煙突掃除のフリック 第九話
「そんな男が居て、エレーヌ殿の屋敷の中をうろついていたのか。そういう事は、もっと早くに知りたかった」
アンドレイは目を閉じ、かすかに震えながら呟く。その右拳は固く握られていた。
「エレーヌ殿! 聞こえたら返事をして下さい! エレーヌ殿!」
突然アンドレイは通路の方々に向かって叫ぶ。サリエルは咄嗟に身を屈め耳を塞ぐ。狭い場所なのでかなり耳に響く。
二人は少しの間、息を殺して返事を待つ。しかし暫くは何も聞こえず……
「お嬢様はダイニングには居りません……」
やがて遠くから、伝声管のように声が伝わって来た。この声はディミトリらしい。ダイニングの暖炉に向かって返答してくれたのだろう。
アンドレイはもう一度、帽子を見る。
「ここに帽子が落ちていたという事は、その怪人とやらはここを登って上に行ったか、ここを降りて下に降りたのだろう。とにかく登ってみよう」
◇◇◇◇◇
エレーヌは自分のリビングの隣のドレスルームに居た。
エレーヌは当然隠し通路の事は隅々まで熟知していたし、今もいたずら小僧を巧妙に追い詰めて、あと一歩で捕まえられる所だったのだが……また逃げられてしまった。
「不覚ですわ……」
エレーヌは謎のお面を外す。好きでこんな物を被っている訳ではない。今日の対アンドレイ用の特別製のメイクには三十分もかかったのだ。このお面はメイクの防護用だった。しかしこれは明らかに足手まといになっていた。
イブニングドレスというのもいけない。こんなものを着ていて、すばしっこい少年になど追いつける訳がない。
では何に着替えるか。ナッシュの服か。しかし……いたずら小僧は何故かナッシュの黒髪のかつらと付け髭をバケツに入れて逃げ回っている。そして帽子も見つからない……しかしシャツと上着とズボンはちゃんと通路にあった。
やはり汚れてもいい服はこれだけだ。エレーヌは急いでイブニングドレスを脱いでそのへんに掛け、男物のシャツを羽織る……
――エレーヌ殿! 聞こえたら返事をして下さい! エレーヌ殿!
その時。いつも化粧台の後ろに隠している秘密の出入り口の一つから、アンドレイの声が聞こえて来て、驚いたエレーヌは小さく跳び上がる。
「何やってるのよサリエルは!」
エレーヌは小さく呪詛し、とりあえず上着を掴んでワードローブの中に飛び込む。
……
静寂が流れる。
エレーヌはワードローブの扉を少しだけ開けて外を覗く。
シャツは着ていたし上着は持って来たが、ズボンを置いて来てしまったのだ。
化粧台がガタガタ揺れ出したのも正にその時だった。エレーヌは慌ててワードローブの中に戻る。
◇◇◇◇◇
化粧台がずるずるとスライドし、その後ろから、やはり四十センチ四方ぐらいの隠し扉が現れる。そこから這い出して来たのはアンドレイだった。
「エレーヌ殿……」
アンドレイは辺りの様子を見て、言葉をなくす。
「お嬢様!」
続いて、パニエ付きのスカートを窮屈そうに折り曲げながら、サリエルも現れ、こちらはドレスルームの光景を見るなり、悲鳴を上げた。
「きゃあああああああ!?」
「落ち着きなさい、サリエル嬢!」
「お嬢様!? お嬢様はどちらですか! いやああああああ!」
「サリエル嬢! ここには争った跡がありません、気丈なエレーヌ殿が黙って連れ去られるはずが無い! きっとエレーヌ殿は無事です!」
アンドレイの言葉は希望的観測に過ぎなかったが、サリエルはその言葉でほんの少し理性を取り戻した。そうでなければ、サリエルは今にもその辺りの戸でも窓でも破壊しそうな剣幕だった。
「アンドレイ様! お嬢様を、お嬢様を探さなくては!」
サリエルはアンドレイが仇敵だった事も変態呼ばわりしていた事も忘れ、すがるような視線を向ける。
「勿論です、こんな事が許される訳が無い。急ぎましょう!」
◇◇◇◇◇
いつワードローブの扉を開けられるかと青ざめていたエレーヌだったが、ワードローブの扉は開けられなかった。アンドレイとサリエルはリビングの方に突撃して行ったようだ。しかしいつ戻って来るか解らない。
面倒な事になった。だけど今の姿を二人に見られる訳にも行かない。
話は簡単なのだ。あの小僧を捕まえてかつらと付け髭を取り返し、口止めの為に少々折檻して、その後でイブニングドレスを着て、ダイニングへ行って何食わぬ顔で澄ましていればいい。
エレーヌは思い切ってワードローブから飛び出す。アンドレイもサリエルも居ない。
ドレスルームの床にはナッシュ用の男物のズボンが落ちていて、そのへんのスタンドミラーにはさっきまで着ていたイブニングドレスが掛けてある。
あの二人がこれを見てどんな勘違いをしたのか、エレーヌはそれを考えるのはやめにする。
スタンドミラーには男物のシャツを着て男物の上着を手にした自分が映っている。しかし下は下着しか履いてない。とりあえずこんな姿を見られなくて良かった。
エレーヌはナッシュ用のズボンを履き、ベルトを締める。
それから付け髭と帽子が見つからないので、化粧台に入っていた手ぬぐいを取り出し、まとめた髪を包み隠すように被り、顎の下で結んで留める。
かなり昔、父オーギュストが遥か極東の島国を訪問した時に買って来てくれた土産物である。緑色に渦巻きのそれは唐草模様というらしい。
これなら今日の力作メイクも保護出来るだろう。
エレーヌは再びスタンドミラーを見る。いや、これではいくら服が違っても、一目見て自分だと解ってしまう。
手ぬぐいの結び目を鼻の下で留めてはどうか。いいと思う。これなら一目で伯爵令嬢だとバレる事はあるまい。
さあ、今度はイブニングドレスではないし、巨大なお面もつけていない。今度こそあの悪戯小僧を捕まえてやる。
エレーヌは狼犬のような瞳を光らせ、化粧台裏の秘密の通路の入り口に飛び込んで行く。
今飛び込んで行ったエレーヌは、数秒後に同じ場所から慌てて飛び出して来た。
ちょっと待て。
自分は上手くアンドレイとサリエルを出し抜いてやったと思っていたが。その二人は今何をしているのか? 自分のリビングや寝室で!
エレーヌは青ざめ、化粧台の椅子をドレスルームの壁際に寄せ、その上に飛び乗り、さらにジャンプして天板を押す。天板の一部が動いて、向こうに屋根裏の空洞が見えるようになる。
エレーヌはもう一度飛び、空洞の淵に手を掛けると、懸垂力でその中へと這い上がる。