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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの平凡な日々  作者: 堂道形人
マッチ売りの少女アリーセ

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マッチ売りの少女アリーセ 第十一話

 エレーヌは自分が馬車を待たせていた事を忘れ、徒歩で戦勝記念通りまで戻っていた。天気はかなり回復し青空が広がっている。時刻は午前十一時前。


 エレーヌの足は自然とあのショーウインドウの前に向いていた。

 うさぎのミトンは勿論まだそこにあった。今日は金曜日。予約は明日の閉店まで有効である。

 このミトンはアリーセの物になるべきだ。だけどアリーセは今、このミトンを諦めようとしている。どうすればいいのだろう……エレーヌは溜息をつき、思案する。



 そこへ。彼方の交差点から数台の馬車が列を為し、こちらへ曲がって来る。

 何気なくそれを見ていたエレーヌの脳裏に何かが警報を鳴らす。今ここに居てはいけないと。エレーヌはとりあえず馬車が来るのとは別の路地に入り、近くにあった郵便ポストの陰に隠れる。



 馬車は四台。いずれも二輪馬車だが金を出せば誰でも乗れる辻馬車ではなかった。黒塗りの立派な塗装を施されたそれらの馬車は『梟の森』の周りに次々と停車する。

 止まった馬車からは次々と……一様に暗色のスーツを着て塹壕用コートを着た男達が降りて来る。エレーヌは何事かと目を見張る。


 馬車から降りて来た男達は八人。その最後に降りて来たのはストーンハート伯爵家で長年執事長を務めるディミトリだった。


 エレーヌはますます体を小さくしてポストの陰に隠れる。

 ディミトリはストーンハート家の忠実な家臣ではあるが、忠臣ならばこそ怒らなくてはならない時もあるという事はわきまえている。エレーヌが学校をサボってこんな所を歩き回っているのを見たら、ディミトリは怒る……少なくともエレーヌはそう考えた。

 一体何故ディミトリがここに? エレーヌが登校してない事を知り人手を集めて探しに来たのか?


 エレーヌは青ざめ、辺りを見回す。見つかる前に逃げた方がいいだろうか。それとも見つからないと信じここに隠れ続けるべきか。走り回る事で見つかる可能性とここに居座った結果包囲されてしまう可能性、どちらが大きいだろうか?


 しかし。エレーヌが迷っているうちに、ディミトリと黒服の男達は無言で次々と『梟の森』に入店して行った。



   ◇◇◇◇◇



「いらっしゃいませ」


 異様な光景にも怯む事なく。テーラー『梟の森』の売場責任者であるロイズはごく普通の、普段来店する少人数の淑女の客が来た時と同じように挨拶をした。


「い……いらっしゃいませ! 贈り物をお選びですか? 宜しければお手伝い致しますが」


 女店員のカロリーヌも、この店には似つかわしくない異様な客達に気圧けおされながらも、どうにか普段通りの接客をしようと、引きつった笑みを浮かべる。


「私はストーンハート伯爵家の執事でディミトリと申します。店主殿に御願いがあって参ったのですが」


 ディミトリはやや視線を伏せ、慇懃いんぎんにそう告げる。


「左様ですか。私は当テーラー『梟の森』の取締役の一人でロイズと申します。店主ヨーウィンは留守にしておりますので、御用件は私が承ります」

「では……単刀直入に申し上げます。我々……ストーンハート財団とスミット銀行は共同で貴社に投資を申し出たい。我々が本気である証として、まずは二万フラムの資金を提供させていただければと」


 ディミトリは懐の書類鞄から契約書を取り出す。契約の書面はごくシンプルだった。スミット銀行が今すぐ低金利かつ無条件で、二万フラム貸すというのだ。用途の指定も無い。『梟の森』側からすればこの金を借り、ローザンヌ銀行から借りている金をただ返すだけでも、金利分の支払い負担を大幅に減らす事が出来る。


「これは……本当ですか? 本当ならそれは……魅力的なお話かもしれませんが」


 ロイズが契約の書面を見ながら慎重にそう言うと、ディミトリの後ろに居た黒服の男達のうち二人が前に出る。


「我々はスミット銀行カトラスブルグ支店の融資担当の者です。間違いありません。融資は支店長の承認を得ていますし、保証人にはクーダルジャン証券が名乗りを上げています」


 さらに別の黒服が二人前に出る。


「クーダルジャン証券のチーフディーラーです。女性向けの服飾は間違いなく成長分野ですし、貴社の繁栄は当然貴社の株主の我々にとっての利益になります。我々はこの融資に同意します」


 さらに別の黒服が二人。


「カトラスブルグ市産業振興局の者です。貴社が資金を元に商売を広げるなら市としても協力するよう伯爵家から依頼が……コホン、いえ、市民議会でも承認されると思いますので、都市計画の観点から優遇させていただきたいと」


