第四十四話 イシュタル
体全体から清い光輝が溢れているアンを直視し続けるには、底に残っている気力をふり絞らなければいけなかった。
この部屋へ入る直前に聞いた、藤原ケンの言葉を思い出した。
『かつての人間たちは彼女を崇拝してきた』
いざアンと対面してみると、心底その意味が理解できた。
この、畏怖を強いるような、平伏せざるを得ない神聖な圧力は何なんだ!
まさか本当に――。
アンは無言のまま俺を見つめていた。
手を下さずに視覚だけで愛撫するかのような視線に、快楽のためか、あるいは恐怖のためか、いまにも全身の鳥肌が立ちそうだった。俺はそれに耐えきれず、汗ばんだこぶしを握り、委縮した喉元から絞り出して彼女に聞いた。
「あなたは……俺を知っているんですか?」
そう聞いた瞬間の彼女の表情は、突然、機械のように冷たくなったような気がした。
アンは依然、黙ったまま、数秒俺を見つめた。
その空白の時間の間、俺は痺れた頭で何も考えられずに硬直していた。
「ああ、知っている。お前が『アシン』という名だった頃からな。
――あの日、お前は私のもとを離れ、手の届かないところに行ってしまった。
全てを手に入れたはずの私は、あの時、初めて自分にも出来ないことがあるのだと知った。
ずっとお前を見ていた。
新しい時代、新しい土地で生を繰り返す度に、私はお前を探した。
どの世界に生まれ落ちようと、お前の生命の躍動を感じられるのが嬉しかった。
お前が善人になろうと、悪人になろうと、その魂の美しさは変わることはなかった。誰一人気づかなくとも、私だけは気づいていた。
私はこの瞬間を待っていた。
季節が巡るように幾度も時を重ねて世界が新しく変わろうと、お前の世界で数千年の時が流れようと、私の心だけはあの時のまま変わらなかった。
どれだけ待ち焦がれたことか。
……会いたかったぞ」
言い終えた後のアンの目は、俺の理解を超えた深く広い慈しみを帯びているように見え、圧倒された。
アンの話に衝撃を受けるあまり、体から血の気が全て取り除かれたようになった。立っているのがやっとだった。
彼女の言葉には心が揺らいだ。
しかし、俺には微塵も身に覚えがなかった。
アンの話を聞く限りでは、俺の前世――というものが本当にあるのがまず驚きだが――で彼女と会っており、かなり深い関係だったようだ。
動揺の中であっても、一片たりとも記憶が呼び起こされない荒唐無稽であやふやなものに身をゆだねるわけにはいかない、という気持ちが俺の中を素早くよぎり、次の言葉を言う勇気を与えた。
「……分かりません。俺には。そんなこといきなり信じろだなんて、無茶です……。俺はただ、カレンと一緒に元の世界に帰りたいだけなんです」
恐怖のせいで声が委縮し、震えていることに気づき、一気に息を吸い込んで、続けた。
「あなたは、ここに至るまで俺を導いた、と言いました。ということは、俺の大切な……大切な友達が誰も知らないような恐ろしい世界に、独り取り残されてしまったのも、あなたが俺とカレンをあの世界へ飛ばしたからです。確かに、カレンの手を引いてあなたたちからどこまでも逃げ切れると思った俺は全く間違っていました。独りよがりでしかありませんでした」
アンはくるりと背を向け、再びゆっくりと円の中心へと歩いて行った。
俺は構わずその黒い背中に向かって訴え続けた。
「世界の全てを見ているのなら、いまカレンがどこにいるか分かるはずです。そこに俺を連れて行ってください。もう一度彼女に会わせてください。それぞれの世界に戻る前に、最後に一言彼女に言いたいことがあるんです」ふるさとの地で燻る日々を送りながらも、夢を”求め続け”、カレンを”求め続けていた”、ついこの前までの自分を思い出した。「俺がいた世界……カレンとまた会いたいと思っているけど会えない元の世界……。それでもいいんです。カレンがちゃんと、”いるべき場所”で生きられるのなら」
円筒状の部屋の中央に立ってこちらを見つめているアンに俺は言った。
「だから、お願いします――」
しかし、それに対するアンの答えは、あまりに無慈悲なものだった。
「ところで、ミノル。お前はこれを見ても思い出さないか?」
その瞬間、広い空と広い街並みが俺の前にあった。驚いて周りを見渡した。
