マッチ売りの少女アリーセ 第四話
エレーヌがテーラーのショーウインドウに貼りつき、うさぎのミトンに一ミリでも近づこうと頬を寄せている所へ。戦勝記念通りと交差する路地の方から、一人の身なりのよい中年男が歩いて来る。これはこのテーラーの売り場を預かる責任者のロイズという者だった。
「コホン。私はここの店の者ですがお嬢さん、ガラスには手を触れないで下さい……さらに言えば額や頬を擦り付けるのは論外です。人の脂というのは意外と拭き取りにくいものでね」
エレーヌは自分の青灰色の狼のような瞳を隠す為、分厚い眼鏡も掛けていた。
「す、すみません」
エレーヌはガラスから顔と手を離す。彼女は全く無意識にそうしていたので、この紳士に言われるまで自分が何をしているのかに気付いてなかった。
「それにその手袋は炭だらけだ。それは暖炉の掃除でもする時につける物では?」
さらに紳士は言う。エレーヌは自分の手を見る。たしかにこの手袋は暖炉を火掻き棒で掻き混ぜる時に使う、ただの古びた軍手である。この軍手だけは唯一仮装用ではなくエレーヌが普段使いしている物だった。
「申し訳ありません。つい……私、今はこのような古い手袋しか持っておりませんの。それで! あの白いうさぎのミトンがどうしても欲しいと思いましたの!」
エレーヌは演技っぽくそう言った。貧しいが清く正しい夢見がちな娘の演技である。あわよくばこのままミトンを売っては貰えないかと思っての事だった。
ロイズはエレーヌの身なりを上から下まで見回して、溜息をついた。
「およしなさい。このミトンは毛皮のコートを着てお抱えの馬車に乗ってやって来た御夫人が、自分の娘に買い与える為の品です。悪い事は言わない。この店で十七フラムのミトンを買う前に、市場の古着屋へでも行って七フラムのセーターを買いなさい。人には分相応というものがある」
エレーヌは自分のプロポーションの良さで正体がばれないようにと、服の下に腹巻きをつけ自分では芸術的と思う腰のくびれを隠して来た。それだけでは足りないと思ったので二十フラム札百枚の束を前と後ろで二つ、腹巻きの中に隠して来ている。これを取り出して頬を引っ叩いてやったら、この男はどんな顔をするだろう。
そんな事を思いつつも、エレーヌが沈黙していると。
「ああ、それにこれは誰かが予約済みだ。御覧なさい、小さな札がついているでしょう? あれは売約済みの印です。まあ今日の所は向こうの金物屋で新しい軍手を買ってはどうですか? 二束で一フラムでしたよ。ホッホ」
ロイズの勇み足だった。彼は自分が今軽口を叩いてからかってやった一見貧しい女工風のこの若い女性が、実は伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートだなどとは夢にも思っていなかった。
代わりに新しい軍手でも買えと? この男は自分の仕事を何だと思っているのか。少しばかり金があるからと言って、何と傲慢な男なのか。
そして自分はつい昨日、この店でさんざん取引を断られたのだ。金ならあるから売れ、二倍で、三倍でどうだ、さらには店員にも二十フラム払うからどうだと。
そこまで提示してもこの店の若い女店員は、この店にはこの店の誇りがある、お客様の信頼は金では買えないなどと言い張り、断固として首を縦に振らなかった。
ところが今日はどうだ。人が欲しいと言っているのに、このミトンはお前には相応しくない、向こうの店で二束一フラムの軍手でも買えと言う。一体この店の誇りというのは何なのか?
背を向け、店に入ろうと立ち去って行く男。
その背中を見つめるエレーヌの、いや伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの怒りが爆発しようとした、その時。
「お待ち下さい!」
エレーヌがまさに札束でロイズの後頭部を引っ叩いてやろうかと自分の懐に手を突っ込んだ瞬間。エレーヌを後ろから追い越した背の低い人影が、ロイズに追い縋った。
「今のお話はあんまりですわ! 貴方はどうして素敵なミトンが欲しいという女の子の気持ちを理解して下さらないの!? それでテーラーの御主人が勤まりますの!?」
袖を捕まれたロイズは反射的にそれをやや乱暴に振り払う。しかし彼も、自分の袖を掴んだのが十二、三の少女だと知ると、すぐに気まずそうな顔をする。
「この方は貴方のお店のミトンを欲しいとおっしゃっていますのよ! 向こうで軍手でも買えなんて、そんなのあんまりですわ!」
「ああ、あの、これは」
ロイズが答えようとして口籠っている間に、店の扉が内側から開く。中から出て来たのは、昨日その少女……アリーセと話していた、その後で伯爵令嬢のエレーヌとも話した、あの若い女の店員だった。
「申し訳ありませんお客様、当店の者が失礼を致しました」
「ああ、カロリーヌ、これはその……」
カロリーヌというのはその若い女店員の名前らしい。彼女はこの店の新米店員に過ぎず、売り場責任者のロイズから見れば部下の部下ぐらいに当たるのだが。
「聞いてましたよ、ロイズさん。女の子は素敵な持ち物が欲しいの、だけど何でもかんでも買える訳じゃないの、それは皆解ってるわ。だから夢を見るのよ!」
カロリーヌはショーウインドウを指差す。
