後編
「受験の受の漢字も書けないお子ちゃまのくせに、えらそうに口出ししないで」
一週間前の穏やかだった時とは別人のような雰囲気で、姉は碧空に冷たい視線を向けた。
相変わらずな静空と母の口論に、碧空が思わず「そんなにカリカリしなくてもいいじゃん」と口出ししてしまったのだ。
「ちょっと、静空。碧空に対してなんて言い方するの」
母が眉をひそめて注意した。静空は小さく舌打ちする。
「……なんだよ」
ギスギスした空気が嫌で、二人に仲良くしてもらいたかっただけなのに。
りくが何したって言うの。何も悪くないじゃん。なんで姉ちゃんにそんなに怒られなきゃいけないの。
「姉ちゃんそんなにりくのこときらいなの!」
「別にそんなこと言ってないじゃん。被害妄想やめてよ」
「ほら、むずかしい言葉わかんないからってバカにしてるでしょ!」
ヒガイモーソーとかわかんないし。ごちゃごちゃ難しいのは嫌いだ。
「してないし。八つ当たりしないでよ」
静空の眉間に深く皺が寄る。
「八つ当たりしてるのは姉ちゃんの方でしょ! 最近いつもトゲトゲしててこわいし! いっつもイライラしてる姉ちゃんなんか、きらい!」
叫んでから、言いすぎたかと青くなったのは、一瞬だった。
無表情になった姉が、眉ひとつ動かさずに吐き捨てる。
「碧空だって、いつも邪魔しかしないクソ弟のくせに。うっとうしい」
頭にさっと血が昇った気がした。
「碧空! 静空! あなたたちなんてこと言うの!」
母が叱る声も、入って来なかった。
ただ頭の中が熱くて、悔しくて悲しくて。
ぐっと歯をかみ締めて、拳を握って。
何も言わずに、碧空はそのまま家を飛び出した。
*
家を出た途端、冷たい雨粒が碧空の頬を打った。
雨だ、と思うと同時に、碧空の足は森へと向かっていた。
ああ、寒い。
パラパラと降っていた雨は、だんだん強くなってきて、すぐ土砂降りになった。
髪も、服も、靴も、全部びしょ濡れで、けれど雨はお構いなしに激しく打ちつけ続ける。
寒くてどうしようもなかった。なのに頭の中は熱くて、燃えそうだ。
クソ弟とか、うっとうしいとか、初めて言われた。
今までにも冷たい態度をとられたことはあったけど、面と向かってあんな風に言われたことはなかった。
いつも邪魔しかしない、なんて。そんなこと思われてたんだ。
曲がりなりにも、八つ上の姉が碧空は好きだった。小さい時はよく一緒に遊んでくれて、面倒を見てくれて、色々なことを教えてくれた。
いつも後ろをついてまわる碧空を、りっくん、と優しく呼んで可愛がってくれた姉が大好きだった、いや、今でも大好きなのに。
初めて明確に示された拒絶が悲しくて、悔しくて、心の中がぐしゃぐしゃだ。
走る、走る、走る。
息が上がって苦しい。
涙がボロボロと零れ落ちた。
「ばかぁ……」
いつだったか、転んで怪我をし、泣いていた碧空に、「男の子なんだから泣かないの」と言ったのは姉だった。
「姉ちゃんのばかぁー!!」
叫びながら走る。
碧空の声は、雨に吸い取られて響くことなく消えた。
池に来ても、白いワンピースの少女の姿はなかった。
ただ、池の水面で雨粒が激しく跳ねているだけだ。ざぁ、と雨の音がそこら中から響いて、他には何も聞こえなかった。
「いないじゃん……」
落胆の声がでた。
池のふちに座り込む。がっかりすると同時に、訳もなくむしゃくしゃする。
「時雨の妖精じゃないのかよ! シエルゼなんでいないの!」
「呼んだ?」
突然後ろから聞こえた声にはっと振り向くと、青いマフラーをした白いワンピースの少女が笑っていた。
「シエルゼ……」
「ごめんね、こんな強い雨じゃ時雨って言わないのかなって思って」
