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煙突掃除のフリック 第三話

 厨房にポーラが駆け戻って来た。


「ジェフロワさん! お嬢様がサバはだめだと……」

「なんだって……!」


 ジェフロワは頭を抱える。確かにサバは庶民的な食材だし、海から遠いここカトラスブルグに回って来るサバは塩漬けか油漬けの物が殆どだ。

 それを何とか、正餐の場に耐える物として装飾しようと奮闘していたのだが……


「それでは……魚料理が出せない!」

「ブルーノ、いいんだ、お前はそのロブスターに集中しろ……」

「ですが、どうするんですか料理長……魚が無ければ……」

「卵をあるだけ持って来い! 魚の形に焼いたオムレツを作るんだ!」

「料理長! 自棄を起こさないで下さい!」


 紛糾する厨房。皆がままならない状況に、少しずつ苛立ちを募らせていた、その時。裏庭からの勝手口を、誰かが開けた。


「誰だ!? 泥だらけじゃないか、そこから入るな!」


 料理人の一人が、そこに立ち塞がる。


「こいつを獲って来た」


 訪問者は草に結んだ、大振りで太った見事な鮭を持ち上げ、その料理人に差し出した。


「……トマじゃないか! 獲ったって、川で格闘でもして来たのか!?」

「サバしか買えなかったって聞いたからな。もう少し明るい時間ならもっと早くに獲れたんだけど」

「いやお前、もうじき十一月だぞ……よくそんな真似が出来るな……」

「いいから、急いだ方がいいんじゃないのか、最高の逸品に仕上げてくれよな……ひえっくしょい! うう、早く帰って火に当たろう」



 庭師見習いのトマは、屋敷の敷地内の長屋の一つに住んでいる。

 一刻も早く長屋に帰り、着替えて火に当たりたい……今のトマに考えられる事はそれだけだった。

 同時にトマは思い出す。煙突掃除をまだやっていなかった。まあ今日は仕方ない、明日にでもやらないと……


 そんな事を考えながら歩いて行くトマの正面から、誰かが駆けて来る……少年のような姿だが、ポーラ以外でこの屋敷にあのくらいの子供が居ただろうか?


「こんばんは! 屋敷の人かい? 頼まれてた煙突掃除、長屋の方は終わったよ! エドモンさんにそう伝えておくれよ」

「……お前真っ黒じゃないか」

「お兄さんも真っ黒だよ!」


 辺りがもう暗くなっているせいもあったが、泥やら煤やらで汚れている二人は、顔見知りであってもお互い誰だか解らなかったかもしれない。

 二人は声を合わせて笑うと、トマは長屋の方へ、少年は屋敷の方へと歩いて行く。



     ◇◇◇◇◇



「最近、ピアノの演奏を聞いておりませんわ。この町にももっといろんなピアニストが来て下さったらいいのに」

「エレーヌ殿も、ピアノ演奏は嗜まれておられませんでしたか」

「そうですわね、訳あって今は少しお休みしておりますが、学業が一段落したらまた励んでみたいと思いますの」


 魚料理がなかなか来ない苛立ちを隠しつつ、エレーヌは様々な話題を繰り出して正餐の場を繋いでいた。そこへようやく。


「お待たせ致しました。魚料理は鮭のグリエでございます」


 クロッシュが乗せられたワゴンを押して来たディミトリは静かにそう言って、クロッシュを持ち上げる。しかし、そこにあったのは賄いにでも出すようなサバの切り身のフライだった。


 たちまちエレーヌが逆毛でも立てたような表情でディミトリを睨む。


「失礼致しました! 鮭のグリエはこちらですわ!」


 奥からヘルダが、可能な限り急ぎつつ静々と、別のトレイを持って現れる。しかしどうもそのトレイがかなり重いらしく、誰の目にも解る程よろめいている。


「……大丈夫ですか?」


 アンドレイが思わず声を掛けるが、すぐにサリエルがヘルダからそのかなり大きなクロッシュのついた大きなトレイをそっと受け取る。サリエルはトレイを左手だけで軽々と持ち、そのままクロッシュを取り外す。


 クロッシュの中にはかなり重量のありそうな、レリーフの施された鋳物のグリルコンロが入っていた。本来これはワゴンに乗せて来て二人でテーブルに移す手筈てはずだったのではないか。


