マッチ売りの少女アリーセ 第五話
「商会の有利子負債は二万二千フラム、ショーウインドウの設置や工場の増築など設備投資の為に借り入れてますね。商品や材料の在庫はエイル水運の倉庫に委託されています。商会全体の総資産は九万フラムを越えるかと」
「財務も健全ですのね……銀行はどちらと御取引を」
「ローザンヌ銀行のカトラスブルグ支店です、先代からの付き合いだと」
「ええっ!?」「何と……!」
トマの報告にディミトリとサリエルが驚く。三人はディミトリの書斎で謀事を続けていた。
「そこは問題でしょうか?」
「問題になると困るのですわ、ローザンヌ銀行と言えばローザンヌ財閥の主力銀行で名誉総裁はお嬢様のお母様、クリスティーナ様ですのよ」
「大袈裟じゃないか……? 公爵令嬢の伯爵夫人が一支店の小規模な貸付案件にまで口出ししたりするでしょうか」
「今回の一件にお嬢様が関わっていると知れたら、きっと騎士団を率いて駆けつけられますわ……お母様はとてもお嬢様への愛情が深い方ですのよ」
サリエルは頭を抱える。ディミトリは安楽椅子に深く座り直し、肩を落として指を組む。
「ミトンを一組売って欲しいという、単純な話なのだが。実際に動き出してみると、一筋縄では行かないものですな」
トマはこの案件をそこまで複雑に考えてはいなかった。
「僭越とは思いましたが、一つ別の手も打たせていただきましたよ」
「どういう事だね?」
「まず、隣町の職人、レアルの趣味人クラブ、川向いの商工会、それにうちの母親ですね、それぞれに予算を振り分けあのミトンと同じ物を造るよう依頼しておきました。過度の期待は出来ませんが、もし誰かが良い物が作れれば話は早いかと」
「なるほど。仕事の早い」
ディミトリは少しだけ微笑む。サリエルは少し眉を顰める。
「確かに……ですがお嬢様の鑑定眼は遥か極東の国で作られた仏像の真贋をも見破るレベル、どこまで通用するかは疑問ですわ」
そう口に出しておいてから、サリエルは即座に少し反省する。トマのした事は低コストでリスクも少ない安全な賭けだ。こういう事を黙って手配出来る辺り、やはりトマは有能なのだとサリエルは思う。
しかしサリエルにもエレーヌの家臣で一番の策士は自分であるという自負がある。時々自信を喪失する事もあるが、そうした矜持というのは簡単には捨てられないものだ。
対抗心を抱いてしまうのは、仕方がない。
◇◇◇◇◇
エレーヌは出掛けて行った時と同様、辺りを見回し人目を避けながら伯爵屋敷に戻って来て、例の仕掛け通路から部屋に戻った。
そうして何食わぬ顔で部屋着に着替えたエレーヌは、彼女の区画の中にもあるメイド用の物入れからハタキや雑巾を取り出し、自分の部屋の掃除を始めた。
実際にはこの区画は屋敷の中でも特に清掃が行き届いており、本棚の天板の上にだって埃一つ落ちてはいないのだが……エレーヌは鼻歌まで歌いながら方々にハタキを掛け、乾いた雑巾で磨いて行く。
伯爵屋敷の夜は、静かに、平和に更けて行った。
◇◇◇◇◇
木曜日。空は良く晴れ上がり、気温もこの季節としては暖かい、穏やかな朝。
エレーヌはサリエルが起こしに来る前に起きて、自分で身支度を始めていた。普段であればタオルもその換えもサリエルに差し出されたのを取るのだが。
そんなエレーヌが大きな三面鏡を備えたドレッサーの前で洗顔をしていると、サリエルがパジャマ姿のまま大慌てで駆けて来る。
「お嬢様申し訳ありません! 私、寝坊してしまいました、ああっ、私ったら御仕着せも着ないで……お嬢様、どうかこの姿で御支度を手伝う事をお許し下さい、罰があれば後で承りますので今はどうか」
「いいのよサリエル、私が三十分早く起きただけですもの。それより寒そうだわ貴女、気の毒に……もう少し御布団で暖まって来ても宜しくてよ?」
エレーヌが驚く程優しい言葉でそう言うので、サリエルはますます震え上がる。
「そ、そのような事をおっしゃらず、何卒御願い致します! どうかいつものように、私に御髪を整えさせて下さい、御願い致しますお嬢様!」
酷く憔悴するサリエルを見て、エレーヌは苦笑する。
「まあ、サリエルったら大袈裟ですわ……それでは遠慮なくお願い致しますわ。けれども本当に寒くありませんの? ガウンを取って来て下さっても宜しくてよ? ああ、それとも私のガウンをお召しになる?」
「め、滅相もございません! どうかお心遣いなく!」
エレーヌの様子は常日頃と同じではなかった。眉間に皺を寄せる事も声を荒らげる事もなく、機嫌良く鼻歌など歌っている。歩く姿も、ふわふわと羽根が生えたように軽い。
