マッチ売りの少女アリーセ 第二十四話
屋敷の鉄格子の門柱を開けたサリエルは箒を出して来て門前を掃き始める。昨日のうちにほとんど掃いてしまった場所なので、あまり掃除し甲斐は無かったが。
屋敷沿いの通りを近所の農家の若夫婦が仲睦まじい様子で歩いて来る。普段より少し綺麗な服を着て、市内に向かうようだ。
「あら、お出掛けですか?」
サリエルは道を掃きながら明るく声を掛ける。
「ええ、ちょっと隣町まで」
若夫婦は屋敷の前の角を曲がり、長屋通りの方へと続く道を歩いて行く。きっと駅へ向かうのだろうとサリエルは思った。
それからまた暫く道を掃いていると、空がだんだん明るくなって来た。そろそろエレーヌを起こしに行こうか? いや、まだ早いような気がする。
サリエルはふと顔を上げる。あの若夫婦の姿はもう見えない。長屋通りの方から、市場に野菜を持ち込んだ帰りだろうか、手押し車を引いた農夫が、ゆっくりこちらに向かって来る……
その農夫が急に振り返り、慌てて手押し車を道の脇へと寄せる。
―― ド ド ド ド……
長屋通りの方から蒸気機関のストロークのような音が聞こえる。蒸気自動車が来るのだろうか?
―― ドッドッドッドッ……
果たして。長屋通りの角を曲がり一台の……一台の? いや、一門の、大砲のような物が現れ、こちらに向かって来る。
―― ドッド、ドッド、ドッド、ドッド……シユー!
サリエルの手から箒が落ち、地面に倒れる。
長屋通りから伯爵屋敷までの真っ直ぐな道は、両側を畑と緑地に挟まれた見通しのいい道だ。その真ん中を、その大砲は堂々と、こちらに向かってやって来る。
砲身は九フィートだろうか。あれは陸軍の駐屯地で見た新型の七十五ミリ砲だ。その大砲が、片側四輪で計八輪の大型の蒸気自動車の荷台中央に固定されており、自ら走行しているのだ。
―― ドドドッ! ドドドッ! ドドドッ! ドドドッ! ブシュー!!
車輪も非常に太く大きい。何という重量感だろう。ボイラーも蒸気機関車並みに大きい。一体これは何だというのか。戦争でも始まったのか。
そうだ。戦争が始まったのに違いない。サリエルはそう思った。
何せその大砲付き蒸気自動車の後ろには、以前にも見た事がある黒塗りで薔薇の紋章のついた蒸気自動車がついて来ていたのだ。
「ク……クリスティーナ……奥様!」
サリエルは慌てて蒸気自動車の方に駆け寄る。
大砲付き蒸気自動車の方には運転士が三人乗っていた。彼等は背の高い少女が駆けて来るのを見て、まずは車の前進を止めた。
「奥様! クリスティーナ奥様!」
サリエルは大砲の方には構わず、後ろの蒸気自動車に駆け寄る。
クリスティーナ・ローザンヌ。伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの産みの母は、レアルの最先端の流行のドレスの上から黒い毛皮のコートを羽織った姿で、運転席から顔を出す。
「久しぶりね、サリエル。ついこの前あの子が列車強盗を働いて以来かしら」
割り合いに上機嫌な様子で、クリスティーナは駆け寄って来たサリエルにそう言った。
「奥様、こ、これは一体……」
「凄いでしょう? ローザンヌ重工で開発したの。駐退復座機の採用で発射の反動を劇的に抑える事に成功した大砲と、我が国が世界に誇る自動車技術の粋を集めた陸軍の新兵器、自走式大砲よ」
サリエルはまず純粋に驚いた。大砲というのは大変に重い物と思っていた。そして大砲は撃つと反動で後ろに飛び出す。そんな物を台車の上で撃って大丈夫なのか。
だけど今はそんな事を考えている場合ではない。
「あの……それで……この新兵器が何なのでしょう……?」
「そうねぇ……エリーゼへの年末のプレゼントかしら? お誕生日プレゼントはあげ損なってしまいましたもの。好きでしょあの子? こういう玩具」
サリエルは額に掌を当て、自分の意識が遠のくのを抑える。
最悪だ。お嬢様がお母様からミトンを贈られたと思い込んでどれほど喜ばれたか。あれが幻だというのは仕方ない。本当はサリエルからのプレゼントだったのだから。
しかしこの現実はあんまりではないか。あの心優しいささやかなプレゼントが嘘で、真実はこの不吉極まりない黒光りする新兵器だと。
「奥様、車輌を敷地内に入れて宜しいでしょうか」
「それはアプローチの煉瓦が痛みそうね……路肩に停めておきましょう。私の車はガレージに入れるわ……ディミトリはまだなの? また少し気が緩んでるのかしら」
駆け寄って来た新兵器の運転助手にそう言って、クリスティーナは自分の乗用車を走らせようとする。
サリエルは数秒間呆然としていたが、意を決すると踵を返し、猛然と屋敷に向かい驀進する。
「あら。足も速いのねえ、あの子」
たちまち自動車を追い越して屋敷へとすっ飛んで行ったサリエルの背中を見て、クリスティーナはそう呟く。
「お嬢様ぁあ!」
サリエルは二階のエレーヌの区画へと駆け込み、次々と扉を突破して行く。控えの間、リビング……エレーヌは居ない。
「お嬢様! お嬢様!」
エレーヌはまだ寝ているのか? 冬の伯爵令嬢の朝は遅い。普段であればまだ寝ていてもおかしくない。
サリエルはその可能性に賭けていた。何とか出来ないか? エレーヌがあれを見る前に何とか出来ないか。
寝室の扉が開いていない。エレーヌはまだ中に居るのか。サリエルは暫し、その前で立ち止まる。
自分のする事はどうしてこう裏目に出るのか。
先程トマが差し出してくれたミトン、あれを受け取っていたら全てが解決していたのかもしれない。クリスティーナ奥様に事情を説明し、あのミトンを改めて奥様からだと言ってエレーヌに直接プレゼントして貰えば良かったのだ。今日の朝はエレーヌの特別な朝になっただろう。
今、お嬢様はどうされているのか? 寝室の窓からは屋敷の入り口は見えないが、あれだけの質量の物が接近して来たのだから、起きていたならば気配に気づかない訳が無い。
もしお嬢様があの新兵器と奥様を見ていたら……賢いお嬢様の事だ、何が起きたのかという事に気づき、絶望されているかもしれない。
今のエレーヌの為に自分が出来る事は何なのか? 扉の取っ手に手を掛けたまま、サリエルは数秒間、自問自答を繰り返す。
覚悟は出来た。
エレーヌが泣いている場合、怒っている場合、何も気づいてない場合、いずれの場合にも自分がすべき事を想定し、サリエルはエレーヌの寝室の扉を開けた。
「お嬢様!!」
寝室にエレーヌは居なかった。サリエルが触れてみるとベッドは既に冷たく、軽くまとめられた寝巻きの上には、書き置きがしてあった。
『サリエル
私やはり残り十フラムと五十サンク、自分の手で稼ぐ事に致しますわ
それでアリーセと一緒に堂々とミトンを買いに行くの
学校の方は貴女がごまかしておきなさい。いいわね? H.』




