煙突掃除のフリック 第十七話
クロゼットの奥の隠し部屋を覗き込んだ二人は、その光景を見て言葉を失っていた。
二メートル四方程のその狭い空間には、一枚の鏡と小さなランプの他、一本のむき出しの細い梁があり、たくさんのハンガーが掛けられていた。
ハンガーには様々な服が掛けてあるのだが……その服がどうも、どれを見ても男物のようなのである。下着も、ズボンも上着も、皆男物だ。
そして壁には五センチメートル程の小さな写真がたくさん貼り付けてあった。撮られているのは皆同じ人物……しかしそれは全て明かりの少ない納戸の中で無理をして撮ったものらしく、光の当たり方が異様で、奇怪な様相になっている。
写真は全て、男装したエレーヌのものだった。
エレーヌはどこかを目指してメイクや衣装を工夫しては、それを写真に撮って研究していたらしい。
しかしそれは全く成果を上げていない。どの写真も。どの写真も。耽美な美青年とは程遠い、面白フェイスのエレーヌが写っている。
サリエルは床にへたり込む。
自分のせいだ。自分のせいでお嬢様は開けてはいけない扉を開けてしまったのだ。それもこんな無様に。サリエルはそう思った。
「アンドレイ様……どうか……どうか目を御逸らし下さい……これはその、きっとお嬢様のその、何かの間違い、いえ……そ、そうですわ! 最近お嬢様は少女歌劇団に興味をお持ちになられていたのです! それできっと、自分も……挑戦してみたいと……」
サリエルはブツブツと、声を落としたり急に大きくしたりしながら呟いていたが、その声はアンドレイの耳には届いていなかった。
アンドレイは急に屈み、眉間を押さえる。
「サリエル殿、ここを出よう。そこを空けて欲しい」
「は、はい、ただ今!」
サリエルが通り道を空けると、アンドレイは無言で出て行く。すると、先程まではアンドレイの背中に隠れて見えなかったエレーヌのもう一つの秘密が、サリエルの目にも入ってしまった。
「えっ……!」
そこには女性用の下着も数点あった。エレーヌの胸には少し大きいかという物から、エレーヌの胸には明らかに大き過ぎるという物まで。
エレーヌは大変裕福である。それと比べればサリエルは貧乏であると言える。しかし己が身体の話となると立場が逆転する。
エレーヌは言葉には出さないがやや貧困である自身の胸を折々につけ気にしており、サリエルは頼みもしないのに豊満になってしまった自身の胸を日々持て余していた。
見ればハンガーの下にはじゃがいもでも入れるような粗末な木箱があり、色々試してみたのだろうか、様々な詰め物が入っている。
さすがに写真には撮っていないようだが、お嬢様はここで密かにこんな詰め物をして大きめの下着を着て、鏡を見て何を思っていたのだろう。
サリエルは涙を拭い、クロゼットの扉を閉め、引き下がる。
クロゼットの奥から煙が出て来たという事は、その先の空間にも隠し通路に繋がる場所がある事を意味する。
二人がクロゼットを去った後で、隠し部屋のじゃがいも箱がずるずると横に滑る。
その下にはやはり空間があり……怪人は、そこから這い上がって来た。
「ゴフ、ゴフ……」
怪人の顔は煤と埃で真っ黒になっていた。だから誰かが見たとしても解らないのだが、怪人は今大変に赤面していた。
隠し部屋の床に這い上がった怪人は、暫く四つん這いのまま静止していた。それは煙で燻されて苦しかったからというのもあるが。
どうしてこんな事に。どうしてこんな事に。怪人の頭の中をその言葉が回る。何故なのか。自分が何をしたと言うのか。
そんな怪人の目の前に、先程動かした木箱の上から何かが転がり落ちて来た。それは油粘土をこねて作った型を、綿ハンカチで包んだ物だった。
油粘土は造型しやすいのはいいのだが、すぐに油がハンカチに染みてしまい、臭いが出て鼻につく。
怪人の脳裏に数日前の光景が蘇る。
自分のリビングに居たエレーヌはサリエルを呼ぼうと思いチャイムを手に取るが、ふと気まぐれを起こし、そのまま気配を消して、サリエルの部屋に向かう。
学校から帰ってすぐの時だったので、サリエルは姿見の前で着替えをしていた。
