弁護士クロヴィス・クラピソン 第一話
十一月も後半に入った。街路樹の葉がすっかり落ちて色褪せた街角を、厚着の人々が行き交う。
通りすがりの老人が一人、冷え切った手を擦り合わせる。出掛ける時に、春にしまった手袋が見つからなかったのだ。まだ冬本番には程遠いのは幸いだが、この町の冬を手袋なしで過ごすのは辛い。
カトラスブルグの市営の街灯は多くが電化を終えていた。
老人はかつては夕方に方々のオイル街灯やガス街灯に点火して回る仕事をしていた。汚れたランプシェードを掃除したり、オイルランプの芯を取り替えたり。老人はガス灯を修理する技能だって持っている。しかし今やその技術も無用の長物だ。
時代が移ろい、世の中が様変わりして行くのは仕方の無い事ではあるのだが。
近頃はどうも、仕事を無くす者が多過ぎるような気がする。自分のような老人の仕事が無くなるのは仕方無いが、若い者の仕事が無くなるのはどうした事か。老人は街角の職業訓練所の前で時間を潰している青年や壮年達を見て、溜息をつく。
◇◇◇◇◇
カトラスブルグの郊外。今は冬の眠りについたブドウ畑に半ば囲まれたストーンハート伯爵家の屋敷。その門前では筆頭庭師のエドモンが門番をしていた。
門番と言っても、門の内側にある雨除けの屋根の下に置いた椅子に腰掛け、新聞を読んでいるだけなのだが。
時刻は午後三時。街の方から一人の若者が駆けて来る。この辺りを担当する郵便配達夫のバスティアンだ。
「郵便だよ! 今日は五通もあるね」
「ほう、五通は珍しいな」
エドモンは立ち上がり、バスティアンから封筒の束を受け取る。今日のエドモンは別に手紙を待っていた訳ではない。ただ門番をしていただけである。
「それじゃ」
バスティアンも普通に、次の配達先へと駆けて行く。エドモンは手紙の宛先を検めていたが。ある手紙の宛名を見て、急いで通りに飛び出して叫ぶ。
「バスティアン! この手紙は本当にここか!?」
エドモンが手紙を振りかざす。呼び止められたバスティアンは急いで戻って来る。エドモンはその手紙の宛名を見せる。
「マンフレートなんて奴はうちには居ないぞ」
「えっ……でも住所はここじゃないの?」
「見ろ、他の手紙を。うち宛の手紙はどれも住所なんか書いてない、カトラスブルグ、ストーンハート屋敷、だけで来てる。この手紙だけ住所が書いてあるのはおかしいだろう?」
「いや、本当は住所を書いてくれなきゃ困るんだけどな。本当にマンフレートで心当たりは無いの? ミドルネームとかかもしれないよ」
「……土地柄、この辺りには川の向こうから来た名前の奴も多いけど、伯爵屋敷には居ないよ」
「そう……じゃあこれは差出人に返送にしておくよ」
バスティアンはそう言って、その手紙を引き取り、再び駆け出して行く。
エドモンは残りの手紙を見る。二通はサリエル宛てだ。一時期程ではないがまだよく届く。もう一通はディミトリ。
そしてもう一通……エドモンは、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハート宛と書いてあるその封筒を、乱暴に開封し、中の便箋を取り出す。
『ピアノ売ってちょうだい』
「……またか」
エドモンは苦笑いをして、その中古ピアノ買取会社からのコマーシャル便箋を捻って丸め、ポケットに押し込む。
◇◇◇◇◇
屋敷一のベテランメイドのヘルダはエドモンから受け取った手紙を手に、サリエルの私室の前にやって来た。サリエルの部屋はエレーヌの区画の入り口の隣にある。
「サリエル、いいかしら?」
「はい、ただ今!」
自室のデスクに向かい、物理学の宿題に取り組んでいたサリエルは小走りに駆けて来て扉を開ける。
「貴女に手紙よ」
「ああ……ありがとうございます」
「気の無い返事ね。ふふ」
ヘルダは立ち去ろうとする。ディミトリ宛の手紙をまだ届けてないのだ。
「あの、お待ちになって……お嬢様宛ての手紙は無いかしら?」
「ありましたけど、またピアノ買い取り業者ですわ」
サリエルは一度辺りを見回す。お嬢様は居ないように見える。
