マッチ売りの少女アリーセ 第三十六話
「まさか貴女が反戦活動に興味をお持ちとは思いませんでしたな! 人は見掛けによらないもので」
「誤解ですわ、私はただ、ローザンヌ重工の不良品を回収しようとしただけで」
「不良品を回収? そもそもあの鉄の塊は何故あの場所に居たのですか! 運河沿いの倉庫から戦勝記念通りまで、あの車が通った後はそこらじゅうで路面が抉れ、石畳が割れている! 貴女達はあの車で何をするつもりだったのです!?」
伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートはカトラスブルグ警察の応接間で取り調べを受けていた。これは勿論彼女が町の最有力者の娘である事を考慮しての措置である。
ディミトリやサリエルはここには居ない。恐らく通常の取調室で尋問を受けているのだろう。
そこに、内勤の巡査が一人やって来て告げる。
「ミシリエ刑事……ストーンハート家の弁護団が十一人程来ておりますが……」
「……もう来たのか」
尋問を担当していた刑事、ミシリエは深い溜息をつき肩を落とす。エレーヌは嵩に懸かるでも嘲笑うでもなく、萎れた様子で首をすくめる。
「先日は失礼な事を申し上げましたわ。ごめんなさい」
「意外ですな。貴女が覚えていらしたとは」
応接間の入り口には早くもその十一人の弁護士の一部が現れた。前衛の弁護士は四人、皆急な呼び出しを受けたとは思えない程きちんと身嗜みを整え、準備万端という様子で整列している。
「それでは、御用がございましたら何なりとお申し付け下さい、屋敷の方に居りますので」
エレーヌはそう言ってソファーから立ち上がり、古めかしいドレスのスカートを軽くつまんで跪礼をすると、まだ刑事には何も言われていないにも関わらずさも当然のように立ち去って行く。
ミシリエは腕組みをしてソファに深く座り直し、エレーヌから目を逸らしたままむっつりと黙り込む。
四人の弁護士はそのままエレーヌの四方を固め立ち去って行く。その両側から入れ替わりに別の四人の弁護士が現れ、勝手に応接間に入って来る。
「お騒がせして申し訳ありません、エレーヌ嬢の嫌疑につきましては私共が承ります。勿論彼女は何ら我が国の法に触れるような事はしておりません、今からそれを御説明致したいと」
もういい、どうせ不起訴だから帰ってくれ! ミシリエは本音ではそう言いたかったがこれも仕事である。
◇◇◇◇◇
明けて日曜日。カトラスブルグでは夜半から雪が降っていたが、明け方には止んでいた。
「八時過ぎてるじゃない! どうして誰も起こして下さらないの!」
エレーヌは寝室を飛び出し自分のリビングに入ると、すぐにハンドベルを取って激しく鳴らす。
「サリエル! サリエル!?」
寝間着姿のままエレーヌは叫ぶが、サリエルは現れない。
焦れたエレーヌは衣裳部屋に行き、毛皮をあしらったワンピースとアストラハン帽子、ブーツなど、上から下まで黒い物を選んで取り出す。
「お嬢様、お呼びですか!」
そこへ、パタパタと軽い音を立てて駆け込んで来たのはサリエルではなく、屋敷の最年少メイドのポーラだった。ポーラも召使いのお仕着せではなく、灰色のごく地味な服を着ている。ポーラはすぐに、エレーヌの着付けを手伝いだす。
「ありがとうポーラ、貴女も教会に行くのね? 日曜日ですものね……だけどサリエルはどうしたのよ! まだ寝てるのあの穀潰しは!」
「サリエルさんは昨日お嬢様を助けに行くと言って飛び出したまま帰って来てません、ディミトリさんは警察署に居るから大丈夫とおっしゃるのですが、私、心配です……そのディミトリさんも凄く落ち込んでらっしゃるし、お嬢様も昨夜はいつもの元気が無い様子でしたから」
エレーヌの動きが止まる。エレーヌはディミトリの保釈手続きはしたのだが、サリエルの方は忘れていたのだ。
