第十六話 再び時が止まった世界へ
「……なに……これ……?」
カレンは窓から見える真っ赤に染まった空を見て言った。
俺は彼女と同じように窓際でその光景を目にしていた。硬直している横顔が目に入った。
彼女は時計を見たが、夕方の時間帯には三時間以上も早かった。「夕焼け空……じゃないよね……」横にいる俺を見た。
俺はまっすぐ見ていることしかできなかった。膝が震えていた。やはり夢や幻覚ではなかった! 俺があの時見た”赤い空”は現実だったのだ。
元々いた世界で俺が見た通り、その血の色は街全体を覆い、無数のビルに濃い赤色の雨を降らせているかのように、見慣れた日常の光景すべてを侵食していた。最初にこの空を見た時に感じた存在そのものが脅かされるような激しい恐怖感が蘇ってきた。
この空は一体何なのか? なぜ並行世界であるはずのこの世界でも現れているのか?
俺はその謎について冷静に考える前に、カレンの手を取っていた。
「どうしたの?」
彼女は驚きに身を縮こまらせていた。
「今すぐ逃げよう!」
手を握ったまま、俺は玄関へと急いだ。
「ちょ、ちょっとミノル!?」
靴を履き、ドアを開け玄関を抜けると、先ほどの赤い空がさらに大きく見え、生々しく二人を圧倒した。そのまま廊下を駆けてエレベーターへ向かった。
が、それはいつもよりはるかに重々しい金属の塊へと変わっていた。これもあの時見た通りだ――。気味の悪いほど、”存在の活動”そのものが静止していた。下へ向かうボタンを連打したが、無駄だった。
「やっぱりダメか! 階段で降りよう!」
高層階から地上へと続く長い階段をらせん状に降りていると、気が動転している二人の心情はさらに不安定なものになった。
酔うほどに長い階段を下りながら、カレンはさっきから何度も俺の名を叫んでいた。
「ミノル! ちょっと待って! なんで走ってるの!?」
「後で説明する!」
肺が引き裂かれそうな苦しさを覚えながらようやく一階へと着き、出口へ転がり出た。
二人はしばらく激しい呼吸が収まるまでそこに座り込んだ。その間、手はしっかりと握られたままだった。
荒々しい動悸を鎮めた二人はおもむろに立ち上がり、周りを見渡した。地上から見てもやはり街はすべてが赤く染まっていた。グロテスクなほど日常は塗り替えられていた。
二人は示し合わせたかのようにその場を動かず、先ほどからうっすらと感じていた、異様な静けさに耳を傾けた。
物音一つしない。世界中の空気が全て抜けて、真空にでもなったかのように、無音だ。
人一人いない。車は一台も通っていない。野良猫だろうと野良犬だろうと生物一匹さえ、その気配がない。毎日のように通っているコンビニには客もいなければ店員もいない。丸切りもぬけの殻と化した店内の奥は赤黒かった。このコンビニは普段ならば青空に同調するような青を基調とした外観をしているのだが、それを軽々と上書きするような強い赤に覆われていた。俺はそれを見て吐き気すら感じた。
前に感じた戦慄は新しく上書きされ、強い酩酊のような気持ち悪さの中でも俺の感覚は明晰さを得てより正確にいまの状況を捉えていた。
何一つとして”物質の活動”というものが感じられない、外見だけを残して世界のあらゆる物体が”死んだ”かのようだ。ついさっきエレベーターのボタンを押した時に感じた違和感と、以前この赤い空の下でドアノブを回そうとした時に感じた違和感に同じものを感じた。世界が露骨に俺を拒んでいるような感覚……。
俺は再びカレンの手を引っ張って「行こう」と促した。
しかし、彼女の腕は伸びきったまま、動かなかった。
「どうした?」
「……脚が動かないの……」
うつむいたまま震える声で言った。
彼女に向き直った俺は、青いデニム生地の両肩に触れて、焦っている感じが伝わらないように出来るだけ穏やかに語りかけた。
「大丈夫。信じて。……カレンはただ俺の手を握って付いて来てくれるだけでいい。そしたらきっと、ここから出られるから」
カレンは顔を上げた。その目は彼女に告白する前に見た目とまるで違っていた。
「ここは……どこなの?」
俺は少しためらった後こう言った。
「正直、詳しくは分からない。でも、俺は前にここに来てる。この赤い、無音の世界に。だから、この後に起こることは何となく分かる」
「……一体何が起きるの?」
「黒い作業服の男が来る。その男はきっと俺たちを捕らえようとする。どうやら、俺たちはこの世界にとって異物みたいなんだ」そこで言葉を切って周りを見渡した。視線をカレンに戻した後は急かすような調子に変わった。「あまり長く説明していられないんだ。すぐにやって来る。だから、ね」勇気づけるように彼女の手をギュッと握った。




