第四話 黒い作業着の男
不気味な空から逃れるように、大通りへ向かって走り出した。
走れば走るほど恐怖はつのるばかりだった。聞こえるのは自分の足音のみ。その音がおかしいのだ。まるで、周囲に反響する前に空気中に瞬時に吸収されて行っているような……。
店がいくつも立ち並ぶ下通に戻った。
そこで、さらなる衝撃が俺を襲った。膝が大きく震えていた。
あれだけ人という人に埋め尽くされていた通りに、誰もいない。
無音。日頃の活気が無かったことにされているかのように、物音ひとつ聞こえてこない。
俺は泣き出しそうになっていた。男だから、大人だから、泣いてはいけないという常識は、いまの俺には通用しなかった。
まさに涙が目に滲んでこようとするその瞬間、背後から扉が開く音が聞こえた。俺は無心でその方へ駆け寄った。誰でもいいから”人”がいて欲しかった。
薄暗い、空っぽの喫茶店の扉から出てきたのは、頭の薄い五十代くらいの男だった。彼を見て俺が最初に感じたのは「黒さ」だった。首からくるぶしまで、真っ黒い服に覆われている。胸元に付けているバッジのようなもの以外、全てが黒い。身に着けている服は、まるでさっきまで自動車の整備でもしていたかのような作業服だった。
俺はこの瞬間ほど、”誰か”が近くにいてくれることに嬉しさを感じたことはなかった。彼の顔を見て安心したことで一気に感情が溢れ出た。その時の声は自分でも分かるほど震えていた。
「さっきからなんかおかしいんです! 周りに、たくさん人がいたのに……誰もいなくなってるし、何の音も聞こえてこないし……空はなぜか赤いし……! 一体何なんですか、これ……!?」
それに対する彼の言葉は、全く予想していなかったものだった。
「ああ、もう大丈夫だよ、安心して。今から元の世界に返してあげるからね」
俺は呆然とした。体感で数秒の間、何も言葉が出てこなかった。
「え……」俺は停止した思考を無理にでも動かそうと努めた。この人はいま起こってる怪奇現象について何か知ってるのか?「元の世界?どういうことですか?」
「元の世界は元の世界だよ」
何も問題など起きていないとでも言いたげな、ゆったりとした低い声でそう言いながら、男はおもむろにポケットに手を突っ込んだ。
そのポケットは膨らんでいた。何かが入っている。緩んだ筋肉は再び瞬時に緊張した。
「この時間はいつもならアルバイトをしてるはずだろう? いつも通りの世界に君を戻してあげるんだよ。予定通りにね。ここは来ちゃダメな世界。だから君は戻らなきゃ」
俺は男の言っていることが何一つ分からなかった。
「はい、それじゃあ目を瞑って、私が十数えるうちに……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 何が起きてるんですか! あなたはこの赤い世界について、何か知ってるんですか?」
「知ってるよ。だけど教えたところでなぁ」
「そんないきなり『元の世界に戻す』だなんて言われても、訳が分かりません!」俺の感情は理解を超えた現実への恐怖によって不安定になっていた。「それに、教えてもらわないと目なんて瞑れませんよ!」
男はため息をついた。
「分かったよ。ただ、どうせ君は信じないだろうし、これから話すことをたとえ信じたとしても、目覚めた時には夢になってるさ。
――世界は数珠のようなものだ。
数えきれないほどたくさんの玉が床に散らばっている。
その一つひとつは美しく照り輝き、どれも完璧に見える。
だが、それだけでは息をしない。世界とはならない。
無限にある玉を選び抜き、糸で束ねて、連続性のある一つの流れを作る。
その時はじめて世界となる。その中ではじめて、人々は物語を紡ぐことができる。
しかし、中にはその数珠の連なりからはみ出してしまう人たちがいる。
それが君だ。
君は毎日、何不自由ない平穏な生活を送っている。心配事と言えば、東京で俳優になるためのお金が貯まるかどうかだけ。だが、夢と共に過ごしている平和な日常の裏には、君たちが信じられないほど広くて複雑な世界が広がっているんだよ。
『現実』は、君が感じているもの一つだけじゃないんだ」
俺は必死に男の言葉を飲み込もうとした。だが到底理解が追いつくとは思えなかった。
「俺がいつも認識している現実以外にも、現実がある……それっていわゆるパラレルワールドみたいなものってことですか?」
「ざっくり言うとそうだな。君たちがパラレルワールドと呼んでいるものは、この赤い世界の前後にある。さっき言った通り、世界は連続しているからな」
オカルトや都市伝説だと思っていたものを即座に肯定されて俺はひどく衝撃を受けた。男の話を聞きながら、全身から血の気が引いていくような感じがした。
「パラレルワールドに隣接しているといっても、ここは本当の世界ではない。数珠の玉と玉の間にあるもの。普段生きている世界とのコネクトがおかしくなって、”はぐれ者”になってしまった人々の受け皿的な場所だと言っていい。ここに存在している全てのものが静止していて人っ子一人いないのは、この世界がある意味で偽物だからだ。君がさっきまでいた世界の名残を残しているだけの、空っぽの世界」
体内の臓器が全てひっくり返って逆さまになったような気がするほど、心の奥深くで愕然としていた。俺がこれまでの人生で養ってきた認識は打ち砕かれて粉々になっていた。
「教えられるのはここまでだ。さ、準備はいいかい。目を瞑って十秒数えて」
これまで何人俺のような人間を元の世界に戻したのだろうか……。この男のスムーズな言い方には事務的に処理するような慣れた響きがあった。
他にも数え切れないほど聞きたいことがあったが、もう一秒たりともこんなところにいたくないという気持ちも相まり、諦めて素直にその言葉に従った。
一、二、三、四……。
次第に襲ってくる眠気。思考が揺らぐ。
五、六、七、八……。
沈んでいくような眠気はどんどん強まり、抗いようのない強さになった。
意識が遠のいて行く中、目を瞑る瞬間に男の胸元に見たバッジらしきものが瞼の裏に蘇った。
星と蛇。四方八方に光を投げかける星の上に、渦のようにとぐろを巻く蛇。怪しく光る赤い一つ目は、異界へ誘うよう。まるで夜空に輝く星のように、黒地の作業服の上で金色に輝いていた。
九、十。
その瞬間、俺の意識は遥か彼方へ飛んでいた。




