煙突掃除のフリック 第四話
「ふん、ふん、ふーん……真ん中の煙突が駄目なら、反対側からやっちゃおう」
煙突掃除人の少年は屋敷の裏庭を、今度はエレーヌの区画がある側に向かって走って行く。
煙突掃除はこの時期が書き入れ時なのだ。エドモンには明日来いと言われたが、今日やってしまえば明日はまた別の所を周れる。
本格的な冬が来ると仕事そのものが辛くなる。稼ぐなら今のうちだ。
さて、二階の屋根から伸びる煙突はここからも見える。こちら側の煙突は二本か。暖炉が一階と二階で別にあるのかもしれない。
二階の暖炉のちょうど真下辺りだろう、。屋敷の壁沿いに、何かに使われなかったような古い石材が、ごろごろと置いてある場所があった。
そこは古い苔むした排水溝の跡がある陰気な場所で、屋敷の庭師達もさすがにあまり近づかないようだ。二階からも庭からも見えにくく、一階には窓もない。
先程行った屋敷の反対側の区画の一階には、裏庭へ出る扉や使用人の通用口もあったのだが。こちら側は、何か大切な物でも隠しておく場所なのだろうか。
少年はその場所に近づいて行く。そしてマッチを一本擦って、手持ちの蝋燭に火をつけ、それを排水溝のあちこちにかざす。
やがて。苔むした石組の間の一つの前に来た時に、蝋燭の炎が揺れて歪む。
少年がその場所の石を、押したり引いたりしてみると……重そうに見えた石の一つがゴロリと動き……三十センチ程の開口部が出来る。
その奥にあるのは、屋敷内部の通風孔か何かのようだ。
「ほらあった。これが暖炉に通じてるんじゃないかな」
煙突掃除人をやっていると、このような仕掛けに出会う事がある。特にこのような古い大きな屋敷では。
煙突掃除人の少年、フリックは、彼が掃除すべき煙突を見つける為、迷わずその隠し通路へと潜り込んで行く。
◇◇◇◇◇
正餐はここに来て粛々と進んでいた。仔牛のフィレ肉を使い熟練の料理人が仕上げたソテーは、良くも悪くも、美食家から及第点を貰うのには十分な料理と言えた。
「素晴らしい。このような腕を持つ方が専属の料理人としてお勤めとは……近頃では珍しい事ですよ」
アンドレイの呟きが、ふとサリエルの心に留まる。
サリエルは、アンドレイの屋敷には専属料理人は居ない事を知っていた。
しかし当世であればいくら貴族の家とはいえ、アンドレイの、ローゼンバーク家の屋敷の在り様の方が普通なのだろう。
今時の考え方からすれば、エレーヌ一人の為に腕利きの料理長が専属で雇われていて、その下にやはり専属の見習いが何人も居るのは、贅沢が過ぎるのかもしれない。
メイドだって十一人も居るのだ。しかも屋敷の主人オーギュスト伯爵はここには滅多に居らず、その妻クリスティーナ夫人も居ない。
「まあ。ジェフロワ……当家の料理長も、アンドレイ様のお言葉を聞いて喜びますわ。後できっと伝えなきゃ! ありがとうございます」
エレーヌは相変わらず、明るく純粋なお嬢様を演じていたが。
「……我が屋敷にも父の代までは住み込みの料理人が居りましたが……ここまでの腕などございませんでしたし、今は居りません」
アンドレイは、やや力なくそう呟く。
古い封建領主は、文明世界から姿を消しつつあった。
貴族がその生まれのみを以って、人を支配し富を独占出来るという考え方はもう通用しない。
ストーンハート家は曾祖父の代から新しい世の中を見越していて、古い封地からの富を近代的な企業の富に転換する事に邁進して来た。
その結果、ストーンハート家は炭鉱や海運、製鉄会社など、時代の寵児である企業をいくつも傘下に持つ、近代資本家への転身に成功していた。
しかしそういう事が出来た貴族は決して多くない。
「アンドレイ様は御忙しいのでしょうし、御屋敷に居られない事も多いのでしょう。合理的なお考えなのですわ」
憂鬱そうな表情のアンドレイに、エレーヌは勤めて明るく語り掛ける。
「あの屋敷も、一時は手放したいと思っておりました。今は……どうやら手放せなくなりましたが」
「創建は帝国時代まで遡る、歴史ある文化財ですものね」
エレーヌは世辞を重ねるが、アンドレイは苦笑いを返しただけだった。
サリエルは思った。エレーヌは何故アンドレイを招いたのだろう。その疑問は最初からついて回ってはいたのだが。
