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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの平凡な日々  作者: 堂道形人
弁護士クロヴィス・クラピソン

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弁護士クロヴィス・クラピソン 第十一話

 ホテルのフロントでサリエルが弁護士クラピソンの名刺を提示すると、ホテルマンは背後の非常に細かく区切られた扉付きの棚の一つを開き、中の書類と照合し、カード状の小さな鋳物の板のような物を差し出す。


「こちらをお持ちになって、Cの四番のデスクの向かいのソファにてお待ち下さい」


 そしてホテルマンは、当然のように電話機を取り、ダイヤルを回す……サリエルはやや呆気に取られていた。


 この国に極端な新しい物好きが多い。レアルに世界一高い、三百メートル超の鉄塔が建ったのは何年も前だ。

 一方で歴史や伝統を愛し、そうした物を異物として嫌う者もたくさん居る。さらには自分も新しい物好きでありながら、他人の新しい物は酷く嫌う、ややこしい者も居る。


「六○七号室の御客様が電話に出ませんわ……在室ランプは点いてますのに」

「またか……あの客は電話が嫌いなんだと!」

「困るわ……電話の何がいけないのかしら」

「自分が電話の音に呼び出されて電話機の近くへ行くのがいけないらしい。つまり、電話が来いと」


 フロントからそんなぼやき声が聞こえる。サリエルは思わず含み笑いを漏らす。以前エレーヌが全く同じ事を言っていたのだ。


 自分は新しい物が好きだが、自分が新しい物に侵害されるのは嫌う。それは正に、最近は写真に凝っていて自分でフラッシュの調合までするが、去年自分のリビングに電話機を設置してみたものの、ベルの音に呼びつけられるのが嫌になり、十日で撤去してしまったエレーヌの事だ。


 Cの四と書かれたデスクを見つけたサリエルは、その向かいのソファに座る。カラフルでモダンなデスクは若いデザイナーが作った物だろうか。電話機はこのデスクの上にもある。

 辺りを見渡せば、他にも……まるで一つ一つが独立した事務所であるかのように機能している……製図台を置いて図面を引いている者、自動車の模型を手に商談を進めている者、泣き続ける黒衣の婦人の相談をずっと聞いている者……


 サリエルは溜息をつく。これが間もなくやって来る、二十世紀の働き方なのだろうか。

 デスクを借りているのは男性だけではなかった。若い女性が、デスクの周りに色鮮やかなリトグラフをいくつも広げ、二人の男性の顧客と話し合っている。あれは美術品ではなく商業広告のようだ。

 少し前まで、商業広告のデザインをするという事は美術の中では卑しい事とされていた。今もそういう向きが無くなったとは言わないが、優れた商業広告には値千金の価値がある事は広く知られている。広告の良し悪しで商品の売り上げが二倍になる事だってあるのだ。


 サリエルは思う。自分がもし、屋敷を追放され市井に放り出されたらどうなるのだろう。

 ここに居る人々のような、二十世紀モダンな生き方が出来るだろうか? どうも自信が無い。自分には出来ないような気がする。


 自分は二十世紀どころか、十七世紀ぐらいの生活をしていると思う。

 貴族の家に住み込み、衣食住を保証される代わりに労働力を提供する。専門的な知識は何ら必要ない。ごく普通の、どんな家にもありそうな家事を手伝うだけだ。


 自分が何も出来ない役立たずとまでは思わない。頑丈さには自信があるし給料だって自分一人食べていけるくらい貰えればそれでいい。だけど。自分が未来の女になるのは無理だと、サリエルは思う。

 世の中がどう変わっても、自分はメイドで飯を食いたい。勿論、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・スートンハートの元で。



「お待たせして申し訳なかった。こんなに早く来ていただけるとは思っていなかった」


 突然声を掛けられ、サリエルは慌てて顔を上げる。自分が座ったソファの正面のデスクの向こうに、弁護士クロヴィス・クラピソンが立っていた。見た目の雰囲気からすると、ホテルの部屋に居たのではなく、ちょうど今外から帰って来たようである。


「あ、あの、これは必要ですか?」


 サリエルはフロントで渡されたカード状の小さな鋳物の板を差し出す。クロヴィスはポケットから似たような板を取り出し、サリエルが取り出した板と合わせる。二つの板はパズルのようにぴったりと合い、一つの模様を形作る。