「……わかんない。時雨教えてくれたのだって姉ちゃんだし」
「泣いてるの? どうしたの。男の子なんだから泣いちゃダメだよ」
雨は激しく降っているのに、やっぱりシエルゼの髪はサラサラとなびいている。顔も服も濡れてない。雨が全部、シエルゼを避けている。
いつ見てもやはり、不思議な光景だ。
「……姉ちゃんみたいなこと言わないで」
言いながら、碧空はゴシゴシと目をこする。
けれどもこすったところでまたさらに上から雨が降りつけて、大した意味はなかった。
「碧空、目をこすったらダメだよ。赤くなっちゃうよ」
「……」
碧空は目をこするのをやめて、隣に立ったシエルゼを見上げた。
目をこすったら赤くなっちゃう。そんなことを、昔姉にも言われたっけ。
ああ、もう。さっきから姉ちゃんのことばっかり。
「シエルゼが姉ちゃんに似てるからわるいんだ」
突然の言葉に、シエルゼは目を丸くする。
当然だ、シエルゼは碧空が泣いてる理由も、碧空の姉のことも何も知らないのだから。
「お姉さんと喧嘩したの?」
尋ねたシエルゼに碧空はこくんと頷いた。
シエルゼも、碧空の隣に座り込む。
「わたしもね、弟いるんだ」
「でも、ママもパパもいないって……」
「八つ年下なの」
「……シエルゼ、八歳でしょ」
「気づいた? 産まれたての赤ちゃん。ママもパパも弟のことばっかだから、さびしくなっていつもこの森に遊びに来てた。その時に、この池を見つけたんだよ」
碧空は、シエルゼの横顔をちらりと見た。シエルゼは、静かにじっと池を眺めていた。
「その時、雨が降ってね……その時から、ずっとここにいるの」
「ふぅん……」
相槌を打つけれど、結局シエルゼは何なのか、碧空にはよく分からなかった。
「もうちょっと弟と歳が近かったら……例えば、今のわたしと碧空みたいに一歳差だったら、そんなふうに思うこともなかったのかなって思うの」
「でも、年が近いとケンカも多いんだって、友だちが言ってたよ」
「……そうかな。もっと気持ちは近くなれたと思うの」
シエルゼは、三角座りをして、腕の中に顔を埋めた。碧空も隣で三角座りをする。
「……それはりくも思う。受験大変なのは分かるけど、りくはまだ小学一年生だし、気持ちわかんないでしょって言われても、わかるわけないよ」
碧空にとって、八歳も離れている姉は、大人だ。ママとパパと同じようにわがままを言ったり、構ってもらいたい相手なのだ。
けれどそれは、姉にとっては受け止めきれないものだったのかもしれない。
「姉ちゃんに嫌われちゃったかな……」
情けない声が出た。
「碧空……」
「もう、一生しゃべってもらえなかったらどうしよう……」
悔しさはいつの間にか溶けてなくなって、悲しみと不安だけが残る。
不安を口に出してみると、ますますそれがムクムク膨れ上がるような気がした。
また、あの冷たい目線を向けられるのかな。うっとうしいって言われるかな。それとも、もう無視されちゃうのかな。
じわりと涙が滲み出た。
「碧空、大丈夫だよ、きっとお姉さんそんなこと思わないよ。今はカッとなってるだけだよ、きっと」
シエルゼが、優しく碧空の背中を撫でた。その手が姉の手に重なって、ますます涙が出てくる。
「ほら、碧空、泣かないよ、男の子でしょ……大丈夫だよ、だいじょーぶ」
さぁぁ、と強い風が吹き抜ける。濡れた服が肌に張り付いた上に冷たい風が吹きつけて、碧空はぶるぶるっと震えた。
よく考えたら、何も持たずに家を飛び出したのだった。上着も着ていない。道理で寒いはずだ。
そのとき、腕に顔を埋めていた碧空の首周りに、ふわりと暖かいものがかけられた。
ぱっと顔を上げる。
シエルゼが、「碧空、目があかーい」とくすくす笑った。
