第二十三話 ありがとう
俺は元いた世界――つまり、俺とカレンとナオトがバラバラになった方の世界――で起きた一つの記憶を思い出した。
それは、俺がまだカレンと出会ったばかりのころ。二人とも高校二年生で、いまから十年くらい前のことだ。紅茶を空いっぱいにこぼしたような、濃い夕焼け空を覚えている。川沿いを一緒に歩いて帰っていた。その時はカレンと会ったばかりだったし、なにより、クラスの男子生徒たちの噂の中に必ず入っているような指折りの美人と一緒に帰れるということもあって、ずっと心をときめかせて歩いていた。当時放送されていたアニメの話で放課後に意気投合したのがきっかけだった。はじめは緊張しながら彼女と話をしていたのだが、その緊張も次第にほぐれていくくらい、不思議なほど話が合った。それが俺には嬉しかった。話の流れで、彼女の部屋にあるアニメキャラクターのコレクションを見せてもらえることになり、カレンの家に招かれた。一度去った緊張が蘇り、俺の体はカチコチに固まっていた。部屋に入った時に見たものは、普段の彼女の印象とはあまりにもかけ離れていたので、驚いたものだった。ピンクを基調としたガーリーな家具、可愛らしいぬいぐるみや抱き枕など、驚くほど女の子らしい部屋だった。並んでいるフィギュアやキーホルダーを見ながらアニメの話で一通り盛り上がった後、俺は部屋を見渡して、何気なく壁のコルクボードに留められている写真について尋ねた。いま思い出すと、なんてバカなことをしてしまったんだろうと思う。彼女は少しも間を置くことなくこう言った。「弟。私が中学三年生の時に死んじゃったの」流れるような、あまりに綺麗な旋律で聞こえた言葉に、俺はどうすればいいか分からなかった。出来るだけ言葉に重さを持たせまいとする、相手を全力で気遣ったような言い方が、かえって俺に衝撃を与えた。しかも、その時目にした底知れないほどの寂しげな横顔が、教室でのいつもの明るい振る舞いとまるで真逆だったので、一層俺にとっては驚きだった。その後、彼女に何か励ますような言葉を言ったはずだが、ほとんど覚えていない。だが、それに対するカレンの反応はよく覚えている。彼女は、信じられないほど爽やかに、軽快に、「ありがとっ」と言って、微笑んだ――。
――俯いていたカレンはゆっくり顔を上げ、涙をぬぐいながら言った。
「高校生の頃に、一回だけ弟のことを話したことがあったけど、覚えてるかな? ……いまだから言えるけど、あの日まで私は、自分のことが嫌いで仕方がなかった。いつも自分を最低な人間だと思ってた。……弟が死んじゃってからずっとずっと後悔してたの。なんでもっと優しくしてあげられなかったんだろうって。あんなに可愛いかったのに、なんで叩いたり、酷いこと言ったりしちゃったんだろうって。弟が生きている間はいくらでも心を入れ替える時間があったはずなのに、なんで死んじゃってから気づいたんだろうって。『また弟の顔が見れるならなんでもします神様』って何度も祈った」
濡れた瞳のまま、俺の肩に頭を預けた。
「……でもね、私の部屋で弟の話をして、ミノルからあの言葉を聞いた日から、いろんな意味で変われたんだ。せめて天国にいる弟に、これ以上イヤなお姉ちゃんだと思われないように、毎日を大切にして、私の周りにいてくれてる人たちを大切にしようって思えた」
もうカレンは泣き止んでいた。
俺は抱き締めたい気持ちを一心に堪えていた。
「……ごめんカレン……俺がこんなところに連れてきちゃったせいで、こんなことに……」
「ううん。ミノルは私のことを助けようとしてくれたんでしょう? ……それに、むしろ、夢が叶ったみたい。また弟の顔が見れて、嬉しかった……。ミノル……改めて、ありがとね。いまでもあの言葉はちゃんと覚えてるよ」
まだ聞いてない。
まだカレンからの告白の答えを聞いてない。
ここでカレンを抱き締めてしまったら、何か大切なものが壊れてしまいそうな気がする。
だから俺は代わりに、両手でしっかりと確かめるように、彼女の手を握った。
もう二度と、遠くに行ってほしくない――。
その時、異変を感じて、とっさに顔を上げた。
周りの雰囲気がさっと別のものに切り替わる感じ。
あの赤い世界で感じたような、気味の悪い感覚と似ている。
「ミノル、どうしたの?」
周りの人の気配が消滅する感じも、同じだ。
だが空は赤くない……。
ひしひしと伝わってくる危機感を感じて周りを見渡そうとしたが、足に強い違和感を覚えて、下を見た。
固い白い砂の地面だったはず。
なぜか俺の両足は沈んでいた。深く、黒い沼に。
俺がその状況を認識するのとカレンが悲鳴を上げるのは同時だった。
抗う間もなかった。漆黒の沼はみるみる俺とカレンの膝、腰を浸して行き、すぐに頭まで飲み込んでしまった。




