弁護士クロヴィス・クラピソン 第二話
翌日。
伯爵屋敷の馬車が戻って来た。聖ヴァランティーヌ学院より下校する、伯爵令嬢と側仕えのメイドを乗せて。
伯爵夫人のクリスティーナが屋敷に居る時でもなければ、エレーヌは馬車の扉は自分で開ける。そして通学鞄はサリエルに持たせ、自分は手ぶらで降りて来る。
執事やメイド達もいちいち迎えには出て来ない。もちろんその場に居れば御辞儀くらいはするが。
「お帰りなさいませ、お嬢様。マナドゥ先生がお見えですわ」
今日は伯爵屋敷のロータリーの辺りを掃除していたヘルダが、エレーヌに近づいてそう言った。
「マナドゥ先生が? 私、別に医者に用は無くてよ」
「先日の、お嬢様からの御依頼の件だそうですが」
そのマナドゥは応接間に通されていたが、エレーヌが戻って来た事を察し、自分からロータリーの方に出て来た。
「近くに往診のついでがありましたので、待たせていただきました」
そう言って現れたマナドゥに対し、エレーヌはいつも通り。斜めに構えて胸を反らす。
「あら、最近はお暇になられたのかしら? 世間では風邪を引いている人も多いようですのに。今日はもう次の往診のあてがございませんの?」
「お嬢様、それは失礼でございます……先生はお忙しい方でございますのよ」
エレーヌの無礼な言い草を、ヘルダが窘める。しかしマナドゥの方はまるで気にした様子もなく、薄笑いを浮かべたまま診察鞄から書類を取り出す。
「先日の少年の姉妹に関する……」
マナドゥがそう切り出した瞬間。居丈高に腕組みをして澄ましていたエレーヌが、マナドゥに襲いかかるように突進し、その手首を掴み、ロータリーの隅の方へ引っ張って行く。
突然の事に、ヘルダもサリエルも呆気に取られたままそれを見送っていた。
「大きな声で人聞きの悪い話をしないで下さるかしら!」
「これは失敬」
エレーヌはその後も不機嫌そうに眉間をしかめて話を聞き、時々何事か尋ね、マナドゥは薄笑いを浮かべたまま、エレーヌに何かを丁寧に説明し、言って聞かせていた。サリエルの所からでは、二人が何を話して居るのかは聞き取れない。
「労咳や喘息の類ではありません。ただ、栄養状態は良くありませんでした。今までお金がなかったのもありましたが、子供だけの世帯ですので、食べやすい物にばかり食事が偏っていたのです」
「私、薬を出すように申し上げたはずですわ、何故請求書に薬代がございませんの?」
「ですから、薬が要るような話では無かったのです。時々往診のついでに立ち寄って栄養指導をしただけですから」
「ではその分を計上なさい。伯爵家の懐具合に遠慮でもなさってますの?」
「料理を教えるのは医者の仕事に入りませんよ。そもそも貴女は何故あの子達を助けようと考えられたのですか?」
「勘繰りは無用ですわ! 貴方は言われた事をして下されば結構ですのよ!」
サリエルは二人の様子をぼんやりと見ていた。エレーヌは終始不機嫌そうに見えるが本当のところはどうなのか。それは解らない。
だけどマナドゥ先生は何故あんなに楽しそうなのだろう。
思えばお嬢様がマナドゥ先生に何をしたというのか。いつも失礼な事しか言ってないしどこかで接点があったようにも見えない。
大尉はまだ乗馬クラブでの面識もあったかもしれないが……エレーヌは自身の怪我などの時にはフーリエ先生を呼ぶし、思えば、この二人にはどんな繋がりがあるのか、サリエルにはさっぱり解らない。
「……」
サリエルの脳裏にまた黒雲が湧く……マナドゥとの面識は自分の方があると思う。しかし……マナドゥが誕生日パーティを企画し誘ったのは、自分ではなくエレーヌの方だった。それは世界一美しい伯爵令嬢と平凡な家政婦では、仕方の無い事なのか……
サリエルは激しく首を振る。そんな事を考えるものではない。それにあのパーティは共通の友人としてサリエルやマナドゥの妹、ミリーナ、さらにはコンスタンのバレエ教室の生徒達も招くという、他愛のないものだったではないか。
しかし、その首を振っている所を、ちょうど振り返ったエレーヌに見られた。
「何ぼさっとしてらっしゃるの! 早く物理の宿題を……コホン、私がやるのですから、その鞄を私の書斎に持って行きなさい! 全くグズなんだから……いえ、あんな風に首を振るのは雌鶏かしらね」
エレーヌはそう言って、マナドゥからもサリエルからも離れて、何故か裏庭の方へ歩いて行く。
サリエルは小さく溜息をついた。
「申し訳ありませんマナドゥ先生、お嬢様は最近ずっと機嫌が悪いのです」
アンドレイを招いての正餐と大騒ぎから三週間近く経つ。
エレーヌは確かにあの後暫くは何となく機嫌が悪かったが、近頃では平常に戻っていた。これは実際にはエレーヌの機嫌が悪いのではなく、サリエルの気持ちが晴れていないだけなのだが、サリエル本人はその事に気付いていなかった。
「そうですか? 私にはいつも通りに見えますよ」
マナドゥはそう言ってただ微笑んで、先程エレーヌに見せていた書類を鞄に戻す。
「お邪魔を致しました。今年は気温が下がるのが早いようですから、皆さま体を冷やさないようお気をつけ下さい」
「あの……」
サリエルは小さく何かを言い掛けたが、マナドゥはそれに気づかなかった。
ロータリーの端にはマナドゥの馬車が寄せてあった。マナドゥはそれに乗り込み、屋敷を立ち去って行く。
サリエルはその後ろ姿を見送る……今の書類は何だったのか。何が書かれていたのか……それは、お嬢様とマナドゥ先生の間の秘密で、メイドのサリエルには知らせて貰えない事なのか。
思えばリシャール・モンティエ大尉の時も。サリエルは肝心な事はお嬢様からもリシャールからも、何一つ知らせては貰えなかった。
サリエルからすればお嬢様とはもう十二年の付き合いがあるし、陸軍のモンティエ大尉とは同じ伝習所に通う杖術の兄弟弟子として長年の面識があるつもりで居た。
それなのに。エレーヌはリシャールの事は何も話してくれないし、リシャールは自分の手紙に返信してくれない。もしかすると開封すらしていない……
自分はずっと、蚊帳の外だ。
そして今。
マティアス・マナドゥ……若いのに大変優秀で人望もある医師で、心優しく芯は強く、真面目で女遊びもしない、その上怜悧な美男子……そんな、サリエルの交友範囲の中ではリシャール・モンティエと並ぶ最高レベルの物件が……正直、お嬢様よりは自分の方が先に見つけていたという物件が……またしても、自分を蚊帳の外にして、お嬢様と二人、何かを謀っていらっしゃる。
お嬢様をこよなく愛し、周囲の良き人々を敬い、世の中に良かれと思って生きるサリエルも、中身は生身の人間だった。




