第二十五話 人類を見守る者たち
中村ユイの上司である藤原ケンは、薄く水色の混じった透明の天板が乗せられたデスクの前で、深く椅子に腰かけていた。クリスタルのように透き通ったデスクは、あたりの灯火を受けて昼間のようにきらめいていた。目前にいる部下のユイの口から伝えられた新たな命令に耳を傾けているケンは、黒いスラックスの脚を組んで持ち前の何事にも動じることのない態度をその時も崩すことはなかった。不動の態度にもかかわらず、ケンの口調はいつもそれに反して軽薄だった。もっとも、これまで積み上げてきた百戦錬磨の経験の厚みに裏打ちされた余裕であり、周りの社員もそれを知っているので、ケンを横柄だと非難する者はほとんどいなかった。
ユイの話を聞いている間、ケンは何度かコーヒーカップを手に取って口に運んだ。年齢はユイの六つ上で三十を優に超えているのに、肌質はまるで二十代のように細やかだった。
ケンの仕事のやり方は上司や同僚に口を挟ませる隙もないほど俊敏だった。仕事をする上でケンの嫌いなことは「考え込むこと、悩むこと」で、好きなことは「直観力」だった。
だが、ユイが報告を終えた後、さすがのケンも今回の件に当惑の表情を浮かべながら言った。
「……ったく、あの”魔女”の考えてることはやっぱり分からん……」頭を掻いて続けた。「一刻も早く<異常体>発生によって出来た穴をふさがなきゃいけない時に、さらに穴を増やすような命令を出しやがって。全くどうかしてる。珍しく直接処理の命令が下ったと思ったら、今度はそれを自分で覆して、手を下すな、自分のもとへ連れて来い、か。『気まぐれの女神様』のあだ名は伊達じゃないねぇ。人手がギリギリの時にそんな勝手なことをして、誰が責任を取るんだ?」
ケンはそう言うと、椅子の上で腰を跳ね上げて「ちょっくら俺が”魔女”と話してくるわ」と、平社員たちが戦慄するような一言を言って立ち上がった。
しかし、ユイはすかさず部屋を出ていこうとするケンの前に立ち、硬直した顔で言った。
「アンはこの件の責任は全て自分が負うと言っていました。終わった後の穴の修繕も後処理も自分がやると」
ケンは勢いよく椅子に座り直し、再び脚を組んだ。
「なるほどね……」と、途端に腑に落ちた様子で言った。「あの人……、じゃなくてあの魔女がそう言ってんのならそれでいいんじゃないか。何があろうと、トップが責任取ってくれるんだろ。まぁ、<異常体>をここに連れて来て何をするつもりなのか皆目見当もつかないけどな」
ユイはオフィスの中央に行き、準備を始めた。彼女の背丈の二倍から三倍はあろうかと思われる大きな「螺旋」に指先を差し入れ、探った。<ルキフェルの渦>と呼ばれる、ほの青く薄透明なこの「螺旋」は、とある<浮世>における、とある時代の人間たちの目から見れば先進的で画期的なホログラム技術に見えただろう。しかし、それとは根本的に異なっていた。横から見ているため、ひし形のように見え、あるいは、例えば富士山と湖に映る逆さ富士山をそのまま繋げたような、正三角形と逆三角形を繋げたような形に見える。この<ルキフェルの渦>を見て、これが「世界の動き」そのものを表していると、どの<浮世>にいる人間も信じられないだろう。なぜなら彼らは常に「見られる側」なのだから。
ケンは近くにあった椅子を寄せて、背もたれを胸に押し当てる形で座りながら、ユイのその姿をじっと眺めていた。
「ここに配属されて間もないのに、災難だったなぁ」
「どんな仕事でも、任せられた仕事を忠実にやる。ただそれだけです」
「やっぱりユイは真面目だ」
「円滑な人類運営を第一の職務とする私たちとしては当たり前じゃないですか?」
ケンは背もたれの上で重ねた腕に顎を載せながらユイをじっと見つめた。日本人離れしたはっきりとした目鼻立ち、意志の強さが表れた目元、贅肉のない綺麗な顎のライン、程よく膨らんだ胸元。ここで働いている社員は美形ばかりだが、彼女のクールな美しさはとりわけケンを魅了した。部署関係なくいろいろな女性社員に手を出すことで有名なケンだったが、ユイが配属されてからというもの、縦横無尽な彼の照準は大人しくなった。
しばらく探索を続けていたユイだったが、ついにケンの視線が鬱陶しくなり、呆れながら言った。
「なんですか?」
ケンはそれに答えず、唐突に立ち上がった。
「よし、じゃあ俺も手伝うわ!」
ユイは慣れた様子で、微塵も驚く様子はなかった。
<ルキフェルの渦>に手を差し入れたままため息をついた。
「……デートはしないって言ったはずですよ」
「いや、別に下心があって言ってるわけじゃないよ。純粋に手伝いたいだけ」ケンは半ば嘘をついた。「それに、この仕事は、ユイにはまだちょっとハードだ。たぶん俺が付いてないと手に負えなくなる。たまにはいいじゃんか。研修のころを思い出すだろ?」
しかしケンがそう言い終えた時、彼はユイの雰囲気が一変しているのに気づいた。
彼女は<ルキフェルの渦>の前で凍り付いていた。目は驚愕のために見開かれていた。
「どうした?」
「……<浮世>が改変されています……。それも、信じられないほど大きく」




