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ルキフェルの夢の終わり  作者: 美夜
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第十七話 黒いスーツの美女に追われて

 二人は再び走り出した。明確に行く当てがあるわけではない。だが、走らなければいけなかった。

 カレンにはあえて言わなかったが、あの黒い作業服の男に捕まりたくない理由は、元の世界に戻されることから逃げたかったからだけではなかった。さっき部屋の窓から赤い空を見た時に、一つのイメージが頭を通り過ぎていた。それは、元の世界に戻った後にカレンと果てしなく隔てられ一日一日を孤独と後悔を感じながら過ごしている自分だった。この世界が再び現れる直前まで、俺はカレンを初めてちゃんと「美しい一人の女性」として見ていたような気がする。それに、その時は、本当にお互いの心を通わせられていたという実感があった。その感覚は(元の世界も含めて)彼女との関係においてこれまで全く味わったことのないものだった。お互いがはじめてちゃんと男女として認識しながら心と心を融かし合っていた。心地よさは例えようがなかった。

 いま握っている彼女の手を放すわけにはいかなかった。例え相手が数えきれないほどの並行世界を行き来する存在でも、新しいもう一つの世界で結んだ縁を諦めるわけにはいかなかった。もう二度と見逃さないように、一番近くで彼女の「魂の美しさ」を見ていたかったから。

 次から次へと巨大なビルを駆け抜ける。頂上を濃い赤色で隠しながら左右にそびえ立っているビル群は、俺が元々いた世界のものとは比べ物にならない大きさで、威圧感を与えている。

 とりあえず駅の方に向かってみようと思った時、どこからか人の気配がした。

 はっきりと人の姿が見えたわけではないが、突然「近くに人がいる」という感覚が襲い、鋭く俺の筋肉を強張らせた。なぜかいつになく自分の感覚が鋭くなっていることに気づいた。

「ちょっと待って」

 俺は急ブレーキをかけてカレンをその場にとどめた。

 意識をあたりいっぱいに広げ、聞き耳を立てるようにして注意深く周りを見渡した。

 すると、巨大なビルを隔てた向こうに、人の気配を二つ感じた。

 あの男だけじゃない!

 俺はあの黒づくめの男がやってきて、また同じ状況になるのだと思っていたが、予想外だった。

「誰かいる」

 唇に人差し指を当ててカレンに合図を送りながら、ゆっくりと右手にある曲がり角に近づいて行った。角を曲がった先にも、車線の多い道路が伸びている。

 かすかに人の話し声が聞こえてくる。

 声は……女性だ。

 曲がり角を背にして、一歩ずつ動いた。

 息を殺し、できるだけ存在を消した。

 俺の心臓は荒れ狂うようだった。おそらくカレンも同じだろう。手のひらから彼女の熱が伝わってくる。

 遠くから聞こえる話し声は、近づくにつれて、意識を集中させるにつれて、明瞭になっていった。

 曲がり角からほんの少しだけ目を出して、二人を見た。

 一人は、異様に冴えた直感が事前に察知していた通り、あの黒い作業服の男だった。もう一人は……初めて見る。スーツを着た二十代後半くらいの綺麗な女性だ。年は俺よりも少し上に見える。彼女の周囲には、そこだけ浮き彫りになっているかのように、どこか清らかでなおかつ威厳のあるオーラが放たれていた。彼女が話しかけている隣の男と同じで、ジャケットとパンツは真っ黒だった。茶色い髪を肩まで下ろし、モデルのように体が引き締まっていて、程よい隆起があった。首元には金色のペンダントがあった。遠くてよく見えなかったが、間近で見なくとも、雰囲気でそれだと分かった。男が黒い作業着の胸に着けていたバッジと同じ模様だ。――金の八芒星と、とぐろを巻く蛇。そしてその片方の目は赤い光を投げかけているようにこちらを睨んでいる――。

 スーツの女が話している内容が、かすかにこちらにも届いてきた。

「いいですか。今度は失敗しないように。同じポイントであれば<迷いの間>に入ったとしても見つけられますが、<浮世>が違うと探すのがとても大変なんです。<浮世>が無限にあるのはご存知ですね。その中から<異常体>がいる一点を見つけるには、一旦もどって本部の支援を請わなければなりませんから」

 と、彼女はそこまで言うと、あたりを見渡した。

 俺は瞬時に身を引いて、体を縮こまらせた。しかし、彼女がまた言葉を続けたのを聞いて安堵した。

「……確かに、今回の件はイレギュラーです。私もほとんど遭ったことのない事態ですから、あなたがミスしてしまうのも無理ないことです。しかし、上は今回の件を重く見ています。多くは語れませんが、彼の登場で<大河>に歪みの連鎖が起きているのです。トップは珍しくはっきりとした指令を我々の部署に送ってきました。これは異例です。それほど、事は重大だと……」

 刃物で断絶されたかのように、女は突如として話すのをやめた。

 そして今度ははっきりと俺とカレンの方を向いた。

 姿をビルの壁に隠している二人には、人をなだめるような優し気な声だけが聞こえた。

「そこにいたのね。よかった……。びっくりさせちゃったわね。もう大丈夫よ」

 俺とカレンは息を殺しながら互いに目を見合わせた。

 姿は見られていないはずなのに見つかってしまったことにひどく動揺し、心臓は跳ねるような動きで鼓動を繰り返した。

 しかし、俺の脚はすでに走る準備をしていた。

 俺はカレンの手を握り直した。手のひらは互いの汗で湿っていた。ほんの一瞬の間、俺は彼女に合図を送った。

 曲がり角の向こうではまだ女は喋り続けている。

「――今から私たちが……」

 その瞬間、二人は駆け出した。

「ちょっと!! 待ちなさい!!」

 普段なら大きな車が数えきれないほど走っており、ざわめきに満ちているはずの大きな通りを、俺とカレンは走っていた。

 スーツの女と作業服の男が追いかけて来ている。静まり返った街中に反響するアスファルトを蹴る靴の音で分かった。

 スーツの女は依然として叫んでいた。

 俺は振り返らなかった。走り続けた。首を何度もめぐらして出口を探した。

 走りながら俺は考えた。

『もし並行世界というものがあるのなら』

 二人は次から次へと曲がり角を曲がった。黒い髪はなびき、青いスカートは揺らめいた。

『このまま二人でいられたら……。時間と世界を超えれば、きっと、誰にも邪魔されずに……』

 ビルの間の暗い裏道に入った。日の光は少なく、道幅も狭かった。

 しばらく進むと、一つのドアが目に飛び込んで来た。

 そのドアはまるで俺たちを待っていたようだった。四方が縁どられたように淡く光っており、他のドアとは比べ物にならないほど際立って見えた。俺はこれだと思った。

 そして、迷わずドアノブを握った。

「待って!」

「待ちなさい!」

 遠くでスーツの女と作業服の男が叫んでいるのが聞こえる。

 ドアを開く瞬間、カレンを見た。

 真っすぐ見返す瞳の奥には、これまで共に積み上げてきた時間の奥行きがあった。

 俺を信じてくれているのを知って、安堵した。

 ドアノブを勢いよく回した。

 二人は、誘い込むような、どこまでも真っ白な光に飛び込んで行った。

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