前編
「静空。いい加減になさい」
そんな声が耳を打ったのは、碧空がリビングのソファで本を広げて読みふけっていた時だった。
「んー、分かってるー」
──少年は、空にうかぶ少女にたずねました。
──君はだぁれ?
──空の神さま。くもを作ったり、雨をふらせたりするのよ。
「いつまでそうやってダラダラしてるの。受験生でしょう」
「うるさいなぁ、あと五分」
──じゃあ、ぼくをくもにのせてくれない?
──それはできないわ。神さましか、くもにはのれないの。
──女の子は、かなしそうに言いました。
「さっきもそう言ってたでしょ。いい加減勉強しなさい」
「勉強、勉強って。言われなくても分かってるし」
──どうして?
──わるい人間がのると、くもはきえてしまうの。
──ぼくはわるい人間じゃないよ。
「分かってるならどうしてしないの? このままだと静空、高校受験失敗するわよ。この前の模試だってひどかったじゃないの。時間だってもうあまりないのよ」
「ったくもう、分かってるから! ちょっと休憩してただけじゃん!」
「静空。なんなの、その言い方。お母さんはあなたが心配なの。ただでさえ先生に難しいかもって言われてるのよ」
──そこまで言うなら、とくべつにのせてあげる。
──少女は、少年にむかって手をさしのべました。少年がその手をとろうとした、そのとき──
「うるっさいなもう、勉強すればいいんでしょ、勉強すれば!」
碧空は、膝の上の本をぱたりと閉じた。
(こんなの、集中してよめないじゃん)
最近ずっと、姉と母のせいで家の空気がピリピリしていて、居心地が悪い。
窓の外を見る。今にも雨が降り出しそうだ。
少しだけ迷ったあと、碧空は上着と傘を引っ掴んで、家を飛び出した。
*
家を出て間もなく、ぽつ、ぽつと雨が降り始めた。冷たい雫が、碧空の髪を濡らす。傘をさそうとするけれど、何かが引っかかっているのか、上手く開かない。
碧空は諦めて、閉じた傘を持ったまま森へ向かった。
歩くこと十分ほどで、碧空は森に着いた。
もう秋の終わりだからか、森の見た目もだいぶ寂しくなった。落ち葉をざく、ざくと踏みつけながら碧空は奥に進む。
見上げると、冷たい雨粒がいくつも顔にうちつけた。木々の間から見えた空は、案外明るい。
「わぁ」
雲の間から差し込んでいる光が綺麗で、思わず碧空は声を上げた。
びゅう、と強い風が吹き抜ける。碧空はぎゅっと自分の体を抱きしめた。
「……さむっ」
ぞくぞくっ、と寒さが背筋を駆け上がってくる。顔も、濡れて冷えきっていた。
碧空は、早くお気に入りの場所に向かおうと足を早めた。
*
少しして、碧空は丸い、大きな池のほとりに出た。
池は青く澄んでいて、まばらな雨が水面にいくつもの波紋を生み出している。
ぽつ、ぽつと水滴が水面を打つ音が響く。
それをぽぉーと見つめながら、碧空はそばにある小さなしげみの元に座り込んだ。碧空の一番のお気に入りの場所だ。雨も少しは防いでくれる。
ずっと張りつめていた心が、ようやく緩んだ気がした。
「かさ、ささないの?」
突然響いた声に、碧空はビクリと顔を上げた。
「さむくないの? 雨」
碧空の前に、女の子が立っていた。
「姉ちゃん……?」
思わず、碧空は呟く。
「姉ちゃん?」
オウム返しに尋ねた少女は、怪訝そうに眉をひそめた。
「あ、いや、なんでもない!」
碧空は慌てて立ち上がる。
立ってみると、同じくらいの背だと分かった。
抜けるような真っ白な肌に、ぱっちりした青い瞳。柔らかそうな茶色い髪を胸元まで下ろし、綺麗な白いワンピースを着ている。不思議なことに、雨が降っているのに少女は濡れていない。髪も、顔も、服も。雨が全部、彼女を避けているようだった。
雰囲気が姉によく似ていたから驚いたが、姉は中学三年生で、小学一年生の碧空よりもずっと大きい。
それに姉ちゃんはこんな綺麗な青い瞳じゃなくて、りくと同じ黒い目だし、髪だってもっと黒くて硬そうだし、肌だってこんなに白くないし……と考えていると、少女はまた尋ねた。
「かさ、どうしてささないの? 雨、ふってるよ」
「さしたいけど、ひらかないんだ」
「寒くないの?」
「さむい。でも、そっちの方がもっとさむいでしょ。コートもきてないし、はだしだし」
彼女の着ているワンピースは薄くて袖なしだ。裾がふわりと広がって、風に優しくなびいている。
碧空の言葉に女の子は目を丸くし、ほんとだ、変なの、とおかしそうに笑った。
「わたしは全然寒くないけど、君がぬれてるの見ると、寒いな」
「さむくないの!?」
碧空は驚いて、思わず声を上げる。
「全然」
「ママに怒られない? カゼひくよって」
「ママ、いないもん」
「いないの? じゃあパパは?」
「いない。わたし、ずっとここにいるから」
「……へんなの」
碧空の言葉に、女の子は寂しそうな笑みを浮かべた後、ねぇ、と話を変えた。
「名前、なんて言うの」
「りく。むずかしい漢字の『あお』に、空で、碧空。きみは?」
「わたしは、シエルゼ。すてきな名前でしょう?」
胸を張って言うシエルゼ。確かにすてきだ。でも、それを認めるのはなんとなく悔しい。
「……へんな名前」
「へんじゃない。かっこいいって言って」
シエルゼが、怒ったように頬を膨らませる。眉が、きゅっと真ん中に寄った。
「絶対りくの方がかっこいいもん。シエルゼって、ふつうじゃないよ。外国人みたい」
「……だって、わたし特別なんだもん」
ふいっとそっぽを向いたシエルゼの髪をなびかせて、風が吹く。雨はいつの間にか、止んでいた。
「ねぇ、シエルゼは何さい? りくは七さいで、今小学一年生」
「わたしは八さいだよ」
「本当? じゃあ、りくより一つお姉さんなんだ」
そう言った碧空を、シエルゼはじっと見つめてきた。
「わたしも、弟ならきみくらい近かったらよかったのになぁ……」
「えっ、なに? 弟?」
聞き返した碧空に、シエルゼは慌てて首を振る。
「ううん、なんでもない!」
「……そう?」
ぱっと明るく笑ってみせたシエルゼに、碧空はまあいいか、と追求をやめた。
びゅうう、と風が吹き抜けて、池の水面に波紋を生みだす。
冷気が背中をかけ上ってきて、碧空はぶるぶるっと震えた。
「やっぱり、ちょっとさむいや。りく、もう帰るね。また来ていい?」
尋ねると、シエルゼは澄んだ青の瞳を細めて頷く。
「碧空が来てくれたらうれしい。待ってるね」
じゃあね、と碧空は立ち上がり、家に向かって歩き出した。
ぽつ、と木の葉からすべり落ちた雫が額に当たった。ひんやりとした感触が心地いい。
後ろで、シエルゼが自分を見ている気がした。
ぽつり。
また雫。
振り向くと、遠くなった池のほとりにいると思ったシエルゼの姿は見えなかった。
(もう、行っちゃったのかな?)
少し不思議に思いながら、また歩き出す。
傘を忘れてきてしまったことに気づいたのは、森を出た後だった。