煙突掃除のフリック 第八話
黒い煤跡は屋敷の玄関ホールから大階段の裏の廊下、そして使用人用の通用口ホールから地下室へと続いて行く。
この地下室は使用人達も知っている通常の納戸だ。ここには主に、使わないが捨てられないガラクタが収納されており、先日エレーヌ達三人がアンドレイの屋敷まで担いで行った棺桶もここにある。
そして煤跡を追跡して来たアンドレイとサリエルは、まさにその棺桶の前に居た。棺桶は先日持って行った物の他に三基ほどあり、そのうちの一つに、子供の大きさの黒い手形がべったりついた物があった。
「サリエル嬢。この棺桶は現在使用されているものですか?」
「い、いいえ……備品として置かれているだけのはずですわ……」
「ならば、開けても構いませんね」
アンドレイは手袋をした手で、その棺桶を開ける。これは一見棺桶で、中身も棺桶らしく偽装されていたが、中には四十センチメートル四方程の穴が開いていて、その下には隠し通路があるのが見えた。
この通路は今まで棺桶の内貼りの天鵞絨で隠されていたのだが、誰か……恐らく子供が、真っ黒な手でそれをめくり、ここから出入りしたらしい。
「この中に逃げ込んだのだろうか」
「この手形の向きは、ここに入ったのではなく、ここから出て来たのではないでしょうか」
「しかし、あの侵入者は暖炉から出て来て、こちらにやって来たのでは……」
その時。棺桶の中の穴の向こうから、声が聞こえて来た。
――ぎゃあああ たすけてー
アンドレイとサリエルは顔を見合わせる。それはまるで伝声管の中を伝わって来たかのような音で、さらに悲鳴でもあるものだから、声変わり前の少年の物なのか、十七歳の乙女の物なのか、判別がつかない……ただ、台詞としてはエレーヌの物とは思えない気もするが。
「私が行きます」
アンドレイはサリエルに先立ち、穴の中へ潜り込んで行く。
勿論サリエルもそうしたかったが、屋敷のお仕着せのドレスはパニエ付きのロングスカートで、飛び出す前に一瞬の躊躇が働いてしまった。
しかし勿論、お嬢様の身に万一の事があっては困るし、正直アンドレイとお嬢様が二人きりになるような事は絶対に避けたいと思っていたサリエルは、意を決してパニエを折り曲げながら、隠し通路の中に潜り込んで行く。
屋敷に使用人達が知らない仕掛けがあったという事は、サリエルも先日ヘルダなどから聞いていた。先日自分が地下室に閉じ込められた時も、そういう仕掛けの一つが使われたらしい。
ディミトリは使用人達に、そういう仕掛けを探したりしないようにと通達していた。主人が言わない事を知ろうとしてはいけないと。
だからこの棺桶の底に隠されていた、高さ五十センチメートル、幅四十センチメートル程の隙間のような通路の事も知らなかった。
サリエルは小さめのランプを持って来ていた。先を行くアンドレイはオイルライターを持っていたようである。
「行き止まり……いや、板が立て掛けてあるだけか」
行き止まりと思わせる為、突き当りの壁の形ぴったりにカットされていた板は、きちんと嵌め込まれていれば、アンドレイも気づかなかったかもしれない。しかしそれは雑に立て掛けられていて、向こうが見えかかっていた。
――それ以上逃げると……
また声が聞こえた。
アンドレイがどけた板の向こうはT字路になっていて、声はその左の方から聞こえた。やはり、狭い通路の反響で、誰が言っているのかは解らない。
「向こうだ……!」
「はい……」
T字路の先は天井の高さが百五十センチメートルくらいになっていた。二人はそれでも中腰で歩かなくてはならなかったが、先程までよりはいくらか楽だ。
通路の先には梯子が見える……上に続いているのだろうか。
アンドレイは腰を屈めながら慎重に梯子の方に向かう。
