抜け落ちた、未完成のパズルを見ているようだ。
――時間が経つにつれて夢はさらに遠くなっていった。その代わり「現実」が次第に近づいてきた。
『そろそろ準備しなきゃ。仕事に遅れる』
ベッドから起きてスリッパを履き、窓際まで歩いて行った。起き抜けにベランダに出るのが朝の日課だ。
扉に手をかざす。すると、「プシューッ」と空気が一気に抜ける音がした。室内は常に過ごしやすい一定の気温が維持されているので、その温度を保つために換気の場所以外は隙間なく密閉されているのだ。夏や冬は特に本領を発揮して、温度の変化による不快感やストレスなく過ごすことができる。扉は触れずともそのままゆっくり右に動いていった。開くにつれて徐々にせき止められていた初夏の湿気を含んだ温かい空気が勢いよく入り込んできた。朝日を全身に浴びて、少しずつ頭が目覚めてきた。
水色にエメラルドを融かし込んだような空と、眩しく照りつける夏の太陽。この青でもない緑でもない、微妙な空の色が子供の頃から好きで、この世で一番の芸術品だと思っていた。昔からなんでみんなもっと空の色の素晴らしさについて語らないんだろうとさえ思っていた。
ベランダに出て、この空を真上に見上げながら思いっきり伸びをするのが毎朝の日課だ。今朝も街は元気に輝いている。俺はいつもやるようにツタが絡んだ手すりにもたれて遠くを眺めた。
高くそびえるビル群の先で、さらに一層鋭く天を突いているのは、東京のシンボル「ツリー・オブ・ライフ」。この建物は日本でもっとも巨大な建築物だと言われている。遠く離れたこの高層マンションから見ても見上げる高さだ。高さだけでなく、横の大きさも壮大だ。まるで山の裾野のように、下に行くほど「ツリー・オブ・ライフ」の白い肌が地面を覆っている。その裾の広さは数百メートルにも及ぶと言われている。これだけの規模だから、東京だけでなくこの日本においても象徴的な存在感をもつのは当然だった。その形状からして倒壊する可能性はほとんどゼロだろう。
またそれだけでなく、空へ向かって伸びているのと同様に、まるで根っこのように地下にもこの一部が続いているらしい。彼も詳しく知っている訳ではないが、地下深くに根を伸ばしている理由はこの巨大な建物が「この国のエネルギーの拠点」だと言われる所以らしい。というのも、この「ツリー・オブ・ライフ」は地下と大気中の両方からエネルギーの素となるものを吸い上げ、さらに建物表面から得られる太陽光の力を混ぜ合わせて、電気エネルギーを生み出しているという。植物の光合成を科学的に利用して、無尽蔵の電気を国中に送り出している。だから、その名の通り「生命の木」というわけだ。
俺はベランダの数十メートル先にある、夏の日差しを受けていっぱいに生い茂る”本物の”植物の方へ歩み寄った。ここで栽培しているいくつかの野菜や果物に自ら水をあげるのも、朝の習慣の一つだった(水やりもベランダの清掃も全部自動で済ますことができるシステムがこのマンションには備え付けられているのだが、俺はあえて自分でやった)。
このマンションは「空中庭園」のようになっており、高層マンションではあるが一階から最上階まで、広々としたベランダが日の光の下にせり出している。各々の階のいずれにもみずみずしい果物を実らせた木々、青いクッションの様な生垣、麗しく咲き並ぶ花々など、多様な植物が生えており田舎で見られるような自然の光景が、上から下までベランダに並んでいる。こういった光景は東京に限らず他の都市においても何年も前からあったものなので、別にこのマンションだけが特別というわけではない。
植物たちへの水やりを終えて、室内に戻った。スマホで時間を見て十分まだ時間があるのを確認した。軽く自分で朝ご飯を作りながら、今日の撮影シーンを脳内でおさらいした。昨夜、監督から言われた今日のスケジュールはちゃんと覚えていた。まず、朝一発目は高校の貸切校舎での、休み時間のワンシーンだ。(年齢の割には老け顔に見えず俺は自分でもほっとしたのだが)学ランを着て、クラスメートである主人公のセイヤと何人かの友人たちと弁当を食べながら談笑するシーンだ。そこで俺は様々な都市伝説を挙げながら、とある廃墟の中にタイムスリップできる不思議なドアがあるという話をセイヤたちに饒舌に語る。話をもとにセイヤたちはその秘密のドアをくぐり、石器時代にタイムスリップする。その時代に出会った美しい少女と恋に落ち、次第に国の戦に巻き込まれていくというストーリーだ。俺の役は小さいながらも主人公たちを異世界に連れていく重要なキーパーソン的なキャラクターというわけだ。出演している身ながらも『これはおもしろい映画になる』と思っていた。
朝食を終えてコーヒーを飲みながらリラックスしていたところ、携帯にメッセージの通知が来た。マンションのエントランス前に、撮影所へ向かうワゴンが到着したようだ。
まだ夢の余韻のようなものが頭の片隅に残っている。なぜか強く残る、忘れてはいけないことを忘れているような感じ……。俺はその奇妙な感覚を拭おうと、玄関で靴を履きながらシーンを思い出しつつ台本のセリフを呟いた。仕事モードに切り替わったのを確かめて、ドアを開けた。




