マッチ売りの少女アリーセ 第十五話
伯爵屋敷の御者達は一応女主人の行く先々について回り、遠巻きに様子を見ていた。そしてエレーヌがようやく帰宅するつもりになったと見るや、馬車を寄せる。
「お嬢様どうか御乗り下さい、馬達も腹ペコですので」
「あら……ごめんあそばせ、貴方達の事をすっかり忘れていましたわ」
エレーヌを乗せた馬車が、屋敷へと帰って行く。
◇◇◇◇◇
サリエルは屋敷の前をもう二時間も掃除していた。
元々庭師見習い達が午前中に掃除を済ませていた事もあり、屋敷の前からロータリまでの道には最早枯葉一枚落ちていない。
「ふふん、ふふふん……うふふ……」
しかしさすがに日が暮れてしまうと、掃き掃除をしているのもおかしいなと思えて来る。箒を用具入れにしまったサリエルは開き直り、伯爵屋敷の正門前に綺麗につま先を揃えて、ただじっと立ち続ける。
御者の一人は一時間くらい前に歩いて戻って来て、お嬢様は公園を散歩されている、いつもの様子とは違うがちゃんと自分達が見ているので屋敷の者は心配しないようにと言った。
サリエルは悩んだ。自分も公園に戻る御者について行こうかとも思ったが、自重する事にした。今は懐にうさぎのミトンの包みを入れて外出するのが怖い。
結果。伯爵屋敷前の置物となって佇むサリエルの前に、伯爵屋敷の馬車は帰って来た。
サリエルの目尻からぽろぽろと小さな涙が零れる。今回は何も無かった。自分はミトンの事を忘れていないし、ミトンはきちんと自分の懐にある。あとはこれを馬車から降りて来たお嬢様にお渡しするだけだ。
馬車は長屋通りの角を曲がって、伯爵屋敷へと続く真っ直ぐな道をゆっくりと走って来る……サリエルは自分から駆け寄りたいと思う気持ちを必死に堪え、馬車の到着を待った。
やがて馬車はそのまま伯爵屋敷の門を通過する。
さらに行き足を落とした馬車にサリエルは早歩きでついて行く。そしてロータリーで止まった馬車の扉を、外から開ける。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
一言一言に密かな気合を込め、サリエルはそう言った。扉の中からは疲れた顔のエレーヌが出て来て、早速サリエルに通学鞄を差し出す。
「お嬢様、これを」
サリエルは余程の事が無い限りこのプレゼントは出会い頭に渡そうと決めていた。サリエルはエレーヌの通学鞄を受け取ってすぐ、懐からメッセージカードのついた小さな包みを取り出す。
「何よこれ……」
疲れていたエレーヌは少しぼんやりとしたままそれを受け取る。そしてメッセージカードを開いた瞬間。
「ひいいっ!?」
突然悲鳴を上げ、プレゼントを取り落すエレーヌ。サリエルは反射的に手を伸ばし、プレゼントが地面に落ちる前にそれを捕える。
「仮面大将軍!! 今さら何贈って寄越したのよ!」
サリエルは青ざめる。こんな時でも自分はミスをしていたというのか。
エレーヌの事をミドルネームのエリーゼで呼ぶ者は少なく、はっきり言えばエレーヌの母クリスティーナぐらいだった。自分としては、あの店でエレーヌの名前を出す事を避けただけだったのだが。
エリーゼのために。そのタイポグラフィを見てエレーヌはこれを母クリスティーナからの贈り物だと思ったらしい。
「あ、あのお嬢様、実はこれはですね」
エレーヌはそう言い掛けたサリエルの手からすぐにその包みをひったくるや否や、カードごと引き千切るようにラッピングのリボンを外す。
「今度は何ですの! どうせまた熊胆とか純銀製の銃弾とか、何かしら物騒な物ですのよ!」
「お嬢様お聞き下さい、これは」
サリエルは何とか説明しようと詰め寄るが、エレーヌはくるりと背を向けてしまった。
「あの女が贈って来る物なんていつも……」
エレーヌの動きが止まる。そしてプレゼントの小箱を持っていない方の手から、慌ただしく引き剥がしたリボンがポロリと落ちる。
サリエルはリボンを拾おうと身を屈めたが、それより先に……エレーヌが素早くそれを拾い上げ、プレゼントと共に胸にぎゅっと抱え込んだ。
