第三十七話 緑の肌の女
力の抜けた体を太い枝に横たえたまま、俺は無意味に時間が経過していくのを感じていた。……もはや俺を突き動かすものはない。まだ意識があるということさえ嫌になってくる。どうせこのまま「俺」というものが存在するのなら、この木に溶け込んでいって、ジャングルの一部となって、何も感じず、何も考えずに生きられればいいのにと思った。
左の脇腹に、何かが触れた。擦り傷が近くにあったため少しばかり痛みを感じた。おもむろに頬を持ち上げて左を見る。
緑色の肌をした女が、指の先で俺を触っていた。
まだそこにいたのか、と鬱陶しさを感じながら思った。最初に彼女を目にしてからかなり時間が経っているはずだ。泣いていた間もずっと俺を眺めていたというのか。
珍しい肌をした女に対して、もうすっかり慣れてしまっている自分に気づいた。これまでいくつもの奇異な光景を目にしてきたせいで驚きは長続きしなかった。
俺が伏している枝よりも少し細い枝の上に膝を抱えるように座っていた女は、俺のだらりと垂れた腕を持って、引っ張った。
泣きはらした目で女の薄い緑色の顔を見上げるが、感情は読めなかった。何度も女は俺の腕を自身の方へと引っ張る。
何だ? 立てということか?
あまりに女はしつこく俺の腕を引っ張るので、長い間木の枝に張り付いていたせいで木肌の跡が残ってしまった体を起こした。ゆっくりと体を起こして視線を再び女へ向けようとした時、視野の端で、女は立ち上がりながら勢いよく体をひねった。
その瞬間、俺は目の前に丸く引き締まった裸の尻を見た。
と思った時には、女の姿はすでにそこになかった。俺は腰が抜けそうになった。
落ちた!
咄嗟に俺は高い所が苦手なのも堪えて、枝の下を見た。
女は、真下にあるもう一つの太い枝の上に、たくましく二つの足で着地していた。
その時はじめて女の全身を見た。驚きは陸続きのようになった。女は、裸だった。何一つ、衣服らしいものを身に着けていなかった。背中からかかとまで肌は周囲の森に同化したような色だった。
さっきまでは意識が朦朧としていたから、女へ目をくれる間もなかった。それに、女は胸の前で膝を抱えるような格好で座りながら俺を見ていたので、全裸であることに気づけなかった。
女は少し膝を曲げると、すぐに別の枝へと飛び移った。
呆然とした。もはやこの驚きはどれに対するものなのか、自分でも分からなかった。
さらに女は下にある枝に飛び乗った。軽快な身のこなしだった。
すると、女は顔をこちらへ向けて合図をした。手の動きから何となく察するに、ついて来いということだろうか。……だが、当然、あの女のように超人的な動きは出来ない。
遠くにいる女の目元は、なぜ俺が付いて来ないのかふしぎだと言わんばかりだった。
改めて枝の下を見た。ここの森の深さはかなりのものだ。自然の摩天楼とでも言おうか。無数にある緑の巨大なビルが、幹から枝が伸びる毎に横の生命へとネットワークを広げていき、重層的な緑の街を作り出している。
安全に降りられる場所はないかと下を眺めていると、左下の方に他の木から伸びたかなり太い枝があった。いま俺が立っている枝よりも三倍は太い。ここに着地できればそこから真っすぐ歩いて彼女の方へと行けるだろう。
足元から細く伸びている枝に触れてみた。これくらい長くて弾みがあるものであれば、ロープのように使って無事に下の太い枝へと着地できるかもしれない。
できるだけその枝の先の方へと手を伸ばし、しっかりと掴んだ。
下を見下ろした。そこまで高さはない。大丈夫だ。自分に言い聞かせながら、飛び降りた。
思いのほか、無事に太い枝の表面へと着地することができた。
俺はほとんど一本道のような真っすぐな枝の上を注意しながら歩いて行った。
女はもう一段下の枝にいる。距離は縮まったが、また別の降り方を探さなければそこまで辿り着けない。
前にいる女は依然として背中を向けたままで、ちらちらと俺を見ながら歩き続けていた。何も身に着けていない尻と脚の裏が露わだ。生々しい脚の肉が、動くたびに木の上で健やかな躍動を繰り返しているのが分かる。男の俺に裸を見られるのが少しも恥ずかしくないらしい。この世界はそれほどまで人間が「自然体」となった世界なのだろうか。その時かすかに頭の奥にデジャヴのようなものを感じた。しかし、その直観は頭の中を通り過ぎるだけで終わった。俺は依然として身が浮くような高さへの恐怖を感じながら、注意深い足取りで女の背中を追った。
あたりの気温は、心が澄みやかになるちょうどいい温度だった。木陰の合間を縫って届く日の光も気持ちよく感じた。穏やかに息を弾ませているときに吸う空気も美味かった。まるで呼吸のたびに濁り一つない山の真清水が喉を通るかのようだ。
歩きながら冷静になって考えてみると、俺も大きな布を一枚、体に巻き付けているだけで、半裸同然だったことに気づいた。自分の胸に斜めにかかっている淡く黄色い布を見た。胸に深い痛みを感じた。太く鋭いナイフが突き立てられたような痛みだ。ところどころの擦り傷から感じるヒリヒリとしたものよりも、胸の奥に感じるものの方が余程俺を苦しめた。自分が身に着けているものを見ることは、(自分の体感で)つい数時間前までいた世界のことを思い出させることだった。足が止まりそうになった。だが、あえて足を止めずに歩き続けた。今度止まってしまったら二度と動くことができないように思われたから。
俺は枝を渡って行き、時には新しい枝に乗り移り、葉と葉をかき分けては、また新しい枝に手をかけた。落ちそうになった時は幹に必死にしがみついたりした。激しく動くたびに、体中が火を噴くように痛んだ。俺の体はまだ動く。これくらい、大したことじゃない。あれだけ高いところから落ちたのに自分の体に致命的な怪我がなかったことにいまさら気づいた。




