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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの平凡な日々  作者: 堂道形人
マッチ売りの少女アリーセ

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マッチ売りの少女アリーセ 第十話

 カトラスブルグの開業医マティアス・マナドゥの手元には助手が書いた受付票があった。次の外来患者はマナドゥの知っている人物だったが、彼の診療所にこの人物の過去のカルテは無い。


「先生? 次の方をお呼びしても宜しいですか?」


 マナドゥより十歳ばかり年上のベテラン看護婦が声を掛ける。普段は彼女がそんな風に尋ねる前に、マナドゥが自分で待合室に声を掛けるのだが。


「あ、ああ、そうですね……」


 とっくに片付いている前の患者のカルテの入ったファイルを手に、マナドゥは少し躊躇ちゅうちょしつつそう答えた。


「エレーヌ・ストーンハートさん、お入り下さい」


 マナドゥが何を躊躇しているのか全く解らない看護婦は、待合室に普通にそう声を掛ける。


 伯爵令嬢は現れた。まずはほんの二十センチメートル程開けた扉から青灰色の瞳を覗かせ診察室をじろじろと眺め回し、それからもう二十センチメートル程扉を開けてようやく半身を覗かせ、尚も中の様子を伺いながら。


「どうぞストーンハートさん……こちらにお掛け下さい」


 正規の手続きを経て患者として正面から来訪されては、マナドゥもそう言うしかなかった。

 エレーヌは部屋じゅうの様子を落ち着きなく見回しながら、ようやく患者用の椅子に座る。


「どういった症状ですか?」

「ええ、私……生来体が弱いものですから、こういう事もよくございますの。本当なら学校に行っている時間なのですが、今朝は途中で具合が悪くなりまして」


 マナドゥはペンを取り、新しく作ったエレーヌの真っ白なカルテの所見の先頭に脇腹を撃ったと書き込む。これは仮病の隠喩である。


「そうですか。寒気はありますか? いつもと脈の速さの違いは? 立ちくらみや眩暈めまいでも?」

「な……何か投げやりな問診ですわね。何ですの!? 貴方まさか、私が仮病を使っているとでもお疑いですの!?」


 この人物は健康だと確信したマナドゥは思案する。医術は彼の本業であり、ただの生活手段ではない。仮病の人間の相手をする時間があれば、本当に困っている人の為に使いたい。

 だからといって彼は仮病の人間に簡単に嘘の診断書を渡すような人間でもない。


「では聴診しますから上を脱いでいただけますか」

「ちょっ……お待ちなさい! 貴方はまだ何も私の話を聞いてませんわ! 私はまだ自分がどんな症状に苦しんでいるかも」

「発熱は無いのでしょう? 咳やくしゃみも聞こえてきませんでした。浮腫むくみや他の症状も無いですし貧血という御様子でもない、どこか痛い所がある人は普通その椅子に座った瞬間にそう言うんです。貴女は元気そうですが、強いて言えば少し呼吸が乱れているようですから心肺の症状かと。さあ脱いで」

「違いますわ! わ、私は気管も心拍も正常ですの! 聴診の必要は無いわよ!」

「それは結構。婦人科の御用ならメアリス先生の紹介状を書いて差し上げますが、そうでないなら御大事に。次の方をお呼びしますので」

「待って!」


 エレーヌは立ち上がって自ら待合室に向かおうとするマナドゥの袖を捕まえる。


「お待ちになって! マナドゥ先生、貴方ならお金の無い患者が医者にかかれないのを見たらどうなさいますの!?」


 エレーヌの言う事は、若く情熱のある医師なら誰もが自問自答した事がある問題に違いなかった。マナドゥも例外ではない。


「究極的には国や制度、納税をする市民、そして治療に当たる医師、皆が歩み寄れば誰でも医者にかかれる社会が実現すると思いますが。短期的には貴女のような資産のある方に救貧医療への御理解と御協力をいただくのが手っ取り早いですね」


 マナドゥは椅子に座りなおしながら、先日ナッシュ(エレーヌ)が言っていた事を思い出す。お金は出すから、アリーセという娘からたばこをたくさん買えと。


「そ……そうでしょう? 御存知の通り、私ただの伯爵令嬢ではございませんの。私、ストーンハート慈善財団の副頭取でもございますのよ! ホーッホッホッホッホ! マナドゥ先生、貴方に診療して欲しい患者がおりますの、診療代は勿論私が全額お支払致しますわ」


 ようやく調子の出て来たエレーヌは高笑いしてそう言うと、マナドゥの反応を待つ。

 マナドゥは考える。やはりエレーヌはナッシュの変装がばれていないと思っているらしい。


「念の為申し上げますが……煙突掃除の少年の妹達には主治医が居りませんでしたから、私が診察をお引き受けしましたが。既に主治医が居る患者でしたら私はその先生から御相談いただかない限り、診察は出来ませんよ」

「なっ……!」


 エレーヌは立ち上がりかける。


「何をおっしゃいますの!? 主治医ですって、それはその、主治医は居るかもしれないけれど、主治医だからって医者とは限らないじゃない、貴方、主治医が医者じゃない場合はどうなさるの!?」

「それは滅茶苦茶ですよストーンハートさん、どなたの事をおっしゃっておられるのかは解りませんが、患者さんが信頼して任せている主治医が居るのに、寄付をもらったからと言って別の医者が押し掛けるのはどう考えてもおかしいでしょう」

「それはッ! そっ……そう……だけどその主治医は医者の皮を被った死神なのよ! そんなのがりついてる患者を見て貴方、見過ごしに御出来になるの!?」

「言い過ぎですストーンハートさん、そんな死神居ませんよ!」

「もう結構ですわ! 貴方その程度の御医者様でしたのね、見損ないましたわ!」



 止めるすべも無いまま、エレーヌはマナドゥの診療所から飛び出して行った。残されたマナドゥは深い溜息をついて立ち上がりつつ、エレーヌのカルテにもう二言書き足す。血気盛ん、五体満足と。そして日付を記す。


「ストーンハートさんはどこが悪かったんでしょうね……ともかく、次の方をお呼びして下さい」


 マナドゥは看護婦にそう言いながら、席を離れ、診療所の奥のデスクの方に歩いて行き、私物等を入れておく棚の一つを開ける。

 そこには煙草の葉の包みとパイプ、マッチ、それに書きかけのカルテが入っていた。

 マナドゥはナッシュ(エレーヌ)から金を受け取る事は断ったが、その依頼は聞き届けていた。マナドゥは煙草を吸わないが、友人のトマや師匠のフーリエ博士には喫煙の習慣がある。


 カルテの方はその煙草を売っていた娘アリーセの母、テレーズのものだ。マナドゥは診てもいない患者のカルテを作るのは初めてだったが、あのエレーヌが心配しているという事が気になったので、人伝いにでも聞いた事を書き止め始めたのだ。

 マナドゥはそのカルテに、さらに何かを書き加えて行く。


 ダニエル医師は確かに評判が悪い。しかしマナドゥは彼には彼の正義、彼の信じる医療があるのだと考えていた。ダニエルはマナドゥのように馬車を持つ事もせず、往診時は自分の足で走って行く。そうして無駄遣いもせず倹約して、貧窮した者の為の低価格の医療を維持しているのだ。

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