 サリエルは開き直り、二人分の鮭のグリエが乗ったグリルコンロを片手で、グラスでも置くかのようにそっとテーブルに置く。

 エレーヌはサリエルを睨んでいたが、サリエルは気づかないふりをしていた。


 さて、鮭のグリエは半分完成しているのだが、客の目の前でもう一度火を通してみせなくてはならない。厨房のジェフロワ達の時間稼ぎの一策だろう。


 燃料はコンロにセットされているが……サリエルはマッチを持っていなかった。ヘルダも持っていない。ディミトリも。


 サリエルは思わずエレーヌをちらりと見てしまった。持ってる訳ないでしょうこのすかぽんたん! エレーヌは目でサリエルに最大限の威嚇をする。


 まさかアンドレイ男爵に火を借りなくてはいけないのだろうか。サリエルもヘルダもただ冷や汗を流したまま、時間が過ぎて行く。


「あの……どなたかマッチをお持ちではありませんか……」


 ディミトリが意を決したように呟き出すのを、エレーヌがキッと睨みつけた、その瞬間。給仕の末席に居たポーラが、緊張に手足をきしませながら前に進み出て、テーブルの燭台に掛けられていた火のついた蝋燭ろうそくを一つ取り、そっとディミトリに差し出す。


「ぷっ……」「くっ……」


 方々でメイドや執事見習いが、必死で笑いを堪えていた。エレーヌは声のした方々を睨み付け威嚇する。


 とにかく鮭のグリエのコンロには火が点った。




「今年も乗馬大会には参加されるのですか?」


 グリエが完成するのを待つ間。アンドレイがそう切り出した。


 傍らで聞いていたサリエルは内心驚く。その話題はアンドレイが避けたい話題だったのではないか。市の馬術大会にはエレーヌやアンドレイも出ていたが、モンティエも出ていたのだ。


 今年はモンティエは出られまい。他ならぬこのアンドレイが、彼を南半球の海外領土に飛ばしたのだから。


「そうですわね。今年はもう少し色の良いメダルを頂きたいですわ! 去年もその前も女子で三位でしたもの!」


 エレーヌの声が普段より一オクターブ高い。純真な少女を演じておられる……サリエルはそう思った。


「そうでしたか……私も是非御一緒したかったのですが、今年は軍の用事の方が先になるかもしれません」


 アンドレイは残念そうに言った。エレーヌもすぐに応じる。


「まあ……最近国際関係ではあまり良いニュースを聞きませんわ……皆様が安心して暮らせる世の中が続けばいいのに。アンドレイ様もどうかお体にはお気をつけて下さいませ」



     ◇◇◇◇◇



 どうにか魚料理を乗り越えた厨房は、一時の緊張からは解放されつつあった。牛肉はさすがに材料の在庫もある。あとは肉料理で無難な物を出して、メインに繋ぐだけだ。


 肉料理はジェフロワが直接担当する。シンプルな仔牛のフィレ肉のソテーなら、口の奢った男爵からも及第点は貰えるだろう。

 それでもジェフロワには及第点で済ませるのは口惜しいという想いもあった。


「せめて朝のうちに言っていただけていればな……季節の香草にきのこ、フォアグラ……トリュフも今ならいいのが手に入ったろうに」


 そんな中ブルーノは、市内を駆け回ってどうにか手に入れて来た、売れ残りの痩せたオマールロブスター二匹を相手に、ずっと何かをやっていた。

 その様子を見ていた別の見習いの一人が、自分の付け合せの野菜を整える手を止め、震え上がる。


 ブルーノの手並みは料理をしているというよりは、手術をしているかのようだった。

 元々痩せたロブスターの身を減らさないよう、細心の注意を払いながら甲羅を切り開き、丁寧に身を取り出し、やはり身を減らさないよう個々に用心して加熱して行く……一体彼は何を作っているのだろう。


「ブルーノ、そろそろデザートの方にもかからないと……」

「いや、デザートは俺達でやろう、ブルーノはロブスターに集中してくれ」


 ジェフロワ達がそんな話をしていると。また、裏庭からの勝手口を、誰かが開けた。


「またトマか? 賄いなら使用人用ダイニングにあるぞ……って、お前は誰だ!」


 見習いの一人が立ち塞がって止めたのは、顔じゅう煤だらけの、一目見て煙突掃除屋だと解る道具をぶら下げた、十歳くらいの少年だった。


「母屋の真ん中の煙突は、どっから入ったらいいの?」

「はあ!? お前まさか今この屋敷の煙突掃除をしようってのか!?」

「エドモンさんに頼まれたんだぞ。向こう側の煙突はもうやったよ」


 少年はオーギュスト伯爵の区画がある側を指差す。


「冗談じゃない! 今は大事なお客様を招いての正餐の最中だぞ!? そんな時に煙突掃除なんかされてたまるか!」

「セイサン? よくわかんないけど、そんなに怒らなくたっていいじゃないか。いいよ、他で聞くから」

「あ、おい! ちょっと待て!」


 素早く立ち去った少年を追い掛け、見習いは少し後を追ったが、少年の姿は夜の闇と煤の相性の良さもあってか、すぐに見えなくなってしまった。


「全く、エドモンは何を考えてるんだ」


 ジェフロワが料理を仕上げながら呟く。

 ブルーノはそれらの騒動に全く気付かず、一心不乱にオマールロブスターの手術を続けていた。

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