「嫌ですわ……また大きくなってる」
姿見に映ったサリエルは眉をハの字にして、コルセットを締めようとしていた。サリエルはすぐ、誰かに部屋の扉を開けられたのに気付いた。
「きゃっ……え……お嬢様、どうかなさいましたか?」
「……別に。コルセットが締まりませんの? 新しいのを買えば宜しいのに」
エレーヌは引きつった笑みを浮かべる。サリエルはどうにか無難な愛想笑いを浮かべようとしたが、やはりその笑みは引きつってしまった。
「恥ずかしながら、その……私、太ってしまって……それでコルセットが締まりにくくなってしまいまして」
「あら? 貴女つい最近過労で倒れたのではなくて? 私もマナドゥ先生に叱られましてよ? 使用人を苛め過ぎなのではないかと」
「そ、そのような事はございませんわ、私、お嬢様のおかげ様で毎日美味しい物をたくさん頂いておりますから、すっかり体重が増えてしまったのでございます」
――嫌ですわ……また大きくなってる
怪人の頭の中に、数日前に聞いたサリエルの言葉が何度も木霊する。
普段のサリエルは倹約家で、なかなか自分の物を買おうとしない。そこで彼女の女主人は時々、デザインが気に入らないとか着心地が悪いとか難癖をつけて、自分用の服などをサリエルに押し付ける。
主人である自分がそこまで気を使ってやっているのに。そんな八つ当たりに似た気持ちが、怪人の怒りを増幅させる。
――すっかり体重が増えてしまったのでございます
あのコルセットは胴囲は自分と同じサイズで、胸囲は自分より十センチメートルも大きく作らせた物だ。それが胴囲はすんなり入ったくせに何故胸囲が入らない。
――嫌ですわ……また大きくなってる
納戸からリビングへ無言で戻ったアンドレイ。それに無言でついて行くサリエル。
「私は……こんなつもりではなかった」
アンドレイが誰にともなく呟く。サリエルは項垂れ、言葉を探すが……何も思いつかず、結局黙っていた。
二人は少しの間、そのまま無言で佇んでいたが。再び口を開いたのは、アンドレイだった。
「エレーヌ殿には……申し訳無い事になってしまった」
「アンドレイ様……」
サリエルは顔を上げる。アンドレイは憂い顔だった。その表情には嘘偽りはないようだ。アンドレイは心からそう思っているらしい。
サリエルはここまでに起きた事を振り返る……
お嬢様がアンドレイをもてなすと言われた時は、何かの計略かと思った。お嬢様が本気でアンドレイをもてなしていると知った時には、何故そんな事をするのかと訝しんだ。
晩餐の途中でアンドレイは、自分がリシャールを海外赴任させたと言い出した。その事自体はサリエルは既に教会裏の決闘の時に聞いていたのだが。
そして……今。ここまでのアンドレイを見ていてサリエルは思う。
奸計を用いて恋敵を飛ばしたり、こっそり蝋人形を作って愛でたり、この男には残念でみすぼらしい部分もあるのだが……アンドレイの、お嬢様への気持ちには、二心は無かったのではないだろうかと。
正直、リシャールには劣る。サリエルの中では、やはりリシャールの方が数段上ではあるが……アンドレイも決して捨てた物ではないような気がして来た。
そうなると、今度は逆の事が心配になって来るのである。アンドレイは今までお嬢様の事を穢れなき天使と思っていたのだろう。それは全く間違いではなくお嬢様は実際穢れなき天使なのだが、その事が伝わり辛い時もある。
ともかく今回の事で、アンドレイの方がお嬢様に幻滅してしまうような事があったらどうしよう。
今、自分に出来る事は何だろう? 自分は今何を言うべきか?
「あ、あの、アンドレイ様、お嬢様は決して、自分の胸の事を」
サリエルが何かの覚悟を決め、そう口を開いた瞬間。
――バンッ……!
先程アンドレイとサリエルが出て来た、納戸の扉が弾けるように開き……
怪人が……この上なく真っ赤な顔をしているのだが、付け髭と真っ黒い煤のせいで解らなくなっている、怪人が飛び出して来て……
「危ない……」
アンドレイが叫ぶ間も無く……
――ゴッ……!
振り向きかけていたサリエルの頭を……
「サリエル殿……!」
大理石の花瓶で、痛打した。