中編
また、雨だ。リビングのソファに座ってテレビを見ていた碧空は、窓に打ちつける水滴に気づいた。
今は母がいないから、家の中が静かだ。
どすりと大きな音を立てて、静空が碧空の隣に座る。
腕も足も組んで、テレビを見つめる横顔は不機嫌そうだ。
「姉ちゃん、勉強しなくていいの?」
「うっさい。碧空までそんな事言わないで」
「……ごめんなさい」
最近の姉はいつもトゲトゲしていて、怖い。碧空は大人しく黙ってテレビを見ることにした。
二人の沈黙を埋めるように、テレビの明るい音が響く。
それが、やけにうるさく感じた。
「こないだ、雨降った時にね、りく、あの森の池のところに行ったんだ」
「……」
静空からの返事はない。気にせずに、碧空は続けた。
「女の子に会ったよ。雨もふっててすごくさむいのに、ワンピース一枚で、さむそうだった。でも、さむくないって言うんだ」
「子どもの強がりでしょ」
「そんなことない。そでなしの白いワンピースで、はだしだったんだ。森に住んでて、ママもパパもいないんだって」
「……」
静空は、テレビに向けていた視線を碧空に向けた。じっと見つめてくる姉に、碧空は戸惑って「なに?」と尋ねる。
「そんなの、なにかと見間違えたんじゃないの?」
「ちがうよ! ちゃんといたもん!」
言い返した碧空に、静空は肩をすくめた。
「はいはい。じゃ、何かしらの妖精かもね?」
「ようせい?」
「雨とか、森とかのさ。私が教えた、池のほとりの所でしょう?」
「うん」
妖精って……この間の本に出てきた、神さまのようなものだろうか。
静空は、懐かしむような声で続ける。
「私も昔よくしたなぁ、妖精ごっこ。小洒落た名前考えて、妖精になりきってあそこで駆け回ってたんだよ」
「え、姉ちゃんが?」
最近難しい顔ばっかりしている姉が、妖精ごっこ? なんだか想像しにくい。
「なによ、私だってそういう時代があったの」
ムッとした顔の静空に、そっか、と頷いた。
確かに、つい一、二年前はまだ静空ともよく一緒に遊んでいた。あの池のほとりを教えてくれたのだって、静空なのだ。
「そうだ! 姉ちゃん、今から池のとこ行かない? いっしょに会いに行こうよ」
いいことを思いついた、と目を輝かせた碧空に、静空は露骨に嫌そうな顔をする。
「妖精さんに? 嫌だよ、雨降ってるし」
「大丈夫、すぐやむよ。こないだもそうだった!」
「わかんないでしょ、そんなの。それに、私勉強しなきゃだし」
「勉強してないじゃん」
「今から始めるの。行くなら一人で行けば」
「ちぇっ。……わかったよ」
碧空は口を尖らせた。久しぶりに姉とゆっくり話せて、嬉しかったのだ。一緒に遊べるかと期待しただけに、断られたのはかなり残念だった。
上着を着た碧空の首に、静空がマフラーを巻く。
「マフラーなんていらないよ、そんなにさむくないよ」
眉をしかめた碧空の頭に、ポンと静空が手を乗せ、かすかに笑った。
「妖精さんに渡してやりなよ。ワンピース一枚なんでしょ」
久しぶりに見た、優しげな微笑みだった。やっぱり、シエルゼの笑顔に似ている。
「……わかった。これ、姉ちゃんの?」
マフラーは、見慣れないものだった。綺麗な青色で、優しい手触りだ。
「うん。ボロボロになってきて、そろそろ買い換えようと思ってたの。あげる」
シエルゼの瞳の青に、よく似ていた。きっと彼女によく似合う。ありがと、と碧空は姉にお礼を言った。
窓から外を見ると、まだ雨は振り続けている。さっきよりも激しい。
「……しぐれ」
ぽつりと、静空が窓から外を見て呟いた。
「え?」
「こういう、今の時期によくある、降ったりやんだりする雨のこと。時の雨って書いて、時雨っていうの」
「へぇ……」
しぐれ。時の雨で、時雨。すてきな響きだ。シエルゼに教えてあげよう。
そう思いながら、碧空は家を出た。
*
「やっほー、忘れ物くん」
雨に濡れながら池につくと同時に、また後ろから声をかけられた。
振り向くと、碧空の傘を差し出しているシエルゼがいた。前と同じ、白いワンピースだ。
「あ、ありがと。忘れてたんだよ」
「また濡れてる。寒いでしょ」
「あんまり」
傘を受け取る。折角だから差してみようとしたが、壊れているのか、やっぱり開かない。
「そのマフラー、すてきだね」
「あ、これ、シエルゼに渡そうと思って」
碧空がマフラーを外すと、シエルゼは目を丸くした。
「えっ、いいよ! 寒いでしょ? わたし、寒くないもん」
「姉ちゃんがくれたの。ようせいさんへ、って」
「妖精さん?」
妖精、という言葉にシエルゼは不思議そうに首を傾げる。
「妖精って、わたし?」
「違うの? じゃあやっぱり、神さまなのかな。シエルゼのこと話したら、ようせいじゃないかって、姉ちゃんが言ってたんだけどな」
シエルゼは嬉しそうに目を細めた。
「ほんと、妖精さんに見える? 嬉しい、ずっと妖精になりたかったの。妖精ごっこしてたから、気づかないうちになれてたのかな」
受け取ったマフラーを巻いて、シエルゼはニコリと笑ってみせた。
寒そうなワンピースと、もこもこのマフラーはひどくちぐはぐに見える。けれども、シエルゼらしいとも思った。
「シエルゼは、時雨のようせいだね」
「しぐれ?」
「時の雨って書くんだって。こんな感じの、降ったりやんだりする雨のこと」
「どうしてそう思うの?」
「時雨が降ったらシエルゼに会えるから」
「降ってなくてもきっと会えるよ」
「会えなかったよ。あれから、晴れてる時に一回来たけど、いなかったもん」
「ほんと? 気づかなかった」
驚いた顔のシエルゼに、碧空は頷いて見せる。
「そっか。じゃあわたし、時雨の妖精って名乗ることにする」
「うん。すてきな響きで、いいと思うよ」
「シエルゼよりも?」
シエルゼは、少し膨れたような顔をして聞いた。
そういえば前、へんだって言ったんだっけ、と碧空は思い出した。
「ううん。シエルゼも、きれい」
「そっか、嬉しい」
しとしとと、雨は降り続ける。
碧空とシエルゼは、他愛のない話をし続けた。
隣に座って、何か話してはくすくす笑い合う。そんな時間が、ただただ心地よかった。