マッチ売りの少女アリーセ 第二十二話
「或いは正面から入って宜しいでしょうか、ああ、大変だ、今店には職人と会計係の二人しかおりません」
ロイズはヨーウィンにそう言って、やはりサリエルに気づかないまま、今度は店の正面入り口の方へ走って行こうとする。しかし。
「待て……ロイズ!」
梟の森のオーナー、ヨーウィンはそう鋭く言って、ロイズを呼び止めた。
「は……はい?」
「これは……一体どういう事だ……」
ヨーウィンはそう言って、ショーウインドウの中のマネキンの一体を指差す。彼が指差したのはエレーヌの方だった。
「あっ……これは……」
ロイズはこの時、初めてショーウインドウの中のマネキンに気づいた。
彼はこの店の売り場側の責任者である。その彼が知らない物が、店のショーウインドウにあるという事は、本来であれば有り得ないのだが。
しかしマネキンは確かにここにある。今日のロイズは昼間からヨーウィンに連れられ、あっちで食事、こっちで酒と市中を連れ回されていた。正直今は酔いが回りきってフラフラだ。ここにこんなマネキンがあったかどうかも思い出せない。
そしてオーナーの、ヨーウィンの顔色は宜しくない。このマネキンの事で怒っているというのか? 何故だろう……ロイズはじっと、そのウォーキング・ドレスを着たマネキンを見つめる。一体オーナーは何が気に入らないというのか……
「ロイズ」
ヨーウィンが低く呟いた。ロイズは小さく震え上がる。つい先程まで気さくに振る舞い、自分をさんざん酒食でもてなしてくれたこの上司は、頑固で昔気質な事でも知られている。
「こんなのは、わしでは思いつかなかった。これは我が店のショーウインドウなのだから、我が店の商品だけを置くのが当然であると。わしの常識に囚われた古い頭ではそう考える事しか出来なかった」
「あっ……」
ロイズは気づいた。このマネキンが着ている服はおかしい。こんな、レアルで五年も前に流行ったような服がこの店のショーウインドウにある訳がない。最先端のファッションを提供する『梟の森』に、こんな古い商品がある訳が……
「あの、旦那様、これはですね」
アルコールにやられた頭で、ロイズが必死に言い訳を搾り出そうとしたその時。
「敢えて時代遅れの服を着たマネキンが、我が店の商品を見て驚いている……何という面白い演出だ!」
ヨーウィンは顔をしかめたまま、そう叫んだ。
ショーウインドウの中で、長い金髪に青灰色の目をしたマネキンがほんの少し震えたが、誰もその事には気づかなかった。
「えっ……あの、それはですね、その」
「そこまでは素晴らしい! なのにロイズ! こっちは一体何だ!?」
ヨーウィンは立て続けに語気荒くそう叫んだ。ロイズは再び震え上がる。ヨーウィンは蟹歩きをして、今度はショーウインドウ内の反対側に立てられたもう一体の、召使いのような御仕着せを着せられたマネキンの正面に向かう。
「え……あ……ああっ!?」
ロイズは何故か、そのマネキンの顔に見覚えがあった。どこで見たのだろうか。ごく最近だ、ごく最近……
「ロイズ……このマネキンは!」
ヨーウィンがロイズの耳元で低く囁く。ロイズはたちまち心臓も凍りつくような寒気に襲われた。終わりなのか? 自分のこの店でのキャリアは終わりなのか?