暖かかったのは、青いマフラー──姉がくれたマフラーだ。
マフラーからはかすかに姉の香りがした。
──もう、涙は出なかった。
それから、二人はぽつぽつと言葉を交わす。姉がどうだの、弟がどうだの。
話は盛り上がり、気づけば随分と時間が経っていた。
「ねぇ、わたしそろそろ行かなきゃ」
「えっ、どうして」
唐突にそう言ったシエルゼに、碧空は目を丸くする。今までシエルゼはいつも、碧空を見送る側だった。
「どうしても。ここにいちゃいけない気がするから」
「また会える?」
立ち上がったシエルゼに、碧空は不安になって尋ねた。
「もう会えないと思う」
「どうして?」
「もうすぐわかるよ」
シエルゼはにこりと笑った。姉によく似た笑顔に、碧空は何を言えばいいのかわからなくなる。
「今までありがと。碧空と会えてよかった。きっとわたし、誰かが来るのをずっと待ってたんだよ。さびしいから、だれかと遊びたかったんだ。それで、碧空が来てくれて、いっぱいおしゃべりできて。雨のせいであまり遊べなかったけど、満足したみたい。だから、もうここには来ないよ」
「……そうなんだ」
「ありがとね、碧空。──バイバイ」
シエルゼは、碧空に小さく手を振ると、池にむかって──跳んだ。
「えっ!?」
思わず声を上げる。
シエルゼは──水面に触れる瞬間、消えた、ように見えた。
碧空は、身を乗り出して池を覗き込む。
何もない。ただ、雨粒が作りだす波紋がいくつも見えるだけだ。
「ちょっ、りっくん! 何してるの、危ないよ!?」
突然響いた声に、碧空は驚いて振り返る。
雨がやんでいた──いや、碧空の上だけ、やんでいた。
「ね、姉ちゃん!?」
碧空の後ろで立っていたのは、紛れもなく姉だった。
目を見開く碧空に、バツの悪そうな顔をしながら手に持っていた碧空の傘を手渡してくる。
雨が止んだ、と感じたのは静空が自分の傘を碧空の上でさしていたからだった。
「そのマフラー……は今はいいや。りっくんめっちゃ濡れてんじゃん。ほら、立って。早く帰るよ」
「あ、うん……」
うながされるままに立って、碧空は姉を見上げた。
「さしなよ。濡れるよ」
「分かってるってば」
渡された傘をさそうするけど、やっぱりなぜか開かない。
「なにやってるの? やるから、ちょっと持ってて」
しびれを切らした静空が、自分の傘を碧空に持たせて、碧空の傘をさそうとする。けれど、静空がやっても傘は開かなかった。
「……骨折れたりしたらいやだし、家帰ってからまたゆっくりやってみよっか」
「……うん、そうする」
結局、姉の傘に二人で入って、家に向かって歩き出す。
ニ人とも無言で、ただ雨の音が響いていた。
「あのね」
ふいに、静空が呟いた。
「さっき、言ったの。言いすぎた。ごめん」
「……うん」
「邪魔とか、うっとうしいとか……いつもじゃないけど、邪魔って思うことはある。けど、碧空のせいじゃないし、クソとか、本当は思ってないから。イライラして碧空に八つ当たりした。ごめん」
「……ママに怒られたんでしょ」
ぽつぽつと。
ぎこちない会話のキャッチボールが続く。
「……それもあるけど。これはほんとに思ってるから。碧空が家出てって、頭冷えた。ほんとごめん」
「うん。……あのね、りくは、嘘ついてないよ」
「うん」
「最近姉ちゃんずっとピリピリしてて怖いし。ママともしょっちゅうケンカしてて居心地悪いし。イライラしてる姉ちゃん見たくない」
「……うん」
「イライラしてる姉ちゃんはイヤ。でも姉ちゃんは大好きだから。もっと笑ってて欲しい」
「……ん、そうだね。ごめんね、気をつける」
「じゃありくも、姉ちゃんの邪魔しないように、気をつける」
「わかった。ありがとね」
