マッチ売りの少女アリーセ 第三十四話
クリスティーナ・ローザンヌは困惑の苦笑いを浮かべたまま『梟の森』から出て来た。その左腕には娘のエレーヌ・エリーゼ・ストーンハートがしっかりと抱きついていた。
そのエレーヌの左手は、彼女の友達のアリーセの右手としっかり握り合わせられている。二人の手には同じ毛糸、同じ模様のミトンにはめられている。
「も、もういいでしょ、エリーゼ。さすがに外では恥ずかしいわ」
クリスティーナはそう言って、右手でそっとエレーヌの右腕を解く。
「本当にごめんなさい、お母様。私、どうしても友達のプレゼントだけは、額に汗していただいたお金で買いたかったの」
「それがあのおサルさんでしたの? 相変わらず考える事が極端な子ですこと」
「……だけどお母様も意地悪ですわ、この素敵なミトンが冗談だっただなんて」
エレーヌはまるで少し芝居心を身に着けた八歳の娘のように、頬を膨らませてみせる。クリスティーナはエレーヌがそんな仕草を見せて来た事自体に、眩暈を覚える程の衝撃を受けた。
「私、お母様のプレゼントに本当に驚きましたのよ! だけど私……いいえ、この話はもう少し時間が経ってからお話しますわ」
エレーヌは危うく最初に母から贈られたミトンが何故『梟の森』に戻っていたかを話しそうになったが、どうにかそれを止めた。この話はアリーセに聞かせる訳にはいかない。
善良なアリーセはそんな二人のやりとりをただ微笑みながら見ていたが。
「おおーい、アリーセ!」
歩道の彼方で誰かが彼女の名を呼ぶ……アリーセもエレーヌもその声のした方に目をやると、給仕用のスーツを着た男が一人、遠くで手を振っている。
「お客さんだわ! 私ちょっと行って来る!」
アリーセはエレーヌから手を離し、歩道を駆けて行く。あんな立派な服を着た給仕は、この辺りではバルタザールの店にしか居ないだろう。
エレーヌは驚いた。バルタザールはナッシュの頼み事を密かに引き受けていたらしい。
バルタザールは自分の従業員には喫煙を許さないが煙草を吸いたい客には自由に吸わせているし、客に頼まれればすぐに提供出来るよう何種類かの煙草を店に常備させているのである。その煙草を、出来るだけアリーセから買うように給仕に命じていたのだ。
「お母様、お待ちになって」
「も、もう、そこまでしなくても大丈夫よ、待っているでしょ? 私」
エレーヌは再び母の左腕に抱きつき、上目遣いに言う。クリスティーナは少し狼狽する様さえ見せ、立ち止まる。
周りの黒服達も呆気にとられていた。彼等ローザンヌ家の執事達も、クリスティーナのこんな表情は見た事は無い。
「アリーセにはお父様が居ないし、お母様は病気なの。それでああして煙草売りをしてお母様を支えてらっしゃるの。それなのにあの子、伯爵令嬢であるこの私の為に、大人の男の人と戦って下さったのよ、私が伯爵令嬢である事も知らずに……アリーセは御伽噺の中世の騎士のように高潔なの」
「まあ……」
「だから私、今度はアリーセの為に戦いたいの。この……お母様が下さったお揃いのミトンが、私とアリーセの友情の証ですの!」
クリスティーナは暫しエレーヌから顔を逸らし、考える。
規格外の母親である彼女にも人間らしい部分はあった。正直この趣味の悪いミトンの事でエレーヌが何を有り難がっているのか、このミトンを自分がプレゼントした事で何が起きたのか、それは全く解らない。
しかし、小さい頃はとても素直で良く笑う子供だったエレーヌがいつの日からか……いや、自分があの屋敷を出て行った頃から急激に気難しい不機嫌な子供になり、友達も作らず大人にも子供にも高慢な態度を取るようになり、他人の気持ちに興味を示さなくなっていた事には、密かに心を痛めていたのである。
そんなエレーヌが誰かを友達と呼び、こんなにも熱い気持ちを持って行動する事になるとはクリスティーナも想像していなかった。
「そう……それなら私も貴女を応援しないとならないわね、エリーゼ」
「……お母様?」
「その百年前のドレスも貴女の友情の証なのかしら? 仕方ないわね。ですが! 過去の事は見なかった事に致しますけれど、伯爵令嬢がズロース丸出しででんぐり返しをするのは、これきりにして下さるかしら?」
二人の周りでは黒服の男達が互いに頷き合ったり肩を叩き合ったりハンカチを出して目元を拭(脱ぐ)ったりしながら、この離れて暮らす規格外の母娘の暖かな心の交流を眺め、愛でていた。
「ああ……すみません、今それを外します」
黒服の一人が、クリスティーナの命令でサリエルにつけていた手械の鍵をポケットから出してそれを外そうと近づく。しかしサリエルは、下がってそれを辞退しようとする。
「サリエル嬢?」
黒服の男はサリエルの顔を見る。先程までずっとクリスティーナ母娘を見ていたので気付かなかったのだ。
サリエルはその素性の良い美貌を歪め、ハンカチを噛み締めて泣いていた。
悔しいのだ。
サリエルは自分ではそんな感情を抱きたくはなかった。今のお嬢様は絶体絶命の危機から一転して、幸福の坩堝にある。そしてエレーヌの幸福は第一の臣下である自分にとっては何よりも喜ぶべき事の筈である。
なのに何故自分は心の底から喜んでいないのか?
