煙突掃除のフリック 第十八話
「サリエル殿……!」
アンドレイは己の隙を恥じていた。ぼんやりしていた自分を。怪人はその瞬間に奇襲を掛けて来たのだ。
そして自分が止める事も出来ないまま……突如現れた怪人はサリエル嬢の頭に花瓶を振り下ろしてしまった。
近くに居た別のメイドが叫ぶ。
「きゃあああ! サリエルが!」
サリエルの姿が揺らぐ……背筋が波打ち、頭が振れ……ゆっくりと、崩れ落ちる。
――ガシャーン!
怪人の手から滑り落ちた花瓶も、床に落ちて砕け散る。
怪人は、自分が感情に任せて大変な失敗をしてしまった事に気付く。
最後の最後に。インパクトの瞬間には力を抜いたつもりだったのだが。そこまで衝撃は無かったはずなのだが。
自分が今ナッシュの姿である事を怪人は忘れていた。いつも通りの気持ちでサリエルに突っ込みを入れてしまったのだ。この姿でそんな事をしたら、他人の目には、男がサリエルを花瓶で殴ったようにしか見えない……
――ヒュッ……
音も無く飛んで来たレイピアの鋭い突きを、怪人は紙一重の所で交わす。アンドレイの剣は、確実に怪人の心臓目掛け突き出されていた。今、アンドレイから目を離すのは危険だった。
怪人はどうにか間合いを取る。幸い怪人は部屋の勝手を知り尽くしているので、どこに椅子やテーブルがあるかは振り向かなくても解る。
アンドレイの動きを見ながら家具の配置を生かして間合いを維持しようとする怪人。その行く手に別のメイドが立ち塞がる。普段は目立たない、大人しいメイドだ。彼女もマスケット銃を持っているが、怪人はそれには弾が入っていないという事を知っていた。次の瞬間。
「サリエルの仇ーッ!!」
屋敷中に響くかという程の大声で彼女は叫び、全長百二十センチメートル、四キログラムを越えるマスケット銃の銃身を両手で握り、台尻を振り下ろす。
決して侮れない一撃は、ぎりぎりで回避した怪人の鼻先五センチメートルを通過し、床に叩き付けられる。床材の物とも台尻の物とも知れぬ木片が散る。
自分がサリエルを攻撃した事で、皆のリミッターが外れたのだ。
殺される。
怪人はようやく、この部屋の防衛を諦めた。
「怪人よォォォ!」
リビングから続く控えの間に居た別のメイドが叫ぶ。怪人は命からがら、その前を駆け抜ける。その後を、本気の殺気を纏ったアンドレイが追い掛ける。
一方、リビングに残されたサリエルは再起動していた。うつ伏せから起き上がり、暗い光を目に宿したまま、怪人を追って立ち上がる。
サリエルは暖炉端に立て掛けてあった、重量のある暖炉用のスコップを手に取る。
怪人はどうにかエレーヌ用区画の入り口の両開きの扉に辿り着き、閉じかけていたその扉へと肩から体当たりする。
扉の反対側にはまた別のメイドが居て、急いで扉を締めようとしていたのだが、力と勢いに勝る怪人に扉ごと弾き飛ばされる。
「きゃーっ!?」
怪人は廊下に飛び出す。今度は窓ガラスを割ってでも外へ。そう思ったのだが。
廊下の途中に立っていたのは、それぞれ短銃を構えたジェフロワとディミトリだった。
「サリエルの仇!」
ジェフロワはそう叫ぶや否や、躊躇なく引き金を引いた。
――ドン!
