煙突掃除のフリック 第二話
午後七時……黒塗りの四頭立ての馬車はやって来た。
執事長ディミトリがロータリーまで出迎え、馬車の扉を開ける。
そして馬車より降りて来たのは……軽いウェーブのかかった金髪、長身の美男子、アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク男爵。二十五歳。
正礼装の燕尾服をきちんと着込み、シルクハットを被ったその姿は、どこから見ても、どこへ出ても恥じる事の無い、立派な青年貴族のように見えた。
屋敷のメイドの一人として、サリエルも。普段は着ない正餐用のメイドドレスを身に着け、淑女らしいメイクをして、男爵をお迎えし礼をする、伯爵屋敷の使用人の列の中にあったのだが。
サリエルは男爵の姿を正視する事が出来なかった。男爵が馬車から伯爵屋敷の玄関へと向かい、歩いて来て、目の前を通る時も。サリエルは視線を伏せていた。
サリエルは知っていた。アンドレイ男爵は、陸軍師団の参謀顧問であるという自身の立場を利用し、エレーヌが想いを寄せ、またエレーヌに想いを寄せていた男性……陸軍大尉リシャール・モンティエを、南半球の危険な任地に転任させたのだ。
男爵は二人の恋路を邪魔した男だった。しかしサリエルは、自分も二人の恋路を邪魔した女だと思っていた。
サリエルが男装し名前を偽り、アンドレイ男爵をベアトリクス教会の裏の庭園におびきだし、決闘をしたのは……まだほんの二週間前の事だ。
アンドレイの方は、目の前のメイドの一人が、あの日自分を杖の一撃で昏倒させた男装の麗人、オーバン・オーブリーだとは気づかなかった。
「まあ! 急なお誘いでしたから、お越しいただけるかとても不安でしたのよ! アンドレイ様! ようこそお越しくださいました!」
伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは計算していたかのように、アンドレイが玄関を通りホールに入った所で、二階からの大階段を降りて来た。
かなり裾の長い、青く艶やかなシルクのイブニングドレスは、ホルターネックで肩口の露出も控えめ、背中もあまり大きく出ていない。
メイクも清楚さを演出するような、一見控え目風だが実は気合の入ったものだ。
そして何より普段と別人なのは、声の調子である。普段とは別人のように人当たりが良さそうで淑やかなものなのだ。エレーヌは、かなり、作っていた。
お嬢様……悪いとは申し上げませんが、あまりお嬢様らしくないですわ……サリエルは密かに思った。
これは恐らく、アンドレイ男爵の好みなのだろう。あの男爵が持つエレーヌへの幻想に、エレーヌが合わせているのだ。
――なぜですかお嬢様……なぜその男にそんな気を遣うのですか。お嬢様は、身近な美男子ならなんでもいい方だったのですか。
ジェフロワをはじめとするストーンハート屋敷の料理人チームは厨房で奮闘していた。女主人の号令から男爵の来訪まで三時間も無かったのだ。
普通の夕食を作るのならともかく、たったそれだけの時間で正餐の用意をしろというのだからたまらない。
「ジェフロワ料理長……やはりメインディッシュにはビーフシチューをお出しするしかありません」
ストーンハート屋敷の料理チームで、二十二歳の若さで主任パティシエを務めるブルーノが、まな板の上に乗った痩せ細ったロブスターを見つめてつぶやく。
夕方から正餐の準備をしろと言われて急いで市場に行っても、上等の食材は既に店頭から姿を消していた。
しかし。ストーンハート家のチーフシェフ、ジェフロワは首を振る。
「ビーフシチューは昨日出した」
「しかし……! 男爵が来られる事は想定外でした、ビーフシチューをお出しする事もやむをえないのでは……」
「だからと言って主人に昨日と同じ物を供するのは料理人の名折れだ! この痩せたロブスターを最高の品にするんだ。ブルーノ。お前の力を貸せ」
屋敷には複数のダイニングがある。そのうち一番大きなダイニングは、本来は来賓があった時のみに使うもので、正に今日のような日の為に使う部屋になる。