トマが完璧な活躍でお嬢様を一人で救ったからか? それもある。
エレーヌが長年仕えた自分には向けない友情をアリーセには惜しみなく向けているからか? それもある。
けれども一番悔しいのは、エレーヌとクリスティーナとアリーセの暖かい輪の中に、自分が含まれていない事だった。
自分の粉骨砕身を主人に自己申告するのは浅ましい事で、凡百の雑兵の所業であり、名臣のする事ではない。サリエルはメイド術の講義の中でそう学んだ。
しかし、トマが全てを解決し大団円を迎えたこの事件の中で、自分に残ったのはこの二つに割れた手枷だけなのだ。自分が身命を賭してエレーヌを危機から救い出そうとした証拠は、もうこれだけなのである。
「あ、あの、サリエル嬢、その手枷を外させてはいただけませんか、本当に申し訳ありません、私共もこのような物をお嬢さんの細腕に掛けたくはなかったのですが、奥様のご命令で……結局の所、何の役にも立ちませんでしたが」
―― 結局の所、何の役にも立ちませんでしたが
勿論、黒服の男はサリエルに簡単にへし折られてしまった手枷の事をそう言ったのだが。その言葉は見えない矢、いや見えない槍となってサリエルの心に突き刺さる。
そんなサリエルの様子になど一つも気づかぬまま、エレーヌとクリスティーナは遠くの歩道で給仕に煙草の包みを手渡しながら何事か談笑しているアリーセを見つめていた。
「ごめんなさい、お母様。私、時々手段に目が眩んで目的を見失う事がございますの……」
「あるわねえ、そういう所。それで? アリーセの為に何と戦うつもりなの?」
「今世紀最悪の藪医者ですわ、アリーセのお母様の主治医で、腕が悪いだけなら宜しいのですけど生半可に医療に情熱をお持ちになっていて大変頑固ですの。あの死神を何とか説得して、アリーセのお母様から手を引かせないと」
腕組みをして眉間に皺を寄せたエレーヌに、クリスティーナが何か答えようとした、その時。大通りの彼方から、何かの軋むような、何かを叩くような、様々な音が混ざりあった複雑な騒音が聞こえて来た。
―― ド ド ド ド シュー! シュー! ガラタタタタタ……
クリスティーナはそれが何であるか知っていたが、ディミトリがここに来る理由には心当たりが無かった。
「何でうちの新型自走砲がここに居るのかしら……ディミトリが移動させたと聞いたのに」
エレーヌはそれが何なのかは知らなかったが、ディミトリがここに来る理由には心当たりがあった。
「お母様……新型自走砲というのは何ですの?」
「駐退復座機の採用で反動を大幅に制御した大砲と、強力な蒸気自動車を組み合わせた物よ。あれはさらに専用の防弾板を全面に貼り合わせた状態ね、ライフル弾から乗員を守りながら前進して発砲出来るの。月曜日に陸軍師団で試射実験をするから、それまでどこかにしまっておくようにディミトリに申し伝えたのですけれど……エリーゼ?」
クリスティーナがもう一度ディミトリの名を出した所で、真っ青になったエレーヌは古めかしいロココ調のドレスのスカートをつまみ、新型自走砲に向かい突進していた。