 最後の一人も。


「ノレスト新聞社の者ですが、御社の製品の評判は高くあのストーンハート伯爵家も大層贔屓にしてらっしゃるそうですねぇ。我が国の優れたデザインと品質を持つ製品の一つとして、是非記事にさせていただきたいと」



 ロイズは口を半開きにして唖然としていた。カロリーヌの方は難しい話は良く解らないので、黙って上司であるロイズと、この妙な威圧感のある男達とを見比べていた。


 ディミトリは更に告げる。


「ストーンハート財団からは今後貴社の業務拡大に応じて、十万フラムまでの資金を順次御用意させていただきます。如何でしょうか。貴社オーナーのヨーウィン氏に御取次ぎいただけませんでしょうか」


 ロイズは息を飲む。破格の提示だ。

 相手は準大手だが信用出来る銀行と、地元では絶大な支持を持つ伝統的貴族で内外に莫大な資産を持つ財閥ストーンハート家である。

 契約書にも何一つ怪しい所は無い。文面はシンプルで文字も大きく、裏にも何も書かれていない。少なくとも最初の二万フラムの借り入れに関しては本当に、ここにサインするだけで低金利のまとまった金が無条件で手に入るのだ。



「しかし……これ程の厚遇をいただくのに、何も条件が無いとは思えません」


 ロイズは少し震えた、上ずった声でそう言った。ディミトリはかぶりを振る。


「我々は成長企業に投資し、共に成長したい。それだけです。ストーンハート財団の支援は資金面に留まりません。むしろ提供出来る人材や情報、世間からの評判の方が大きいと思います。そして貴社の成功と拡大はやがては私共の利益となるのですから」


 ディミトリはそう言って、自分には何も隠し事が無いというふうに、両手を開く。ロイズは今にもうなずこうとしていた。


「もし貴方がどうしても信じられないとおっしゃるのであれば」


 ディミトリは続ける。


「一つだけ、御願いがございます。あのショーウインドウに飾られている、うさぎのミトン。ひとつ、あれを私に売ってはいただけませんか? 勿論代金はお支払いしますので、プレゼント用の包装を御願い出来ればと思うのですが」




 ロイズはうつむき、しばらく無言だった。やがてその肩がピクリと震える。


「誠に申し訳ありませんが、それは出来かねます」

「あ……ああ……ええと。何故でしょう……あれはとても素敵なミトンですので、是非その……ま、孫にプレゼントしたいと思いまして……」


 ディミトリは口篭り、言葉を震わせる。

 ロイズは再び口を開く。その声はもう上ずってもおらず、震えてもいなかった。


「危ない所だった……ククク……そんな事で私をたぶらかせると思ったのか……そうか……お前達が例の悪役令嬢とやらの手先か……」

「す、すみません……今何と?」


 ロイズは凄みのある笑みを浮かべ、顔を上げた。


「この店は! この店の商品達は全て、乙女達と淑女達、その夢と憧れ、そして日々の生活と愉しみと共にあるのだ!! そのミトンは、このうさぎは、乙女達との約束の為にここにある、どんなに金を積まれようが、夜な夜な盗賊を差し向けられようが、それが解らぬ者の手になど渡す訳にはいかん! さあ出て行け!」



 八人の黒服の男達が、『梟の森』の出口からバラバラに飛び出し、慌てふためいて通りを駆け出して行く。


「うわああ!」「やめっ、やめろッ」「ひいいい!?」


 その後ろから、長柄の箒を握ったロイズが飛び出し、店の前でひとしきりそれを振り回す。


「この店はお前達のような金と権力の犬の来る所ではない! 二度とその面を見せるな!」


 ロイズは荒い呼吸を整えながら辺りを見回す。そして僅かに肩を落とす。不埒者を追い払うのはいいが、これはいけない。

 店員がこんな品の無い事を言うのを見た何も知らない女性客が、この店への来店を避けるようになってしまっては悲しい事だ。


「はぁ……」


 溜息をついたロイズの肩を、後ろから誰かが叩く。ロイズが驚いて振り向くと、そこに店のオーナー、ヨーウィンが立っていた。


「だ……旦那様ッ、申し訳ありませんっ、私、旦那様のお許しもなく勝手な事を」


 老いてなお頑固親父として職人や店員達に恐れられながら、毎日工場に立ち自ら製品を作る事を辞めない昔気質むかしかたぎの男ヨーウィンは。ぽろぽろと涙を流しながら、彼に謝罪しようとしていたロイズの両手を取った。


「ロイズ……お前がこんな立派な男に育っていたとは思ってもいなかった……許してくれ、わしは少しお前の事を誤解していたようだ。丁稚奉公から初めてもう三十年になるのか……ロイズよ、そろそろお前にこの店を任せていい頃かもしれんな」




 ショーウインドウの向こうから一部始終を見届けていたエレーヌはさらに青ざめ、くるりと回りガラスに背中を預けズルズルと滑り落ちるように座り込む。

 だけどここに居てはいけない。そして早くディミトリに会いあの命令を撤回しないと。エレーヌはどうにか立ち上がり、路地の方へと駆けて行く。

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