全く何の計算もしていなかった怪人に出来る事は、その弾が当たらないよう祈る事だけだった。
武器は決闘用短銃、これは昔ながらの丸い弾丸を照準もついていない銃身から撃ち出すいい加減な銃だ。距離は八メートル。当たるか当たらないかは運次第となる。
時空が歪む。全てが百分の一の速さになった世界で、ジェフロワが放った弾丸は、怪人の右耳の横、五センチメートルの空間を通過して行く……
殺される。
怪人はもう一つの脅威に目を向ける。老練なディミトリは貴族の決闘術についての知識も持ち合わせていた。この銃で決闘する場合、恐れをなして先に引き金を引いてはいけないのだ。
確実に頭か心臓を撃ち抜ける距離まで近づいてから引き金を引くのが、真の紳士の嗜みである。
屋敷を預かる者として、サリエルを失った事は人生最大の屈辱である。あの娘は間違いなく女主人の一番のお気に入りだった。それを怪人に殺害されたとあっては……この上は確実に怪人を討ち取り、その首を最後の奉仕として屋敷を去るしかない。ディミトリはこの時、そう考えていた。
怪人はディミトリの表情を見てますます青ざめる。あれは怒りに任せて発砲したジェフロワとは全く別の人間だ。
背後から迫るアンドレイの気配も尋常ではない。最早アンドレイは紳士らしく不審者を取り押さえようとか、屋敷の者達を不審者から守ろうとは考えていないだろう。ただひたすらに、自分の命を奪いに来ている。
そして判断する時間は全く無い。
賭けるしかなかった。ディミトリが早めに引き金を引き、弾が外れる事に。怪人は真っ直ぐ廊下へと駆け出す。
待ち構える死と、背後から迫る死。
怪人は走る。青ざめ、震えながら。
ディミトリは冷静に、銃口で怪人の姿を追う。悲しみ、震えながら。
早く引き金を引け。そう念じる怪人。引き金を引かないディミトリ。その距離が、どんどん縮まる……
「あの……っ!」
しかし。その銃口を向けた先に、射線上に一瞬入ってしまったのは……屋敷の最年少メイド、幼いポーラだった。
「危ない!」
次の瞬間、怪人はディミトリの脇を駆け抜けた。ディミトリは引き金を引けなかった。僅かでもポーラに当たる可能性があるならそうすべきでないと考える、彼の人間としての感情が、死神の誘惑に勝ったのだ。
「ああ、ポーラ……こんな所に出て来てはいけない……」
ディミトリは膝から崩れ落ちる。その横を、怪人を追うアンドレイが無言で通過して行く。
サリエルの仇を討ちそびれた。ディミトリはそう考え、絶望の底に沈む。
「ポーラは隠れて!」
その横を、スコップを掲げたサリエルが元気に通過して行ったのは正にその直後だった。
オーギュストのリビングにもメイドは居て、暖炉の番をしていたが、ここは比較的守備が手薄だった。
「きゃあああ!」
突入して来た怪人を見て悲鳴を上げるメイド。オーギュストの書斎を見張っていたヘルダが駆け戻って来る。
これも、怪人には全く計算外だった。ヘルダの銃は装填されていた。ヘルダは脇に挟んで構えていたマスケット銃を怪人に向け、無言で引き金を引いた。
――ドン!
構え方も狙い方も間違っているが、弾丸は弾丸である。それは数メートル離れた壁に当たったものの、撃たれた方としては生きた心地がしない。
「ぎゃあっ……」
しかもヘルダは、そんな撃ち方をしたから脇を痛めたらしい。蹲るヘルダ……彼女も怪人の犠牲者にカウントされてしまうのだろうか。
とにかく怪人は暖炉の中の隠し扉に飛び込もうとしたが。暖炉には燃え盛る薪がくべられ、火の粉と煙を上げている。
後ろからは追手が迫る。もう躊躇してはいられない。
ここの隠し通路は他の通路と色合いが違う。ここからは地下構造まで一気に降りられるのだ。他の隠し通路に充満している煙も、地下には及んでいない可能性が高い。
そして地下室の先には水没した通路があり、外への脱出路がある。
屋敷に残した秘密は口惜しいが、今は生き延びる事が先決だ。
「か、怪人が火に飛び込みますわ!」
怪人は薪の燃えていない部分を押しやり、どうにか、暖炉の中の脇に潜り込むスペースを作ると、一言だけ神に祈り、息を止め、火に炙られながら隠し通路へと潜り込む。
その直後に飛び込んで来たアンドレイは、怪人の足が暖炉の中へと消えるのを目撃した。
「そこかッ……! くっ……」
命を惜しまぬアンドレイではあったが、怪人は隠し扉に完全に潜り込む前に、燃え盛る薪を蹴りつけ、自分が通った場所を使えないように火を広げていた。
そこに、サリエルが駆けつける。
「ただいま片付けます!」
さすがにこの状況を予想していた訳ではなかったが、サリエルはちょうど暖炉の中の灰を掻き出したりする為のスコップを持っていた。
「おのれ怪人……中は煙に閉ざされていないのか」
「地下へ逃げ込んだのですわ……そうよ! 一か所、ここから外に逃げられる場所がありましたわ! 大変……!」
「私に貸せ」
アンドレイはどこかから持って来ていたレイピアを置き、サリエルのスコップを借り暖炉の薪を掻き分ける。サリエルは窓辺に走り、窓を開けて叫ぶ。
「誰か! あの雑木林の中にある古井戸を見張って下さいませ! 怪人が出て来るかもしれませんわ!」
下にはちょうど、外周を警戒中のトマが居た。
「解った!」
「気をつけて! 誰か出て来たらすかさず頭を叩いて!」
その間にアンドレイの作業は終わり、再びレイピアを手にした男爵は、灰と煤に塗れた隠し通路へ先陣を切って潜り込もうとする。
その時である。
「ぎゃあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
隠し通路の奥から。甲高くも恐ろしい、女性の、大きな悲鳴が聞こえて来た。
アンドレイは振り向く。サリエルはこの上もなく青ざめる。
暖炉の周りにはディミトリ、ジェフロワ、ヘルダ、それに何故かポーラまで集まって来ていた。
「お嬢様の……悲鳴ですわ!!」
サリエルは震え声で叫んだ。