「頑固なお年寄りは、こんな風に品物を見せびらかして女の子の気持ちを掻きたてるなんて不謹慎だって言うけど。私は素敵だと思うわ! 私だってここにある物を自分が所有出来たらなあって想像して幸せな気持ちになるもの! まあ……実際に買うお金は無いから、想像するだけ。でもそれがショーウインドウでしょ」
そう言ってカロリーヌは少し笑うが、すぐに腕組みをしてしかめっ面をする。
「それなのにロイズさん。貴方何て言ったの? 軍手でも買えばって? そうね、軍手は安いし暖かいわ、私も軍手ならすぐに買えるわよ。みんながそうすればいいの? でもそれだったら……」
こんな店は要らないではないか。
女達がみんな軍手や作業着で満足するならこのテーラーは要らない。しかしカロリーヌもそこまでは言わず、言葉を濁した。彼女はこの店を愛しているのである。
カロリーヌはそれ以上ロイズを責める代わりに、エレーヌとアリーセに向き直る。
「ごめんなさい、こんなおじさんには乙女心は解らなくても仕方ないわ、どうか許してあげて?」
ロイズは謝罪とも誤魔化しともつかない事をブツブツと言いながら店内に引っ込んだ。
「でもお嬢さん、このミトンが売約済みというのは本当なの。これは売れないのよ」
カロリーヌはエレーヌに、申し訳なさそうに微笑んでそう言った。
カロリーヌは全く気づいていなかった。エレーヌの方は勿論よく覚えている。
エレーヌは昨夜、この女店員と戦ったのだ。ミトンを売るように迫り、自分がカトラスブルグの名門伯爵家の跡取り娘である事をアピールし、自分にいかに名声があるかを語り、金ならいくらでも出すという事も言った。
エレーヌがそんな事を思い出していると。
「ねえ、貴女もこのミトンが好き?」
エレーヌより三十センチメートルは背の低いアリーセが、エレーヌを見上げて微笑んだ。
「えっ……ええ勿論、大好きですわ! この瞳がたまりませんの!」
「私も! この子と一緒ならどんな冬も寒く無さそうだわ!」
アリーセはそう言って微笑み、カロリーヌに向き直る。
「カロリーヌさん! 御願いがあるの! この子の予約に、このお姉さんも混ぜてあげて!」
アリーセはそう言って、その笑みをますます輝かせた。
「ええっ……どういう事?」
「私とこのお姉さんとどちらか! 土曜日までにお金を持って来た方がこのミトンを買えるって事にして欲しいの!」
「ちょっと待って、それだとこのお客さんが今十七フラム持ってたら、今売る事になるわよ?」
「その場合は……仕方無いわ。だけどこの素敵なミトンが欲しいっていう気持ち、私とってもよく解るもの。このときめきを私だけが独り占めするなんてずるいわ」
エレーヌの心の中を、嵐が吹き荒れていた。
暴風雨の中、岬の先端に立つエレーヌに、滝のように降る雨が、押し寄せ砕ける白波が打ちつけ、エレーヌの全身に真っ黒くこびりついた汚泥を洗い流して行く……そんな心地がした。
エレーヌは。
心底、反省していた。この女店員に金と権力の力で迫り、ルールを曲げてでも強引にあのミトンを売らせようとしていた事を。
このような年端も行かぬ少女を相手に、モラルを叩き割り予約を吹き飛ばして、このミトンを入手しようとしていた事を。
彼女はなんと高潔なのだろう、彼女だってこの世界一素敵なミトンが欲しいに決まっているのに……自分がこれを入手する機会を失うのが怖くないのか?
そうではないのだろう。彼女は正々堂々、自分をライバルと認め、公平な勝負をしてくれるというのだ。
なのに自分は。先程までの自分は何を考えていたのか。これではどちらが高貴な伯爵令嬢なのか解らないではないか。
仮装用の分厚い眼鏡の横から見えるうさぎのミトンは、今も魅力的だった。今すぐ欲しいかと言われたら、やっぱり欲しい。欲しいけれど。
「ありがとう……私……私はベル、貴女は」
「アリーセよ」
「アリーセ、私も今は十七フラムは持ってないわ、その、えー……お手当てがまだだから……でも本当にいいの? 私の方が先に持って来てしまうかもしれないわよ? だって、こんなに素敵なミトンは本当に欲しいもの」
エレーヌは口ではそう言ったが、それはもうせめて、アリーセも大好きだというこの素敵なミトンを称えたいという一心だった。
エレーヌはもう心に決めていた。このミトンはアリーセの物になるべきだと。自分は正しい敗者になる事で、アリーセの義侠心に応えるべきだと。
「うふふ、じゃあ……握手!」
アリーセは屈託なくそう言って笑った。エレーヌは自分の手を見る。いくら何でもこんな炭だらけの軍手をしたまま握手は出来ない。エレーヌはそれを取り、手を差し出す。
二つの手が交わる。
「それじゃあ私、さっそくお仕事に行くね! 負けないわよベル! きっとまたこのショーウインドウの前で会いましょう!」
アリーセは早くも振り返り、売り物の入った籠を抱えて戦勝記念通りを駆け出して行く。
「頑張ってね、アリーセ、ベル。私もお店に戻らなきゃ」
カロリーヌもそう言って店の中に去る。
通りにはエレーヌだけが残された。エレーヌは自分の掌を見つめていた。アリーセの小さな手は驚くほど乾燥していてガサガサで、あちこちにささくれやかさぶたがあった。自分の手のように、しっとりとして滑らかな場所など無かった。
エレーヌの掌の上に、ぼたぼたと大粒の水滴が落ちる。
あのミトンはアリーセの物になるべき、ではない。
あのミトンは絶対にアリーセの物にならなくてはならない。
エレーヌはそう思った。
エレーヌの目には、ミトンのうさぎの顔が……小さく頷いたかのように見えた。