俺が立っていたのは、土で塗り固められた、角張った巨大な塔の上だった。
視界の端からどこからともなく現れたアンを、俺は信じられない思いで見つめた。突如として違う世界に飛んだからではない。彼女の心が信じられなかったのだ。
やはり彼女は人間ではないのだ、と俺は確信した。何者かは知りようがないが、自分と同じ心を持ち、常識を持ち、まともに意思疎通できると思ったことがそもそも間違っていたのだ。
「お前が認識している時間の尺度でいうと――いまから二、三千年前の世界」
一本の大通りを中心にして、同じく土で固められた店や住居が升目上に立ち並ぶ巨大な都市。街並みは彼方にある、全体を青で隈なく塗られた大きな門で終わっている。ここから見ると、その巨大な門以外に出入り口らしきものはなく、巨大な城壁が街の周囲に建てられている。これで外敵からの侵入を防いでいるようだ。
どこを見ても人で溢れかえっており、生活の活気が塔の頂上であるこちら側にも伝わってくる。
目を見張りながら街を見下ろしている時に、すぐ隣にいるアンの横顔が一瞬視界に入った。どこかしこも十代の少女のようにみずみずしく、繊細なきめ細やかさに満ちていたが、常に余裕のある目元や口元は三十代の成熟した美女を髣髴とさせた。
「ここは大昔に存在したメソポタミアの偉大な都市、バビロンだ」
「そして私とお前が初めて会った場所……」アンはくるりと塔に向き直った。アーチ形の出入り口の向こう側を見る。彼女の身長の二倍以上はある巨大なアーチの先は陰で暗く塞がれていた。強い日差しがはっきりと明暗の境界を作っていた。
「私にとっても、今も昔も神聖なところ」
俺は向きを変えた時に、めまいとともに塔の壮大さに気づいた。ビルならば三十階分以上はあろうかと思われるほどの高さ。いま自分がいる最上階から、順に地上へと向かって一段ずつ、段々式に各層が積み重なってできているのが分かる。ピラミッドのようだ。昔、高校時代に教科書でこれに似た建物を見たのを思い出した。「古代メソポタミア」、「聖なる塔」……「ジッグラト」。
俺は戦慄と共に、塔内に入っていく彼女の後ろ姿を追いかけた。
「まさか、俺の前世が、古代メソポタミアの人間だと……そう言いたいんですか?」
「ああ、まぎれもなくお前の過去だ。お前が渡ってきた道だ。道の始まり、と言った方がいいか」アンは歩みを止めた。
「見ろ。何かお前の中で呼び起こされるものがないか?」
アンの視線を追って、塔の頂上にある部屋の奥を見た。
目を射るような陽の明るさから次第に暗がりに目が慣れるのを待った。
そこには、一つの巨大なベッドが置かれていた。それもただのベッドではなく、天蓋と側面の豊富な金の装飾と、純白のシーツのきらめきが見る者を威圧する、見たことがないほど荘厳無比のベッドだった。側面についたレースのカーテンは降ろされており見えにくくなっているが、そこに誰かがいるのが分かった。
その時、カーテンの向こうから喜びとも苦しみともつかない、男とも女ともつかないうなり声が聞こえてきた。おぼろげな”人のシルエット”はうごめいていた。よく見るとそのシルエットは一つではなく複数だ。
肉と肉が弾ける音。それが一定のリズムをもって聞こえた。一際大きな艶めかしい声が四角い部屋の四隅に響き、俺の耳をつんざいた。
俺は、そこで何が行われているのか悟った。
しばらく、純白の覆いの中で行われていることを呆然と立ち尽くして眺めていた。明瞭に見えないため、ただ複数の人間が一つのあいまいな塊となって不規則にうごめいているようにしか見えない。
我に返った俺は、先ほどアンが聞いたことを頭の中で繰り返した。
『呼び起こされるものがあるか』だって?
いま俺の中にあるものと言えば、下部から燃え立つような官能的情熱だけだ。
アンを振り返って、何も言わずただこれを眺めさせていることへの疑念を込めた目を向けた。
すると彼女は、
「やはり、覚えていないか……」
と、そよ風が通り過ぎるように、ささやかな声で呟いた。
そしてそのまま表情を変えずに、ベッドの向こう側を目で指し示しながら、ゆっくりと言った。
「イシュタル。あるいはイナンナとも呼ばれていた――。私はかつて、地球の偉大な中心地であるメソポタミアを支配していた者の一人だ」




