マッチ売りの少女アリーセ 第二十三話
「しかし何だな、このけしからん蝋人形と比べると向こうの蝋人形は随分と穏当だな。おまけに少々目つきが悪いような気がしないでもない」
「婦人像にしては背も高過ぎますなあ。親しみにくく居丈高な印象を受けます」
「交換は出来ないのか? このけしからん方の蝋人形が二体ではいかんのか?」
「旦那様、さすがにここまで精巧な蝋人形は特注品なのではないかと……」
ヨーウィンとロイズは五分近くサリエルをずっとじろじろと、エレーヌを時折ちらりと眺めた後でようやく売り場の事を思い出し、裏口から店内へと向かって行った。
時刻はとっくに午後九時を回っていたが、騒がしい婦人達が帰る様子はなかった。
近代化の波は一方では職業の淘汰を呼び大量の失業者を生み出していたが、一方では多くの成功者を生み出す。炭鉱、製鉄、建設、鉄道……様々な時代の寵児が富を手にし、新たなる資産家層を形成していた。
「まあー! このコートお安いじゃない! たったの百四十フラムですわ!」
「いやですわ奥様、こちらは子供用ですわよ、ホホホホ」
「あら本当! ホホホホ、どうりでお安いと思いましたわ、でも大人用もほんの百六十フラムですって! ホホホホ!」
ようやくショーウインドウを抜け出したエレーヌとサリエルが、何度も踏みつけられながら店内を匍匐前進で通り抜け、正面入り口から脱出を果たしたのは、さらに五分後の事だった。
任務は成功した。二人は店の人間に見咎められる事なくこっそりミトンをショーウインドウに戻す事が出来た。
◇◇◇◇◇
それでも帰りの二人は暫くは無言だった。マネキンのような仏頂面のまま手綱を操るエレーヌ。助手席で俯くサリエル。
一頭の鈍重な馬に牽かれ荷馬車はゆっくりと進む。
「何か喋りなさいよ」
先に口を開いたのはエレーヌだった。
「ミトンを……ショーウインドウに返せて良かったですわ……」
サリエルがどうにかそれだけ呟くと、たちまちエレーヌの癇癪に火がつく。
「アンタがミトンは自分が返すって言うから任せたんじゃない! なのに何で肝心のミトンを忘れて行くのよ! そのせいで私まであんな目に遭ったのよ!?」
「申し訳ありませんお嬢様、ですがお声が高うございます、お叱りはどうか御屋敷についてから……」
「うるさいわね! アンタもミトンを持って行くのを忘れたけど私もミトンを渡すのを忘れたんでしょう!? だったらそう言いなさいよアンタも!」
「お嬢様どうかお声を、もうお休みの方も多い時間ですから……」
サリエルは俯いたままそう慇懃に呟く。エレーヌは歯ぎしりをしながら正面に向き直る。
鍛冶屋通りから長屋通りへ。馬車はゆっくりと曲がって行く。この時間にはもう交通もほとんど無い。
「本当に、けしからん家政婦ですわね」
エレーヌはぽつりと呟いた。
「私のせいじゃありません!!」
すると今度はサリエルがたちまち真っ赤に上気した顔を上げ、エレーヌに掴みかかる。
「何故私が悪い事になるのですかお嬢様! 私、こんな恥ずかしい思いをした事はありません!」
「ちょ、ちょっと、危ない、離しなさい」
「どうせお嬢様はまた、貴女は殿方に懸想されていいわねなどと仰せられるのでしょう!? 私はこんな事を望んだ覚えはないのです!」
「落ち着きなさい、声が大きいわよ、サリエル」
サリエルはエレーヌから手を離し、背中を丸めて蹲る。
「代わって下さい……それなら代わって下さい! 黙っていても素敵な美男子とばかり親しくなられるお嬢様、頼みもしないのに助平老人と遊び人ばかり寄って来る私、どうか御願い致します……役割を交代して下さい……!」
余程恥ずかしい思いをしていたのか、錯乱し嗚咽するサリエルの口から本音が溢れ出す。
エレーヌは唖然としていた。ショーウインドウの中でさんざん当て擦りを受けたのは自分の方なのだから、サリエルに嫌味を言うのは自分の権利、ぐらいに、エレーヌは思っていたのである。
「……申し訳ありませんお嬢様。今のはどうかお忘れ下さい」
サリエルはようやく呼吸を整えてそう言った。エレーヌは黙って手綱を握り前を向いていた。
サリエルはエレーヌの横顔を見る。エレーヌの反応は無い。
「お嬢様! 本当に申し訳ありません、ショーウインドウに入ろうとしたのは私なのです、皆私が悪いのです、どうかお許し下さい、私どのような罰でも承ります、どうかお許し下さいお嬢様!」
