煙突掃除のフリック 第六話
エレーヌはイブニングドレスの裾をつまみ、中央の大階段を慌ただしく駆け上がって行く。ここを降りる時には、アンドレイから見て最も美しく見えるよう、角度とタイミングまで計算して降りて来たのだが。
二階へ上がり、自分の区画の方へ走り、リビングに入ったエレーヌは、大きく背中の空いた青いイブニングドレス姿のまま、ウォークインクローゼットの一つに飛び込み、そのさらに中にあるクロゼットの中に、さらに隠されている仕掛け扉を開き、その中に潜り込む。
サリエルの方は半ば涙目になったまま、ダイニングの正餐の場に戻って来た。
「あの……お嬢様はただ今、化粧直しをされておいでですので……」
サリエルは誰にともなく、そう言い訳をする。
アンドレイは、例のオマールロブスターに立ち向かおうとしていたブリキの騎士を皿から降ろして手元に置き、ゆっくりと背後のレバーを引いて、剣の素振りをさせていた。意外と子供っぽい所もあるようである。
サリエルは思う。一体ここで何をしろと言うのか。エレーヌはしばらく戻って来ない……その間をメイドの身である自分にどう繋げというのか。
増してや相手は、あのアンドレイ男爵だ。一度は主の仇と憎み、剣、いや杖を向けた相手である。
しかしどんな事情があれ、主人の命令は命令であり、どんな命令であれ一度それを受けた以上は速やかに実行するのが臣下というものだ。
物真似でも披露しようか、それとも駄洒落がいいか。パントマイムやジャグリングは、芸術に目の肥えた男爵には通用しない気がする。かと言ってあまり品性を疑われるような諧謔を披露するのも、主人の恥になる。
ここはやはり物真似が無難だろうか。鉄板の「産まれたての子牛」か「威張って歩く雄鶏」で様子を見るか。
サリエルがそう思い悩んでいると。
「君には……どこかで御会いしてるな」
ゆっくりとブリキの騎士に剣を振らせながら、アンドレイが呟いた。サリエルの心臓が高鳴り、緊張が走る。
「主人……エレーヌの側仕えのメイドで、サリエルと申します……主人の行き先には大概お供させていただいておりますので……」
サリエルはすぐに気持ちを建て直し、冷静に、かつなるべく失礼のないような口調で答える。
アンドレイの屋敷の秘密の部屋には、たくさんのエレーヌの写真があった。その中の一枚には、半分見切れた自分も写っていた。
男爵はそれを覚えていてもおかしくはない。サリエルはそう思ったのだが。
「いや。陸軍の伝習所で御会いしている、君は杖術を習っていた」
冷や汗が滲むような心地がサリエルを襲う。正に……サリエルは陸軍の伝習所で杖術を習っている。アンドレイは杖術は習っていなかったが、サリエルはアンドレイが他の陸軍幹部達と共に伝習所の前を通るのを何度も見ている。
アンドレイの方でもサリエルに気付いていてもおかしくはない。
そして先日、ベアトリクス教会の裏庭で、オーバン・オーブリーことサリエルがアンドレイ男爵をねじ伏せたのは、杖術の技によるものだった。
「私共は箒が仕事道具ですので……杖術はいざという時に主人の身を守る為に役立つと思い、履修しておりました」
「なるほど。それは素晴らしい事です……エレーヌ殿は美しいお方、しかしその美は時に意図せず、好ましからざる者を惹きつけてしまう事もある」
アンドレイはブリキの騎士から手を離してそう言った。サリエルは思う。貴方こそその筆頭ではないかと。エレーヌが世界一美しいのが悪いとは言え、こんな男に横恋慕され、正しい恋路の邪魔をされる筋合いは無い。
「私のような、邪な者をね……」
アンドレイはサリエルにだけ聞こえるくらいに声を落とし、そう言った。
サリエルは硬直する。立場の違いはあるとは言え、こうも一方的に打たれるとは思ってもいなかった。いっそ声を荒らげてしまおうか? そんな事出来る訳がない。
アンドレイは、別段面白がっている風でもなく、自虐をしているという風でもなく。堂々とサリエルに顔を向け、続ける。
「貴女のエレーヌ殿に対する忠誠心に、偽りが無い事を祈りますよ……これから、きっとそれが必要になる……私はエレーヌ殿の側に居る事は出来ない。だから、貴女が頼りです」