サリエルは何故エレーヌの機嫌がいいのか解らなかった。いや、サリエルはエレーヌが機嫌がいいのだと信じる事が出来なかった。
一方、サリエルの様子も常日頃と同じではなかった。エレーヌがいつもより早起きだったのは確かだが、サリエルが寝坊したのも確かである。
サリエルは寝不足だった。しかしエレーヌはその事に気づかなかった。
それから一時間半後。二人はいつものように聖ヴァランティーヌ学院に向かう為、馬車の待つ屋敷のロータリーに現れる。
執事長のディミトリはいつも通り、そこで見送りの為に待っていた。
「行ってらっしゃいませ」
「ありがとうディミトリ、今朝は暖かいですわね。こんな日に仕事ばかりしてたら勿体無いわ、今日は皆さん仕事は控え目にして、代わりにお庭で日向ぼっこを楽しんだらどうかしら。是非そうなさって」
いつになく優しい事を言いながらエレーヌは馬車に乗り込む。
サリエルは無言でその後に続く。今日はエレーヌは自分の鞄を自分で持っていたので、サリエルが持っていたのはサリエルの鞄だけだった。
ディミトリはそんなサリエルにじっと視線を向ける。サリエルは感情を押し殺した顔で、その視線を避けて他所を見る。
そんなサリエルの視線の先にはちょうど、庭師見習いのトマが居た。トマも腕組みをしてサリエルを見ていた。サリエルはトマからも視線を逸らし、逃げるように馬車に乗り込む。
伯爵家の四輪馬車が走り出す。
残されたディミトリとトマは顔を見合わせる。ディミトリは小さく首を振り、トマは溜息をついた。
馬車はいつも通り、屋敷前の広い道、それから長屋通り、その次は鍛冶屋通りへと進む。
エレーヌは詩集など開き、やはり鼻歌でも歌うようにその一節を小さな声で諳んじていた。サリエルはただ背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いたまま瞳を閉じていた。
さて、馬車が金融通りから戦勝記念通りへと差し掛かる。その曲がり角の所で。
「……あら?」
エレーヌは車窓の景色に目を留め、詩集から顔を上げる。サリエルの頬がピクリと震える。
エレーヌが見た先にあるのは例のテーラー『梟の森』であった。その前にはカトラスブルグ警察の蒸気自動車が一台停車している。周囲には二人の制服警官の姿もあった。
「停めて」
エレーヌは顔色を変えて覗き窓越しに御者にそう命じる。馬車が停まるとエレーヌは自分で扉を開け、歩道に降りる。
店の前には制服警官の他、ブルドッグのような獰猛な顔立ちのミシリエ刑事も居た。エレーヌとはお互いに顔見知りである。
「何の騒ぎですの? まさかこの店に空き巣でも入ったんじゃないでしょうね?」
エレーヌは腕組みをして居丈高にそう言った。エレーヌとしては半ば冗談で言ったつもりだった。しかしミシリエ刑事は眉を顰め肩をすくめる。
「まさか貴女はまた何か御存知なのではないでしょうな? 昨夜遅くこの店に侵入者があったそうです」
ミシリエは伯爵令嬢の反応を期待せずそう言った。しかしエレーヌはたちまち刑事の元に駆け寄って来た。
「このテーラーに賊が入りましたの!? それで何が盗まれましたの!?」
「ああいや、店は閉店し明かりは消していたものの、店員が一人残っておりまして。鉢合わせになった侵入者は何も取らずに逃げたと」
「何も盗らずに!? そ、そう……そうですの……」
エレーヌは露骨にホッとした顔を見せる。
「ですが。店員が念の為、退店したふりをしてもう一度店内に潜んでいると、侵入者は再び戻って来たのだそうです。店員は再び追い払いましたが……侵入者は間違いなく店の裏口の錠前を簡単に開錠してしまったそうで。プロの空き巣の犯行かもしれませんな」
ミシリエはそう言って、密かにエレーヌの反応を伺う。
エレーヌは急に刑事の元を離れショーウインドウに駆け寄る。そしてそのガラス面にすがりつくなり……安堵に肩を撫でおろし、深呼吸をする。
「良かった……うさぎミトンは無事ですわ……」
エレーヌは結局、すぐに馬車の中に戻って来た。
「出発して」
浮ついた気分を吹き飛ばされてしまったエレーヌは、ちょうど普段程度の機嫌に戻った声で御者に告げた。
馬車は再び、学院に向けて動き出す。
「全く……物騒な世の中になったものですわね」
エレーヌは一人、そう呟く。正直な所今エレーヌの頭の中は無事だったうさぎのミトンの事で一杯だった。
だからエレーヌはテーラーの前に居る間サリエルが馬車から出て来なかった事にも、サリエルが青白い顔をして必死にエレーヌから目を背けている事にも気がつかなかった。




