第二十八話 独りになったミノル
突然、昼の世界へと吸い込まれた俺は、足を着ける間もなく、バランスを崩して腰を地面に打ち付けた。
刺すように目に飛び込んでくる光。
そして、眩暈。
焦点が定まらない。
ここはどこだ。
一体何が起きたんだ。
目が慣れてくるにつれて、自分を取り巻いているものがはっきりと見え始めた。
灰色の厚い曇り空と、丈の長い枯草。雲はやけに堅く、草はやけに黄色く見えた。
それだけだった。
自分を除いて、人は誰一人としていない。
眩暈おさまって周囲のものに焦点が定まり、景色の解像度が上がっても、たったいま自分に何が起こっているのか分からなかった。
だが、頭の奥の奥では、自分の身に起こったことがおおよそ理解できているはずだった。目の前の現実を受け入れられない思いが、もっと考えて客観的に状況を把握するようにと、俺を激しく駆り立てた。
……頭の中は、ただの真っ白な空洞になっていた。
見覚えのない、新たな世界の景色を、呆然と遠く眺めた。
さっきまでフードを被った陰気な人間たちの群れの中にいた。
隣にカレンがいた。彼女が俺の手を強く握った時の感触はまだ生々しく残っている。
自分の右手を見た。
そのあと起きたことは……?
胸がざわめき出し、息が乱れた。それに呼応して、頭の中の真っ白い空洞に黒い液体が迸った。ウイルスが次第に体を弱らせていくように、突如やってきた絶望が俺を侵していっているのが分かった。
一気に脱力し、その場に座り込んだ。
その時、地面が異様な色をしているのを視界が捉えた。
薄く青みがかった土。
心拍数はさらに上がっていく。
その青い土に両手をついた。
いまにも叫びだしそうだった。だが胸を何かが遮っていて、激しい吐息を繰り返すことしか出来なかった。その度に、体は痙攣のように震えた。
頭を青い土の上に落とし、こすりつけた。いまでは俺の右手はカレンの美しい手ではなく異世界の地の枯れた黄色い草を握りしめていた。
激した胸の内で、俺は叫ぶようにして繰り返しカレンが無事であるようにと祈った。
――どれくらいの間そうしていただろう。顔はずっと地面の土の上に落ちていた。
俺はゆっくりと、膝を立てて立ち上がった。
一つの思いが俺の体を動かした。
見つけなければ。
あの黒い作業服の中年男に出会ってから自分の身に起こった出来事を思い出していた。
ヒントがあるはずなのだ。
俺がカレンと”再会した”未来都市のような世界から、高校生の頃の自分とカレンがいる過去の写し絵ような世界へと移動する時に開いたドア。俺とカレンを導くように薄くおぼろげに光っていた、あのドア。理屈は分からないが、どうやらドアは他の並行世界へと繋がる装置になり得るもののようだ。
どんなことをしてでも、あのドアを見つけて、カレンのいる世界へと戻らなければいけない。
絶望感で感覚が麻痺した中で、俺は一縷の望みにかけていた。
並行世界は数え切れないほどあるにもかかわらず、ドアをくぐった後、俺は願い通りの世界を引き寄せた。
いま考えれば、高校生の俺とカレンが肩を寄せ合っていた世界は、まるで理想世界のように思える。「もし過去を思い通り改変できるなら?」に対して自由に夢想した世界のようだった。カレンがもう一つの世界で生きている弟の姿を見た時に流した涙も、まさに彼女の心の奥底にあった「もしも叶うのであれば……」という切なる願いが成就したからだったはずだ。
見渡す限り広がる、枯れた雑草。大きなもので俺の背丈と同じくらいのものもある。それらが根を張っている土は、薄く青色を帯びており、どこまでも続いていた。空は厚い曇り空。これまで一度も太陽が顔を覗かせたことはないのではないかと思えるほど、重く滞っていた。
行けども行けども荒涼とした景色ばかりだ。つい数分前と変わったことといえば、枯草の丈がだんだんと短くなって見晴らしがよくなってきたということだけだ。
空は依然として一枚の分厚い灰色の雲に覆われていて、秋風のような涼しい風が肌を時折かすめる。
肌寒さを感じて自分の腕を見ると、薄いクリーム色の半袖だった。これだけ自分を取り巻く状況は変わっているのに、着ているものは何一つとして変わっていないことに戦慄した。その震えは肌寒さと混ざり合った。
ほんのちょっと前までは、高層マンションの暖かい部屋でカレンとナオトと一緒にテレビゲームで楽しく遊んでいたなんて信じられない。
――体感時間で二時間以上は経った。
喉の渇きを感じてきた。
あたりいっぱいに見えていた雑草も次第に見なくなっていった。どこを見ても土や石ばかりの景色になり、荒地ぶりはいよいよ度合いを増してきた。
空気と土地は乾いており、水を欲しているように見えた。
文明の気配どころか、人の気配すらしない。
どこまでこの景色が続くのだろうか。進む方向を変えた方がいいのだろうか。
そう考えながら歩いていると、前方に、地面が大きく膨らんだ丘のようなものが現れた。
パサついた青い土に手をかけながら丘を登って行く。ここを登れば、高いところから広く見下ろすことができる。そうすれば村か何かが見えるかもしれない。
お願いだ、誰かいてくれ……。斜面に足をかけて一歩一歩登って行った。
丘のてっぺんに手をかけ、立ち上がった。
すると、そこには驚くような光景が広がっていた。俺が立っている地点から標高の最も低い地点に至るまで、斜面に添うようにして無数の住居が並んでいた。どの建物もここ一帯の区域内に相集まるように密集していた。色からして周りにある青い石で作った家のようだった。
集落があるということは、人がいる! 沈んでいた俺の心は跳ね上がった。この世界は人間すらいない原始的な世界かもしれないという予想が無事に覆され、心底安心した。そして、この世界にとって俺は異邦人で、俺にとってこの世界は何一つとして信用できない初めての土地だ。だが、自分と同じ人間がいたという事実は、俺の足取りを軽くするには十分だった。サラサラと流れていく青い土の斜面を降って行った。