梯子の下まで来てみると、梯子は思ったより高くまで続いていた。一階を通り越し二階まで続くようだ。
サリエルは思う。この梯子を登った先は、お嬢様のリビンクの周りのどこかのような気がする。この状況は異常だしお嬢様の身は心配だが、アンドレイがエレーヌの私室に踏み込む事になっていいのだろうか。
アンドレイは梯子を登る為、一旦ライターを消す。明かりはサリエルのランプだけになる。元々かなり暗かった周囲がますます暗くなる。
梯子を登り出すアンドレイ。
自分も梯子を登ろうと近づいたサリエルは、ふと何かを踏みつけた事に気付く。下を向いて見るが、スカートの陰になっていて踏みつけた物が見えない。
サリエルは二歩下がり、ランプをかざして足元に屈む。
サリエルが踏みつけたのは、大きな毛織のキャップ帽だった。
どこかで見たような帽子だ。サリエルは記憶を探る。
「ひっ……きゃああああ!」
突然のサリエルの悲鳴に、アンドレイは梯子を踏み外しそうになる。
「どうなさいましたか!」
アンドレイは登りかけた梯子を急いで降りて来る。
サリエルはその驚きを口に出したくはなかった。しかし。この状況ではこの男ですら頼りにするしかないとも思った。
「か……怪人が……この屋敷に……怪人は! 使用人も知らない屋敷の秘密の通路の事を知っていたのですわ! この帽子は怪人の帽子なのです!」
サリエルは青ざめた顔で、拾い上げた物を男爵に見せた。
深夜の葡萄畑で打ちのめした時も、屋敷の正門前で決闘をした時も。そして自分を地下室で磔にして閉じ込めた時も……怪人はこの帽子を被っていた。
アンドレイの方は少し混乱した面持ちでいたが、やがて何かを悟ったかのように居住まいを正す。
「先程の紳士もおっしゃっていた。その怪人について、もう少し詳しく教えていただけないか」
サリエルは一瞬戸惑う。サリエルからしてみればお嬢様を狙う変態という意味では怪人もアンドレイも似たようなものだ。
だが、アンドレイの方は社会的立場もあり、表面上は紳士である。この場合はアンドレイを利用し怪人を排除するのが上策だろう。
一瞬顔を伏せ、策士の顔になったサリエルは、元の乙女の顔に戻ってアンドレイに向き直る。
「夏休み前頃から現れた男で、最初は掃除夫のふりをして屋敷に入り込んで来たのです。ちょうどそれまで掃除を担当していた者が過労で倒れた時で、それで皆誰かが臨時に雇ったのだと思って……」
「それで……その男は何故掃除を?」
「その男はお嬢様専用の化粧室まで掃除していたのです! そこは必ず女の使用人が掃除する決まりだったのに……屋敷中の洗面所を掃除する事で、皆の油断を誘ってまでして、そんな事を!」
アンドレイは一瞬息を呑み……少し間を置いて答える。
「それは……かなり性根の座った変態だ」
サリエルは頷く。
「その後も怪人は何度も現れて……その都度、何とか皆で力を合わせて撃退して来たのですが、怪人はとにかく神出鬼没なのです。ああ、何て事かしら……今解りましたわ。怪人はこの屋敷の隠し通路の事を知っていたのですわ!」
サリエルは自分でそこまで言って、ようやくかつての地下室での出来事を少し思い出す。あの日の記憶はとても曖昧なのだ。
テラスで心地よく日光浴をしていたはずなのに、気が付けば地下室で鎖に繋がれていた。そこに怪人が現れた時はいっそ死にたいと思ったが、幸い怪人は自分には興味が無いようだった。
そしてエレーヌの母クリスティーナが助けに来てくれたのだが、今度はその先の記憶が曖昧になる。泣きながらふらふら歩いていたらいつの間にか外に居たような。
「そうですわ……お嬢様の側仕え、お嬢様を守る最後の砦たるべき私も……恐らくその怪人に薬物か何かで眠らされた事があるのです……屈辱の極みですわ……」
サリエルは今度は演技ではなく、本気で青ざめて震える。