「オーギュスト様がいらっしゃらない時に来て良いものか、少々憚りました。後でお叱りを受けなければ宜しいのですが」
「まあ。私ももう十七歳ですのよ。そこまでお父様に何でもお伺いを立てる歳ではございませんわ」
エレーヌは自らアンドレイをダイニングまで案内して来た。広い正餐用ダイニングにはたくさんのランプや燭台が灯されていた。
「再会を祝して! アンドレイ様の健康と武運を祈りますわ」
「エレーヌ殿の美と健康に。お招き誠に感謝致します。乾杯」
食前酒、アミューズ、オードブル……提供される食材には多数の、ストーンハート家の屋敷の庭や畑で収穫された物が取り入れられていた。
季節の食材を、屋敷の専属の料理人が調理した逸品。アンドレイ男爵に提供された料理は、カトラスブルグの名店、バルタザールのレストランにもひけを取らない物ばかりだった……ここまでの所は。
「……オーギュスト様は。最近はこちらに戻られてますか」
「先週、この国には戻られたようですわ……その後はずっと王宮にいらっしゃるようですの」
その一言以外は。エレーヌとアンドレイは、バレエや交響楽団、オペラ、詩文など、最近の芸術と興行の話ばかりに花を咲かせていた。
エレーヌは伯爵令嬢として。アンドレイは男爵家当主として。見た目にも美しい二人は、理想のカップルに見えるかもしれない。
この正餐を一人のメイドとして、給仕をしつつ眺めていたサリエルの心情は複雑だった。
確かに見た目は悪くない。むしろ望む以上のものだ。アンドレイ男爵が美青年である事は認めざるを得ない。
しかしそれが何だと言うのか。あの日サリエルの前に現れた男は、メイドのサリエルに完封されるような、取るに足りない男だった。
ふと、メイドの一人……伯爵屋敷の使用人では最年少のポーラが、緊張した面持ちで壁際を……サリエルの方に忍び歩いて来る。
「どうしたの? ポーラ」
サリエルの方も近づいて、小声で囁く。
ポーラは小さな眉間に皺を寄せて、震える声で答える。
「ジェフロワさんが……魚がサバしかないとお嬢様にお伝えするようにと……」
サリエルはそろり、そろりと横歩きでエレーヌの背後に近づく。そして何とか話の合間に、エレーヌに囁こうとするのだが。
「時に……エレーヌ殿は、レアルの社交界には興味が無いのですか?」
アンドレイ男爵が、ちょうどそんな話題をエレーヌに振った。
サリエルも以前からそれは不思議に思っていたのである。
エレーヌは十七歳、父は国王の覚えめでたきオーギュスト伯爵、何故これまでそういう話が無かったのか。
サリエルの知る限り、エレーヌは列車の乗り換え以外でレアルに居た事が無い。クリスティーナ……エレーヌの母は折々にそろそろ縁談は無いのかとエレーヌに言うのだが、そんなクリスティーナもエレーヌを社交界に連れて行こうとはしない。
「少々お待ち下さるかしら……サリエルさん? どうしたのですか?」
サリエルは飛び上がりそうになるのを堪える。エレーヌがこちらを向いたのだ。その声は猫なで声だったが、その表情はアンドレイから見えない角度という事もあって、苛立った狼犬のように顰められていた。
サリエルは小声で言った。
「……魚がサバしかありません」
「……有り得ないと伝えなさい」
エレーヌも小声で答える。
冷や汗が吹き出すような心地を堪え、サリエルは後づさる。そしてポーラの所に戻る。
「お嬢様が絶対駄目だと……」
「そんな……! ジェフロワさん達、とても困っています!」
「伝えるのよ、ポーラ……貴女は伝えるだけでいいのよ……」
そんな裏方の困惑も意に介さないように、エレーヌはアンドレイに向き直る。
「私は、ただの田舎娘ですもの。レアルで教養を身に着けられたアンドレイ様とは違いますわ。言葉の訛りも抜けませんし」
「はは、御冗談を……貴女が社交界デビューすれば、たちまち大勢の求婚者に囲まれるでしょうね……それは決して良い事ばかりでもありませんが」
サリエルは思う。ほら見た事かと。アンドレイはエレーヌを社交界デビューさせたい訳ではない。むしろそれを阻止したいのだろう。それでかまをかけたのだ。