第二十二話 いなくなったはずの弟
隣にいるカレンは、声を立てて楽しそうに笑っているもう一人の自分を見つめていた。
しばらくすると、おもむろに俺の方に向き直り、たまに上目遣いになりながら言った。
「言うのが遅れちゃったけど、あの赤い空が現れてどうしたらいいか分からなかった時、すぐに私の手を引っ張って、一緒に逃げてくれてありがとう。頼もしかった。私ひとりじゃ、足がすくんでどうしようもなかったと思う」カレンは目を線にして微笑みながら言った。「あの時、初めてミノルのことを男らしいと思えたかも」
「マジかよ!」俺は心外のあまり悲痛な叫びをあげた。
「ウソ! 冗談!」そう言いながらカレンは二つの手で俺の手をギュッと握りなおした。誰にでも優しげに香る花のような笑顔は、心なしか赤らんでさらに美しく見えた。
その一瞬、カレンの顔がもっとも俺に近づいた。
俺は緊張していた。
そしてそんな自分を不思議に思っていた。もう決して高校生の頃のような純朴な感情など湧いてくることなどないだろうと思っていたから。
しかし、その後、カレンの顔は神妙な顔つきに変わり、落ち着いた声で俺に聞いた。
「あの赤い世界に迷い込んだ時は、すっごい怖かった。現実とは思えなくて、どうしたらいいか分からなかった。それに、黒い服を着た二人が突然現れて、なぜか冷静な感じがまた怖かった」俺の胸の上に視線を落としながら続けた。「……けど、あの人たちって、来てはいけない世界に紛れ込んじゃった私たちを、元の世界に帰そうとしてたんじゃないの? 私たち、あの人たちから逃げて、こんなとこまで来ちゃったけど、良かったのかな……?」
俺はその問いに答えることができなかった。
彼女に真実を伝えるべきかどうか。伝えれば、”世界の外”で結んだ絆は……せっかく結んだこの手は、解けてしまうだろう……。
その時、古ぼけて歪んだ音楽が鳴り響いた。横断歩道の信号が青になったようだ。
それとほとんど同じタイミングで、俺たちのそばをランドセルをしょった小学生が走り抜けていった。
ランドセルが変わった形をしていたので目の端でそれを追った。だがすぐに視線をカレンに戻し、はぐらかす意味も込めて「あ、カレン、青だ」と言って横断歩道の方へ踏み出した。
しかし、カレンは微動だにしなかった。
彼女の顔を見て、その意識は俺の背後の先にあるのだと分かった。
ついさっき通り過ぎた小学生の後ろ姿を、じっと見つめていた。
黄色い帽子を被ったその小さな男の子は、走りながら横断中のカレンの所まで行くと、そのままセーラー服の腰に抱き着いた。
「おねーちゃーん!」
よく通り抜ける小さな男の子の高い声がこっちまで聞こえてくる。
「もぉ~! 勇太~! 外で抱きついちゃダメっていってるでしょ~!」
隣に”学ラン姿の俺”がいるからか、その表情は気まずそうで、恥ずかしそうに見えた。だが、その奥からはちゃんと嬉しさが浮かんでいた。
「先に帰ってるねー!」
男の子は、小さな手を振りながら再び元気よく走って行った。
カレンの方に向き直った時、俺はその顔を見て驚いた。
彼女は泣いていた。
二つの瞳からは、透き通った涙が静かに流れ出ていた。
だが、次第にその顔にはしわが寄せられ、苦悶の表情を表し始めた。
そして、全身の力が抜けたように崩れ落ちた。
「ど、どうしたの!? カレン!?」思わず俺はカレンに駆け寄った。
答えはなかった。俯き、ただ肩を震わせるだけだった。
「なんなの……? どうなってるの……?」
これまで聞いたことのない声だった。ほとんどささやくような、絞り出されるような声に、俺はひどく戸惑った。
何年にも渡って色々なカレンの顔を見てきたが、こんなに弱々しい姿は初めてだ。
制服姿の二人の背中はもう見えなくなっていた。いまはもはやそんなことは問題ではなかった。
嗚咽のような震えがおさまった後、彼女はおもむろに口を開いた。
「弟が……」
消え入りそうな声だった。俺は思わず耳を彼女のそばに近づけた。
「いまそこに……いなくなったはずの弟が……」
俺はこの瞬間、二つの記憶の激しい衝突を感じた。まるで脳内で大型車の正面衝突でも起きたかのような、大きな衝撃だった。俺の中にある二つの世界の、二つの過去……。彼女のいまの言葉が引力となってその二つのものを結びつけていた。
全く違う世界で生きる、並行世界の俺と俺。住む場所も家も違う、仕事も違う、食べ物の好みも違う、何もかもが違う……。
だが、唯一、共通点があった。