こんな風に、エレーヌが他人に気を遣うのはとても珍しい。先程から、何かにつけ沈みがちなアンドレイに、様々な話題を持ちかけ、楽しい晩餐にしようと努めているのは専らエレーヌの方だ。
もしや男爵に何かいたずらでも仕掛けるのではないかと。今更そんな事をするのはそれはそれで、人としてどうかと……サリエルはそんな危惧もしていたのだが。
ここまでの所エレーヌは、単に誠心誠意アンドレイ男爵をもてなしているように見える。
「メイン料理でございます」
そこへ。正規のシェフ帽を被り、ワゴンを押して来たのはジェフロワではなく、若いブルーノだった。
エレーヌは最初、ぼんやりとブルーノを見ていたが、急に何かを察したかのように青ざめる。
ブルーノは淡々とワゴンをテーブルにつけ、まずクロッシュを乗せたままの皿をテーブルの上に慎重に移す。
「あの……ジェフロワはどうかされましたの……?」
エレーヌは微かに震えた声で言った。
「本日のメイン料理は、私が担当させていただきました」
エレーヌはさらに青ざめ、目を見開く。
「あの、お待ちになって。貴方はジェフロワの元で修行中の身ではありませんでしたかしら。大丈夫ですの? 本当にこの正餐の場に相応しい料理をお持ち下さいましたの?」
エレーヌはアンドレイに聞かれないように声を落とし、早口でそうブルーノに迫る。
その言葉は刃のようにブルーノの矜持を深く切り裂く。ブルーノもやや青ざめながら答える。
「これが私に出来る全てです。全身全霊を込めました」
その答えを聞きエレーヌはますます青ざめる。違うのだ。ブルーノは腕が悪いのではない。彼は料理に全身全霊を込めてはいけない人間なのだ。
ブルーノは二つの皿のクロッシュを持ち上げる。
そこにあったのは……何と言う事の無い光景だった。
それぞれの皿の中には真っ赤に染まったオマールロブスターが居た。
ロブスターといえば、普通は十分調理されてから出て来るものだが。このロブスターはそれなりに大きなハサミを振りかざし、上半身を起こし、今にも目の前の敵に掴みかからんとしているような姿勢で……停止していた。
そして実際に、それぞれのロブスターの前には騎士が居た。全長十センチメートルぐらいの、ブリキの騎士だ。
両手で剣を頭上に構えていて、背中にレバーがついている。
このシーンは周囲をジャガイモとニンジンで作った低い石垣に囲まれていた。石垣にはバジルで苔のような演出も加えられている。
エレーヌが硬直し、アンドレイが呆気にとられる中、ブルーノは皿を静かに主賓と主人の前に置く。
「こちらはそのレバーで」
ブルーノが説明を始めようとする前に、エレーヌは騎士の背中についたレバーを無造作に押す。するとブリキの騎士の剣が振り下ろされ、その切っ先が、ハサミをふりかざすロブスターの顔面にヒットする。
数秒の余韻の後、ロブスターの二本の大きな髭がぽとりと落ちた。次に大きなハサミがもげて皿に落ち、パカッと割れ、中から丁寧に切り取られ、焼き目をつけられた爪の身が皿の上に転がる。
それを合図にしたかのように、甲羅も背中からパカパカと割れて、外側に転がり落ちて行く。次に持ち上げられていた頭がボトリと皿に落ちて、やはり二つにパカッと割れた。
最後に、丁寧にカットされ加熱されていた身がぺたんと皿の上に落ちる。その周りに、甲羅の中に閉じ込めてあったクリームソースが広がって行く……
エレーヌの顔色が青から赤に変わって行く。
全てを出し切ったブルーノはエレーヌの顔を見ようとせず、そのまま後ずさりして退出しようとする。
「ふ、ふふ……」
誰かが、笑い出した。
「あ、あの、アンドレイ様、この料理人は先日屋敷に加わったばかりで……」
エレーヌは震える声で、よく解らない言い訳を始める。
「なる程……さすがオーギュスト様の御屋敷……素晴らしい料理人が居らっしゃるとは思っておりましたが、ここまでとは……はは、ははは……」
その時。
――ガチャ……ガラガシャアアアン!!
突然、暖炉の方から……何か大きな、金属製の物が倒れたか、あるいはガラスが砕けたかというような物音がした。続いて。
――痛ってェェ! ひゃっ!? 何だこの化け物!?
そんな、若い男と思われる叫び声が、やはり暖炉の奥から聞こえて来た。