サリエルは思う。アンドレイは一体何の話をしているのか。自分がエレーヌを守る事など当たり前だ。それもアンドレイのような不埒者から。そんな事を当事者から言われる筋合いは無い。
アンドレイが眉間を曇らせる。サリエルは気付く。不覚だが、どうやら自分の憤りは顔に出てしまったらしい。
「それとも……貴女も、モンティエに心を寄せておられたのですか?」
サリエルの心臓に雷が落ちた。
何故こうなるのか。アンドレイが来賓で自分がメイドだからか。相手は自由に発言出来る。こちらは遠慮して言わなければならない。
今アンドレイが言った事は、サリエル自身も何度か自問自答して来た事だった。
陸軍の伝習所に伯爵屋敷のメイドで小娘の自分がやって来て、杖術を習いたいと言った時、そこに居た者達は皆笑い、相手にしてくれなかった。そこを取り為してくれたのが、当時は中尉だったリシャール・モンティエだ。
鍛錬の日々。リシャールは常に真剣で親切で、自分を他の門弟と同じように扱ってくれた。恐らく、リシャールと過ごした時間はお嬢様より自分の方が長い。
忠臣サリエルにも生身の人間としての側面もある。
そんなリシャールが自分を介す事もなくお嬢様に接近し、お嬢様も自分を介さずリシャールに心を寄せていた事を、心のどこかで悔しいとは感じていた。
そして。決して羨ましいとか、自分もリシャールに心を寄せていたとか、そういう事では無いのだが。一度ぶち切れてお嬢様本人にも言ってしまったが、あれ程の物件をいとも簡単に切り離してしまったお嬢様の有様にはどうしても納得が行かなかった。
自分は恋文の数だけは貰うが、その中に何か一つでもリシャールに勝てる要素、いや足元にでも及ぶ要素を持った男は、一人も居ない。
サリエルも人間として、そういう黒い気持ちはきちんと持ち合わせている……
いや、そういう事ではない。何故自分がアンドレイにそんな事を言われ挑発されなければならないのか。
サリエルは込み上げる怒りをどうにか飲み込み……冷静に答える。
「素敵な方でしたから。大尉のファンは伝習所だけでなく、街のあちらこちらに居りますわ。暫くお会い出来ないと思うと、寂しいですわね」
「そうですか……では、貴女にも申し訳無い事をしましたね……」
幸い、アンドレイの発言の意図もそれ以上の物ではなかった。男爵は単に、このエレーヌとよく一緒に居るメイドも、陸軍伝習所でモンティエと懇意にしていた事を思い出しただけだった。
暫くの間、静寂が流れる。
エレーヌは化粧直しなどと言っていたものの、正餐の場でこんなに長く客を待たせるのは重篤なマナー違反である。増してや、もてなす側も客も一人だというのなら猶更だ。
これでは、男爵がいつ「帰る」と言い出してもおかしくはない。
「さて……エレーヌ殿は体調を崩されたのかもしれませんね」
実際アンドレイは、ついにディミトリにそう切り出した。
「あ、あの!」
サリエルは一歩前に出る。ここでアンドレイに帰られたら、お嬢様の命令を果たせない。そう、悲壮な覚悟を決めて。
「私……騒がしい雄鶏が、人間に見つかって急に澄まして歩く所を……」
ディミトリが青ざめ、ヘルダが顔を赤らめる。二人は必死に、目と表情で、サリエルに自重を促す。
アンドレイはサリエルの言っている事の意味が解らず、呆気にとられていた。
そこへ。
「わぁぁぁああああ!!」
騒がしい喚き声と共に。ダイニングの重厚なマントルピースを持つ暖炉から、真っ黒な雄鶏、いや、十歳ぐらいの少年が転がり出して来た。
「出た! 出たああ! お化け! お化け!」
少年は煤だらけの体で、腰が抜けたようにダイニングの床を必死に這い回り、やがて、どうにか立ち上がる。
「あっ……これは皆さん……晩御飯の最中でしたか」
少年は回りを見回し、アンドレイやサリエル、ディミトリ、ヘルダ達に気付くと、澄まし顔でシャツを二回、ぱんぱんと叩く……それでまたダイニングに煤が散る。
その様はまるで、騒がしい雄鶏が、人間に見つかって急に澄まして歩く所の様だった。