再び、涙目でエレーヌに絡みつくサリエル。
「人聞きの悪い事を夜中に大声で言うんじゃないわよ! ああもう、じゃあアンタは歩いて帰って来なさい!」
エレーヌはそんなサリエルを振り払い、馬車の助手席から蹴り落とす。
サリエルはすぐに立ち上がり、馬車を追い掛ける。
馬車はゆっくりと、寝静まった長屋通りを走り抜ける。
◇◇◇◇◇
明けて土曜日、夜明け前のカトラスブルグの空は雲に覆われていたが、雨は降っていなかった。
サリエルはお仕着せを着て屋敷の正門前へと歩いて来た。日の出まではまだ一時間以上ある。サリエルはランプを手に、正門の脇の通用門から外に出る。
毎朝正門を開ける仕事は庭師達が持ち回りで行っていて、今日の当番はトマのはずだった。しかしトマは昨夜戻って来なかったという。
それでサリエルは、もしやと思いここで待つ事にしたのだが。
「ああサリエル、早いな……」
果たして、トマは屋敷沿いの道の方から自転車を漕いでやって来た。
「貴方の事だから、この仕事の時間には戻って来るんじゃないかと思って」
サリエルはランプを手にトマに近づく。トマは正門前に自転車を停める。
「鋭いな……ディミトリを探すのに随分手間取って……隣町の親戚の所にも行ってないらしい」
「やっぱり徹夜で探し回っていたのね。ディミトリは見つかりませんでしたの?」
「嫌な予感がするんだよな。ディミトリが戻らないのはこのミトンの件でだろ?」
トマはそう言って懐から何かを取り出し、サリエルに見せる。
「え……えええ!? 何故これを貴方が?」
「どうもこうも、そもそもあの店にあるミトンもうちのお袋が編んで問屋に納めたやつなんだってさ。全くおかしな縁もあるものだな」
トマが持っていたのはうさぎのミトンだった。梟の森のショーウインドウにあった物より一回り大きいが、その面長で釣り目のうさぎの顔は全く同じだった。
「だってあのお店の人が、展覧会で賞を取ったデザイナーの作品と……」
「はは、このセンスでデザイナーは笑っちゃうけど、うちのお袋は昔リヴェイル村の展覧会で金賞を取ったのを自慢にしているよ。まあ、趣味で編んでるにしては編み目はしっかりしてるだろ? お嬢様はこのミトンで満足してくれないかな?」
複雑な、あまりにも複雑な思いが至る所から去来し、サリエルの瞳にたちまち涙が浮かぶ。
一体ここ数日の苦労は何だったのか。不法侵入を働いて追い回されたり、ショーウインドウの中でじろじろ見られたり……だけどこれは素晴らしい。このミトンなら何の問題もなくお嬢様の物になる。サイズもきっとお嬢様の手にぴったりだ。
「さすがですわ! やっぱり貴方が……お嬢様の御庭番の中では貴方が一番優秀なのよ……」
「御庭番? まあとにかく、これは君からお嬢様に渡してくれないか? 俺はもう一度ディミトリを探しに行く、昨日の夜に駅前を思いつめた様子で歩いているのを見た人が居るんだが、汽車に乗った訳ではないらしい」
そう言ってトマはミトンを持った手をサリエルに伸ばす。サリエルも前に出てそれを受け取ろうとしたが……その手がミトンを受け取る直前で引っ込む。
「待って! これは貴方から直接渡して! これは完全に貴方の手柄ですわ、それを私から渡す訳には行かないじゃない!」
「おいおい、俺は別にそんな……」
「ごめんなさい、それに私、もう別のミトンを一度お嬢様に渡しているの……とにかく、これは貴方のお母様が作った物だという事、あの店のミトンもお母様の作品なのでこのミトンは兄弟だという事、これはトマ、貴方からの贈り物であるという事、その三つをしっかり伝えた上で、お嬢様にお渡しして」
サリエルはそう言って一歩引き下がるが、トマは一歩前に出た。
「待ってくれ、それは俺には難易度が高過ぎる、俺からお嬢様にプレゼントなんてそんな畏れ多い事が出来るか、頼むから君が渡してくれよ!」
「御願い! 貴方の手柄を奪って幸せになる未来が私には見えないの! それは絶対にトマがお嬢様に渡して! 御願い!!」
トマも割り合い一生懸命サリエルに頼んだのだが、それ以上に必死なサリエルの剣幕に押され、ミトンを懐に戻す。
「解ったよ……君が駄目ならヘルダか……いや、ディミトリを見つけて頼むとするよ……とにかく俺は駄目だ。じゃあ俺の代わりに門を開けておいてもらえるかな? 俺はディミトリ探しに戻るよ」
トマはそう言って再び自転車に跨り、長屋通りの方へと去って行く。