「リシャール……モンティエ大尉から手紙は……」
「来てないわ」
ヘルダはかぶりを振り、サリエルは肩を落とす。
リシャール・モンティエ大尉が南半球の任地に旅立ったのは一ヶ月ちょっと前。
行き先は庭師見習いのトマが調べてくれたので解っている。ヒストリア王国。南に六千キロメートルの彼方。
エレーヌが何度言っても動こうとしないので、サリエルは独自に、大尉に手紙を出していた。その返事がそろそろ来るのではないかと、サリエルは期待していたのだが。
「ヘルダお姉様……大尉はちゃんと手紙を見て下さったのかしら? そろそろ返事が来てもおかしくないのに。私、念を押して電報まで出しましたの」
サリエルはかなり年上のその先輩メイドに率直に尋ねる。
「そうねえ……でもねサリエル、貴女だって今日届いた自分宛の手紙を見るつもりもないのでしょう? 受け取った手紙をどうするかはその人の自由なのですわ」
モンティエが手紙を見ても居ないという事があるだろうか。あると思う。モンティエの性格を考えると十分にある。
大尉は任務の為に異国に行ったのだし、彼はいつまでもカトラスブルグでの出来事を未練に思うような男ではない。
「お嬢様本人からの手紙ならともかく。貴女の名前で出したのでしょう?」
結局エレーヌはモンティエからの手紙に対し、何一つ反応を示さなかった。会いに行く事も言伝を送る事もしていないし、手紙として返事を出す事すらしていない。
少なくともモンティエの方からはそう見えるだろう。エレーヌはあの手紙を完全に無視したのだと。
そういう状況で、エレーヌ本人ではなく、その側仕えのメイドから手紙が来た所で、モンティエがそれを開封する気になるだろうか。
「それに遠いところですから、単に手紙はまだ海の上なのかもしれませんわ」
ヘルダはそう言って、今度こそディミトリを探す為に立ち去って行く。
サリエルはデスクに戻り、綺麗に整頓された引き出しからペーパーナイフを取り出し、自分宛の二通の手紙を開封する。
一通はワインの瓶詰め加工場のオーナーからだ。伯爵家のワインの加工も請け負っている、女房子供が居るのに影でこそこそ若い女の尻ばかり追い回している男だ。
もう一通は市内の証券会社の社員からだ。道で見掛けた程度の縁で手紙を寄越すようになったのだが、若いのにもう二度も自分の浮気から離婚しているらしい。
サリエルは死んだように感情の無い目で両方の手紙にきちんと目を通した後、それを元通り折り畳み、書類棚の中に放り込んだ。中には似たような手紙がたくさん入っている。
サリエルは別にこういう手紙を大事にしている訳ではない。万一送り主から「手紙を返せ」と言われた時にきっちり返して縁を切れるように、念の為保管しているだけだ。
サリエルは時々、自分をエレーヌに仕える機械だと思うようする事がある。何故そんな事をするかといえば、サリエルも生身の人間だからだ。
「……」
全く感情の無い目で、サリエルはしばらく書類棚の手紙の束を見つめていた。
あれは他に愛人が三人も居るという貸金業のハゲからの手紙。あれは女に貢ぎ過ぎて破産した自称ジゴロから。あれは孫まで居る金融通りの地主から……
――午後八時にカトラスブルグを出る汽車に乗れば、お見送りに間に合います
――その事はもういいと申し上げたはずですわ
サリエルの脳裏に、あの日。けん玉に夢中になっていたエレーヌの姿が蘇る。今ならモンティエ……リシャールの見送りに間に合うと言っているのに、何ら頓着せずけん玉に夢中になっている、エレーヌの姿が。
サリエルも生身の人間である。
何故お嬢様はあれだけの男をあっさり切り捨てるのか。何故お嬢様は何も努力しなくても大尉に愛されたのか。お嬢様が世界一美しいからか。それだけか。
何故リシャールは、お嬢様には柄にもなくあんな手紙を出すくせに、私の手紙は開封すらしないのか。
そして何故頼んでも居ないのに私に手紙を寄越すのは、こんな連中ばかりなのか。
サリエルの胸中に、禍々しく歪んだ黒雲が渦巻く……しかしそこで正気に戻ったサリエルは、首を振って邪念を振り払う。