「別にこんな物がなくても貴女を忘れたりしませんが……こういう仕掛けを使い人違いによるタイムロスを防ぐのが二十世紀だそうです」


 クロヴィスは真顔でそう言いながらデスクの向こうの執務椅子に座り、引き出しに入れてあったファイルを取り出す。


「貴女の祖父イヴァン・マンフレート・サルヴェールさんは九月の初め頃に亡くなりました。河の向こうの国の話です。私はかの国の弁護士からの依頼を受けイヴァン氏の息子セザールを探しておりました。しかしセザールとその妻マエリスはユルゲン戦争の衝突に巻き込まれ亡くなっていた。夫妻には六歳の娘が居た。それが貴女ですね」


 そこまで言って、クロヴィスはサリエルの反応を待つ。サリエルは何かを気にした様子もなく応える。


「おっしゃる通りですわ」

「腹立たしいとは思わないのですか。私の態度を、或いは当時、貴女を迎えに来なかった祖父の事を」


 サリエルはただ、小首を傾げる。


「先生はお仕事をされているだけでしょう? そして祖父はきっと貧しかったのでしょう。それだけですわ」


 サリエルは嘘もついていないし無理もしていない。世の中には生活の苦しい者などいくらでも居るし、そもそも自分には生活が苦しかった事など一度も無い。


「セザール氏は三男、上に二人の兄が居り、いずれも河の向こうの国で暮らしていた。この家族に関しては」

「先生、私、親戚には御会いした事がありませんの。隣国で生活されているという事は父から聞いておりましたが」

「イヴァン氏はセザール氏が亡くなる一年前に長男を、そして数年前に次男を亡くしている」


 クロヴィスはそう言って、眼鏡越しに極めて真剣な眼差しでサリエルを見つめる。


「あ、あの、先生……? 私の叔父達は何故そんな……」

「いずれも、戦争です。貴女の二人の叔父、そして貴女の実の父と母は、皆戦争で死んだのです」


 サリエルははっと息を飲む。クロヴィスは続ける。


「サルヴェール家は元々はこの国の住民でしたが、イヴァン氏の代に向こうに移った。その後生まれた子供のうち、三男のセザールは家出同然にイヴァン氏の元を離れ、この国に移り住んだ。イヴァン氏はそれを追わなかった。三兄弟の中でも一番心優しかったセザールには、兵隊になって欲しくなかったのです。セザールは兵役逃れの罪を着た為、イヴァン氏は連絡を取る事が出来なかった」


 クロヴィスはそこでサリエルを見つめるのをやめ、書類に目を落とす。


「イヴァン氏の遺産は、一般的な尺度から見ればごく僅かでしょう……いくらかの現金と日記、それに記念品。農地や家屋は借地でした。イヴァン氏は自分の死期を悟ると、家財を処分し現金を作った。このお金の殆どは、唯一の高額資産であるピアノを売った代金です……彼は山暮らしのピアニストだったそうですよ」


 サリエルはクロヴィスの目を見られなくなっていた。目を伏せ、震える手を膝に置き必死に耐える。


「イヴァン氏はセザールが亡くなっていた事を知らなかった。自分が連絡を取ればセザールの迷惑になると信じていた。私にはその理由までは解りません。だけど最後に、親らしい事をしてやれなかったセザールの為に、この財産をまとめた」


 サリエルはもはや、顔を上げる事も出来ないまま項垂うなだれていた。


「貧しい祖父の遺産でも、受け取るとなればきっと煩雑はんざつな手続きが要るだろうし、小うるさい弁護士の顔を何度も見なければならなくなる……私もこういう仕事をしているので、そういう反応を戴く事がよくあります。人は意外と遺産を受け取りたがらない。サリエルさん。貴女もただ相続辞退の書類にサインすればいいと思って、ここに来られたのではないですか?」


 何と容赦の無い男だと、サリエルは思った。いくら美男子いけめんでもあんまりだ。み出した涙が太腿に落ち、小さな染みを作る。


 クロヴィスの言う通りだ。自分は大きな暖かい屋敷で何不自由なく暮らしている。だからと言って、家財を売り払いがらんとした山間のあばら家に住む貧しい祖父が、父セザールの為文字通り必死で残した遺産の相続を、少額だからと言って見向きもせず辞退する、そんな傲慢な事があっていいだろうか。


「なるべく貴女の手間を省いてあげたいが、私も仕事です。証明書の取得などの代行をした場合は法定手数料を戴かなくてはならず、それではイヴァン氏が病身に鞭打って作った財産が目減りしてしまう。貴女に手配を御願いしたい事はこちらの書類にまとめてあります……その前に、この件に関する私との契約書に、サインを」

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