静空がかすかに笑った気がした。
森を出て、家が見えてきた。
碧空は、まだもう少し会話を続けたくて、歩くペースを少しだけ落とした。
無意識なのか、気づいてか、姉もそれに合わせてくれる。それが、とても嬉しかった。
「この前話したようせいさんね、あそこに居たのはさびしかったからなんだって。今日また会ったんだけど、りくと話して満足したから、もう会えないって」
「へぇ……残念だね」
「どうしてかって聞いたら、もうすぐ分かるって言われたんだけど、姉ちゃん、わかんない?」
「分かるわけないじゃん、私妖精さんじゃないんだから」
「けど姉ちゃん、ようせいごっこしてたんでしょ? シエルゼも、姉ちゃんによく似てた」
「……シエルゼ?」
「うん。ようせいさんの名前。シエルゼね、姉ちゃんに似た顔で、目がすーっごい綺麗な青色で、髪の毛は茶色でサラサラで、めっちゃきれいなんだ」
「……」
「姉ちゃん?」
黙り込んでしまった姉の顔を見上げる。
「ねぇ、碧空……」
「どうしたの?」
「それ、私かもしれないって言ったら、信じる?」
「え?」
「前、言ったでしょ。小さい時に妖精ごっこしてたって。あれ、碧空が産まれたときぐらいだったかな、お母さんもお父さんもりっくんにかかりきりでさ。私つまんなくて、一人であそこでずっと遊んでたんだ。一人でも寂しくないって自分に言い聞かせてたけど、やっぱり寂しかったんだよね」
突然始まった話に、どこか聞いたことがある、と碧空は思ってから、すぐにシエルゼの話だと気づいた。
「それで……ある日、あそこで遊んでる時に雨が降ってきて。その時に寂しくてしょうがなくて、耐えきれなくなって、泣いたの。その日、そういえば白いワンピース来てたんだよね。きっと、その時にの私の思いとか、そういうのがあの森に残ってたんじゃないかな」
「……そっか」
全てが繋がっていく気がした。
シエルゼの言っていた、年の離れた弟のこと。ママもパパもいなくて、ずっと森にいると言っていたこと。
「シエルゼって名前はなんなの? 姉ちゃん、自分だってどうしてわかったの」
「妖精ごっこでね、自分で名前考えたって言ったでしょ。あれね、私の名前、しずくっていうのと、空って漢字から取ったの。空がフランス語でシエル。雫がロゼ。シエルとロゼ、合わせてシエルゼって。お母さんの携帯借りて、フランス語一生懸命調べて考えたの。懐かしいなぁ」
ふふ、と姉が笑う。その姿に、シエルゼが重なって見えた気がした。
「で、でもさ、シエルゼは目が青かったよ? 髪も姉ちゃんより茶色くって、サラサラだったし」
「あー、それね……。多分、私の理想だと思う。妖精ならこんな見た目してるかなって、想像してたやつ。ていうか、見てみたかったな、そんな私」
「……シエルゼがもう行かなきゃって言ったの、きっと姉ちゃんが来てたからだよ。姉ちゃんには会えなかったんだ」
「あはっ、そうかもね」
二人は家に着いた。会話に、ぎこちなさはもう感じられない。
いつの間にか、雨も止んでいた。
バサバサっと、静空が傘を振って水滴を払う。真似をして碧空も傘を振った時だった。バシッ! と鋭い音を立てて、碧空の傘が開いた。
「「うわっ」」
二人は揃って驚いた声を上げた。そのまま、顔を見合わせる。堪えきれずに、ぷっと同時に吹き出した。
「もう〜開いたじゃん。なんだったの、あれ」
「わかんない。りくのせいじゃないよね、姉ちゃんがやっても無理だったもんね」
「うん、確かに無理だった。なんだろ、おうちパワーってやつ?」
「おうちパワーって、なにそれ、きいたことないよ」
ははっと、二人の笑い声が玄関に響く。
それに誘われたかのように、一粒だけ、雲が雫を落とした。