「そ……そうでしたわね、ホホホ。大丈夫よ、サリエルはちょっと別荘に居るだけだから」
エレーヌも勿論サリエルを助けに行かなくてはと思うのだが、今は他にする事がある。
「ポーラ、貴女は屋敷の皆と教会に行くの?」
「いえ、私は初等学校の友達と別の教会に……今朝はたくさん雪が降ったから、きっと雪遊びになります!」
ポーラは無邪気にそう言って笑う。エレーヌは衣装箪笥の引き出しから、自分には小さくなった毛皮の手袋を取り、ポーラに渡す。
「貴女にあげるわ。つけて行きなさい……それから、トマがまだ居たら玄関ホールで待つように言っておいて貰えるかしら?」
◇◇◇◇◇
トマに用意させた一頭立ての荷馬車に揺られ、エレーヌがやって来たのはアリーセが祈りを捧げていた教会だった。それはカトラスブルグの中でも、貧しい人々が多い地域にあった。
しかし礼拝はエレーヌが到着した時にちょうど終わってしまったらしい。
「もう終わりですの? まだ九時を少し過ぎたくらいじゃない」
「この辺りは仕方無いんです、お嬢様」
エレーヌが寝坊で遅れたせいもある。ただでさえ足の遅い馬が雪を恐れて行き足を渋らせたせいもある。しかし最大の問題はこの教会の礼拝時間は日曜日でも早いという事だった。
『梟の森』も『バルタザールの店』も、カトラスブルグの市民の多くも日曜日は休みだというのに。この地域には日曜でもやる事がたくさんある人が多いのだ。
「お金が無いと神にも祈れないなんて、不公平が過ぎますわ」
「日曜でも動いている工場は結構ありますね。設備を休ませるのは勿体ないと」
教会から急ぎ足で出て来るのは、そのままそういう職場に向かう人々なのだろう。そんな人々の中に、ダニエル医師も居た。
「あの死神、教会にも現れますのね」
「お嬢様、さすがにそれは行き過ぎた表現ですよ……あの人の出す薬で助かる人も居るかもしれませんよ」
「私もそんな事があればどんなに良いかと思いますわ、全く……」
ダニエルは早めに飛び出して来たかと思いきや、立ち止まり、後から出て来る人々の中から誰かを探していたが……やがて。
「アリーセ君!」
ダニエルが声高に呼び掛けると、運悪く周辺に居た人々の何人かが驚いて震え上がる。ダニエルに呼びつけられたのはアリーセだった。その迷惑な大声のせいで、アリーセにまで周囲から抗議の目線が飛ぶ。
エレーヌがここに来たのはアリーセに会う為だったが、会って話したいのはダニエル医師の事だった。この状況は都合が良いのか悪いのか、エレーヌにはまだ判別がつかなかった。
「こ、こんにちはダニエル先生」
「アリーセ君! 君にも診療所に来るように伝えたはずだぞ! お母さんを心配させるもんじゃない!」
ダニエルの声は常に大きい。これがまた迷惑なのである。仮にも医師として看板を出しているダニエルにそんな風に騒がれては、事情を知らない通行人は、あの少女は何か病気を持っているのだと思ってしまう。
「何の騒ぎですの! 私の友人がどうか致しまして!?」
そこへ、ダニエル程ではないが声の大きいエレーヌが駆け寄って来る。トマも少し遅れてやって来る。
「おはようエレーヌ。昨日は途中でごめんなさい、何故だか次から次へとお客さんに呼ばれて……お兄さんも。今日はお髭の眼鏡はいいんですか?」
アリーセはそう言って二人に屈託のない笑顔を向ける。トマはそれに照れ笑いを向けごく普通の挨拶を返した。一方エレーヌは、アリーセを背中で覆い隠すように、ダニエルとの間に割り込む。
「おはようアリーセ! 良かったわここで会えて、でもその前に……私、この方とお話ししなくてはいけない事がありそうですわ」
アリーセにはそう言って爽やかな笑顔を向けたエレーヌは、ゆっくりとダニエル医師の方に振り返る。羆を目の前にした、狼犬のような表情を浮かべて。