「お嬢様?」
エレーヌの肩が次第に震えだす。
どうしたのだろう。自分にまだ何か落ち度があったのだろうか? そう考えたサリエルはエレーヌの前に回ろうとする。
「サリエル……」
しかしそれはエレーヌが振り返る方が先となった。
サリエルは思わず息を飲む。エレーヌは泣いていた。たちまち溢れだした大粒の涙を隠そうともせずに。
「お母様が……ヒック……お母様が私に、こんな素敵なミトンを……」
引き千切ったリボンやラッピングまでも大切そうに胸に抱え込み、エレーヌは嗚咽を上げる。
サリエルの頬が紅潮する。こんなお嬢様見た事が無い。エレーヌの涙というだけでも珍しい物なのだが、嬉し涙となると……本当にどこまで辿っても記憶に無い。
「お嬢様……」
サリエルは無意識に、エレーヌに向かって両手を広げてしまった。
エレーヌは常日頃の柄にもなく、その胸に飛び込むようにしな垂れ掛かる……
―― きっと抱き着くように見せて、また肩透かしを……或いは私、また投げ飛ばされるのかしら……
サリエルは常日頃の癖でそう考えてしまった。
「サリエル……! グスッ、お母様が、こんな素敵なミトンを下さったのよ、ヒック、どうしましょう、それなのに私うえっ、お母様の事を酷く誤解してヒッ、」
―― 何も起こらなかった!?
サリエルは思わず目を見開いていた。エレーヌはまるでどこにでも居るごく普通の可愛い妹のように、サリエルの大きな胸に顔を埋め泣きじゃくっていた。
「ひっ、ひっ……だけど……ふえぇ……ごめんさない、サリエル、貴女のお母様は天国にいらっしゃって……ヒック……許してサリエル、私泣きたくないのに、涙が止まりませんの、ごめんなさいサリエル、ふえっ、ふえっ……」
サリエルは一瞬で完全なパニックに陥っていた。
今度こそ何があろうと、このうさぎのミトンをお嬢様に渡す。どんなパニックが邪魔しようとそれだけは成し遂げる。大尉の手紙のようにはさせない。サリエルは事前にそう固く誓っていた。
そしてそのミッションは確かに成し遂げられた。エレーヌは確かにうさぎのミトンを手にして、喜んでくれた。それはいい。それはいいのだが。
どうしよう。無料のおまけだと言うから何も考えず添付して貰ったメッセージカードが、こんなにも極端な副作用を生むとは考えてもいなかった。
このお嬢様は可愛い。余りにも可愛過ぎる。御互い小さかった頃だって、エレーヌがこんなにも素直に自分の胸の中で泣いた事など無い。どうしよう、あまりの可愛らしさに鼻血が出そうだ。
「大丈夫ですわお嬢様、どうか気持ちを落ち着けて下さい、私も本当に嬉しいんですのよ、お嬢様がこんなにも喜んでいるのですもの」
サリエルはエレーヌの涙を拭う為にハンカチを取り出していた。だけどもしかしてと思い、それをエレーヌの頬に当てる前に自分の鼻の下に当ててみた。
鼻血は既に出ていた。
だけど冷静に考えてみれば、呑気に鼻血など出していていいものではない。このミトンはクリスティーナが贈った物ではなく、エレーヌは大変な誤解をしている。どうしよう。
サリエルにはこの誤解をそのままにしておいて、それで幸せな結末を迎えられるヴィジョンが見えない。
相手はクリスティーナとエレーヌである。後で本当の事が解ったら双方からどれだけのお叱りを受ける事になるのだろうか。
サリエルは迷う。この別人になってしまったエレーヌを愛でるという、一時の快楽に耽るべきか。御手討ちを覚悟で、今すぐ本当の事を告げるべきか。
「ヒック……サリエルぅぅぅ!」
エレーヌの腕がサリエルの首にぎゅっと回る。
「あの、お嬢様、私少々のぼせておりまして……」
「ありがとう、ごめんなさい、ふえええ、サリエル……グスッ、うえええ……」
もう駄目だ。サリエルの理性は白目を剥いて降伏していた。エレーヌに抱きしめられたサリエルに出来る事は、ハンカチで自分の鼻を抑え続ける事だけだった。
※本文中のルビ、熊胆は冗談です。本当は熊胆と読むそうです