ヨーウィンは。突如鼻の下を伸ばし、皺だらけの顔をポッと染めると、裏返ったような高い小声で告げた。
「少々……けしからんのではないか? ん?」
「は……けしからん……とは」
「けしからんとはって!? とぼけるなお前!」
梟の森のオーナーは、まるで最高の冗談を聞いたとでもいうように腹を抱え、目を覆い、ロイズの肩に抱きついて揺さぶる。
「これはお前! やりすぎじゃないのかお前、ひひ、ふはははは……」
ヨーウィンは目を覆ったままそのマネキンの胸を指差す。
そのマネキンは少し腰を屈め、胸を張ったポーズで静止させられていた。
「お前、何故こんな……豊かなのを注文した? 世の中の御婦人方が皆こんなに豊かな訳ではないんだぞ、それなのにこんな豊かなマネキンを見せられては、ふひ、ふはは、嫉妬されてしまうではないか、けしからん、実にけしからん!」
けしからんけしからんと言いながら。老いてなおこの国の男であるヨーウィンの顔はにやけっぱなしであった。
ロイズも、そんな上司の雰囲気に釣られ、しげしげとそのマネキンを見直す。
「旦那様、これはさすがに私が発注した物ではありません」
そしてロイズは背筋を伸ばし、ごく真面目にそう答えた。そのロイズをヨーウィンは肘で突く。
「誤魔化さなくていい! 誤魔化さなくていいんだ、いやあ、お前は真面目なだけの男かと思っていたら、ふふふ、油断も隙もないじゃないか」
上司から真面目と評された売り場責任者で中年男のロイズは、それでも数秒は無表情を貫いていたが、やがて。我慢の限界を超えた。
「本当です旦那様! 私にゃここまで出来ません、本当です! はは、はは」
「照れる事は無いだろう、年甲斐のない。この腰のくびれもお前が?」
「出来ませんよ私にゃここまで! こういうのはきっと女共が頼んだんですよ!」
「いいや、これは絶対に男の仕事だ! 男の好みだ! ふひ、はははは」
「ヒッ、ハハッ、しかし男が、ここまでこだわりぬいた蝋人形を発注出来るでしょうか、ヒ、ヒ、ヒ……」
いつもショーウインドウが汚れたらすぐ拭けと言っているヨーウィンも、実際に少しでも誰かがショーウインドウに触れたらすぐ拭くロイズも、いつの間にか、ショーウインドウにべったりと張り付いていた。
「この表情もたまらんな……それにこの豊かな胸、美しいくびれ、長い手足、なんとけしからんマネキンだ、これではいくらでも眺めていられるではないか」
「確かにこれはいけませんなあ、これでは男共が人垣を作って見に来るかもしれません、これはいけません」
御仕着せを着せられたマネキンの頬が次第に赤らんで行く。しかし男達はその事には気づかなかった。
もう一方のマネキンは額に怒筋を浮かべ小刻みに震えだす。しかし誰もその事には気づかなかった。
『鉄と炎の合間』の店員の若い男は、アリーセがお釣りを探す間にその様子をぼんやりと見つめていたが。
「アリーセちゃん、大丈夫かい? 随分手間取っているな」
「ごめんなさい! 私、暗いのが苦手で……」
「そこの明かりを借りたら……」
若者はショーウインドウの方を指差そうとしたが、そこで盛り上がる二人の男達を見て、それをやめる。
「アリーセちゃん、もしかしてあまり目が良くないのか?」
「そうなんです……その代わり耳はいいんですよ!」
アリーセは目が良くない……彼女は自分ではそう思っていた。実際、特に辺りが暗くなると悪く、財布の中からお釣りを探すのにも苦労する程だったのだ。
―― 駄目ですわ。こんなもの、とても私には……
つまりアリーセはあの時、エレーヌのその声を聞いて(エレーヌが言ったのとは反対の意味にとった上で)彼女をベルだと思ったのである。彼女は自分で言う通り、目が悪い代わりに耳が良かったのだ。
それ故に。アリーセは今ショーウインドウの中に居るのがベルだとは認識していなかったのである。
「はい、お待たせしました!」
「ああ、ありがとう、これはチップで。また頼むよー」
「ありがとうございます!」
どうにかお釣りを受け取り終えると、若者は一部をチップとして結局アリーセに返す。アリーセは礼を言い、若者は去って行く。
それから。アリーセは少し、ショーウインドウに近づく。
ショーウインドウのバスケットには、あのミトンがまだ置いてあった。アリーセは思う。ベルは今日は間に合わなかったのだと。
「神様、ベルが無事このミトンを手に入れられますように」
そして小さな祈りを捧げるアリーセ。その横で。
「それにしても何という質感だ……これが本当にマネキン、蝋人形だというのか!? 驚いた、実に驚いた」
「最近の技術の進歩は凄まじいですからね……レアル万博の機械館でも散々驚かされたではありませんか」
「あれがもう五、六年前か! その間に、世の中はここまで進化したのだな……いやあ、何という艶かしい蝋人形だ、わしですら抱きついてみたくなる」
「ヒ、ヒ、旦那様、それではさすがに変態でございます、これは蝋人形ですぞ」
「そんな事を言って! その蝋人形にこの服を着せたのはお前じゃないのか?」
壮年の紳士はそう言って中年の紳士に絡みつき、その頭を抱え込む。
「い、痛いです旦那様、ハハ、ハ」
「どこまで! どこまで写実的に作られていた? この服の下は、ん? フヒ、フヒヒ」
「誤解です、誤解です旦那様、私はそのようなけしからん事はしておりません、ヒヒ、ヒヒヒヒ」
まるで盛りのついた若い男のように、二人の紳士は笑ってじゃれあう。
さすがにその姿が怖くなったアリーセは、最後にもう一度だけ、ショーウインドウを触らないようにしながらも、ぎりぎりまで近づいて……ミトンの姿をしっかりとその目に収め……小走りにその場を立ち去った。




