第四十五話 アシン
その時、先ほどアンの部屋の中央で見た、金色の巨大な星と蛇のシンボルが脳裏をよぎった。
俺は激しい戦慄に叫びだしそうになった。
ああ! すべてが、そうだったのか!
これまで起きたことの瞬間、瞬間が、頭の中で星の瞬きの速さで駆け巡った。
俳優の役作りのためにネットで調べ物をしている時に、”偶然”、八つに輝く星――八芒星ーーを目にしたのも、その画像の傍らで「古代メソポタミアで広く信仰を集めていた金星の女神、イシュタルを象徴していたシンボル」という一文を目にしたのも、そしてもちろん、赤い空の世界で作業服姿の男の胸にそれを見たのも……!
俺はめまいがした。床の一点を見つめることしかできなかった。
しかし、そんな俺を置き去りにして、再び世界は変わっていた。
場所は相変わらず古代メソポタミアに存在したピラミッドらしき塔の中だ。俺の周囲にあった置物が増え、外から差し込む日差しはやわらぎ、”場面”のみが変わった。
時間を移動した、ということなのだろうか。この時空超越はアンによるものだと、まるで当然のことのようにすんなり受け入れていた。
背後から足音がした。振り返ると、数メートル先に、上半身をはだけた男がいた。編み笠のような大きな器を手に持ち、その上にたくさんの食べ物を乗せている男が、まっすぐ俺の方へ向かってくる。とっさに身を避けようとしたが、間に合わなかった。ぶつかる、と思った瞬間、彼の体は俺を”通り抜けていた”。
何が起きているのか分からなかった。アーチの門から歩いてきた男は、何事もなかったかのように、たくさんの食べ物をうやうやしくベッドの前に置いた。そして、深く平伏してぬかずいた。
アンは目を見張っている俺の顔を見て、口元を緩ませながら言った。
「私たちは五次元以上の存在だから、彼らは私とお前の姿を感知できないのだよ。幽霊みたいなものだ」
俺は藤原ケンの言葉を思い出して、再び鳥肌を立てた。
来訪者は次から次へと現れ、ベッドの前の貢ぎ物らしきものは溢れんばかりになった。パンや肉や野菜、さらにきらびやかな金銀財宝で床がいっぱいになっていた。
「過去もまた観測可能な<浮世>の一つ。私たちは過ぎ去った世界を外から見ているのだ。次元の原則的に、彼らは私に指一本触れることはできないが、私はこの世界に干渉することができる。やろうと思えばね」
そう言ってアンはおもむろに床にある赤い果物を手に取り、アーチ型の門の先へと転がした。果物は階段を下りて塔を降りて行く幾多の人々の間を縫って、落ちて行った。
「実際、何度か手を加えた」
暗がりのベッドの方から何か物音がした。たくさんの貴金属が擦れる音。
金の天蓋から垂らされたカーテンの間から、長く美しい脚が差し伸べられた。足先はすっと床へ下ろされ、伸びてきた手は官能的に洗練された所作で、カーテンをゆっくりと横へ引いた。
そこに現れたのは、塔の頂上で人間の崇敬を集めるにふさわしい、神々しい一人の女だった。『女の中の女』。それがもっとも端的に彼女を表す言葉だろう。彼女はほとんど裸だった。身に着けているものと言えば、胸と股間を覆う細かい金の装飾品を編み込んだ下着らしきものだけだった。豊かな黒髪の間に差し込まれている金の冠のようなものが肌の露出の多さを余計に際立たせていた。むせ返るまでの肉の厚みと、体のどこを見ても女性性を忠実に表した丸みと隆起。
肌の表面は白い光を放っていた。すぐそこにいるアンと同じだ。なにか、絶対的なオーラと言うしかない底知れぬ威圧感を感じさせる。
彼女――”イシュタル”――はベッドに座ったまま屈み、床にある梨のようなものを手に取って白い歯でかぶりついた。
俺はただ驚くばかりだった。ただその姿を目にするだけで、こんなにも男の内部に性的興奮を迸らせることのできる女が存在するのか。
これが、アンが古代メソポタミアの時代に生きていた頃の姿……。
クセのついた髪、幅のある肩と大きな腰……よく見れば違いはいくつかあるが、見る者を威圧するような神秘的な美貌はいまと変わっていない。
アンは世界最古の文明と呼ばれるこの時代に、神のように崇められる存在だったのか?
というより、本当に神なのか?
「イシュタル」という名前は聞いたことがないし、神話に伝えられている神なのかどうかも分からないが、この光景を見る限り、そう考えても不自然ではないだろう。
そのことをアンに聞くかどうか迷っていると、この「神聖な部屋」に新しい訪問者が現れた。三十代くらいの女性と、彼女に手を引かれてやってくる少年。十代前半くらいだろうか。露わな肩や胸が薄汚れているが、その顔かたちの美しさに、男の俺でも目を見張った。
「そうだこれだ。この瞬間を何度繰り返したか……」
面貌のその冷たさには似つかわしからぬ、にわかに熱を帯びた声でアンは言った。
現れた女性はベッドの前で膝を突き、少年にも同じようにさせた。そして緊張した声で、「大昔のアン」に向かって何かを話し始めた。
イシュタルは黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
すると、話が終わったと同時にイシュタルは表情を変えずに少年に手招きをした。少年はそれに従い、彼女のそばへ歩み寄った。その大きな目は真っすぐに彼女を見つめていた。恐れを知らない目だった。
「ここで、私とお前は出会った。
この時、お前の名前が『アシン』であることを知った。
私はお前の美しさに心を打たれ、青年娼婦としてお前をそばに置くことにした。普通の女、普通の男に飽き、ちょうど探していたのだ、お前のような男を。私をも驚かす、美しい若い男を。
お前は独りだった。戦争孤児として家族と離れ、ふるさとを離れ、国をさすらっていた。その時、偶然私がお前のような者を求めていたことで拾われ、私のもとへ来ることになったのだ。その華奢な体を見て、私はいたたまれなかった」




